初めて訪れた冷たい白峰のふもとで、浴びたのは温かい陽光だった。
白峰と陽光
スールズは“白峰の村”と呼ばれる。
彼方に望む山々に冠する雪が、このところ表面積を増してきているのは決して気のせいではない。
南であれば暑さがやっと緩むころだと、安堵している人々もいるのだろうか。けれど、山村に訪れる冬は足が速い。そして、長くとどまる。一年でもっとも厳しい季節を控えて、今この時期はどの家も備えに余念がない。
視界の端できらめいた陽光に、ヴェイグは背負っていた木材をおろして空を振り仰いだ。
短い夏が終わり、秋も早足で過ぎ去ろうとしている。流れる雲は相変わらず真っ白で、爽快さ以外のなにものをも感じさせるわけではないが、風の冷たさが季節の移り変わりを教えてくれる。足元では枯れて瑞々しさを失った草が、かさかさと音をたてる。
冬に向けて、畑の手入れは済んでいる。もともとベネット夫妻のもつ畑は広くはない。養父と二人がかりで取り掛かれば、あっという間に仕事は終わってしまった。今はありったけの薪を集め、食料を蓄え。村人たちは急ぎながらもどこかのんびりと、訪れる寒さへの備えを進めている。
ヴェイグは道の柵を乗り越え、斜面に足を踏み入れた。地面が崩れそうになるのをふんばりながら、慎重に上ってゆく。丘の頂上まで登りきると、一気に視界が広くなる。そのさまを想像すると気ははやるが、急いでもあまりいいことはない。
「――――グー! ヴェイグ?」
「……クレア?」
彼は眉をひそめ、踵を返した。見下ろすと、柔らかな金髪の頭がひょこひょこと動いているのが見えた。道端に下ろした背負籠で居場所の目星をつけたようだが、まさか上にいるとは思っていないのだろう。しきりにきょろきょろしているのにちいさく嘆息して、ヴェイグは登ったときとは正反対の性急さで一気に斜面をすべりおりた。
「あ。上にいたのね、気がつかなかった」
にっこりする少女にこちらは意識して渋い顔を作る。
「クレア……まだ寝ていろと、医者は言っていなかったか?」
あの旅が終わった後、しばらくは息をつく暇もなかった。女王アガーテの、内々に行われた葬儀に出席してすぐ王都を発ち、しばらくは元気だったのだ、彼女は。
けれどやはり十七の娘にあの旅路は重かった。無理もない。一年間氷の中に閉じ込められ、やっと出られたと思えば拉致されて気の休まる暇もない。あげく他人の身体に心だけを押し込められ、一人で各地を転々とした。気丈な娘だということは重々わかっていたけれど、気持ちだけで体調のすべてを管理できれば苦労はない。
クレアは、慣れた家の戸口をくぐった途端にふらりと倒れ、そのまま高熱で数日間寝込んだ。
もう大丈夫だと医者に太鼓判を押されるまで、側を離れることも、ほかの事を考える余裕もできなかった。あと少し遅ければ、情けないことに今年の冬の準備もまたマルコに負担をかけてしまうことになりかねなかったのだ。アガーテのことも記憶に新しかった彼にはただの疲れだと片付けることができなくて、相変わらずだなと幼馴染たちの苦笑をもらった。短い間に過ぎるほどたくさんの経験をして、閉ざされていた世界が格段に広がっても、結局最後に行き着くところは同じだった。
ヴェイグは柵ごしに、クレアの正面に立って顔を近づけた。
「まだ顔が赤い」
そんなことない、と控えめに反論されるが、あまり陽に焼けていない彼女の顔色はすぐにわかる。急いできたのか知らないが、息もあがっているように感じる。柵を飛び越えようと手をかけると、そっとちいさな指が重ねられた。
「もうちょっと待って。私も上に行きたい。景色が見たいの」
「クレア」
「お願い。もうずっと部屋の中にいて、息が詰まりそうだったんだもの」
「……」
どうやら意思を曲げる気はないらしい。はあ、とため息をついて、彼は少女の華奢な身体を抱き上げた。足が空を掻いて、一瞬後にふわりと枯れ草の上に着地する。きゃあ、と楽しげに声をあげて笑うのに少しだけ口許を緩める。背中を支えるようにしてぴったりくっつきながら、登るクレアに続くが、彼女とて幼いころはここいら一帯を駆け回って遊んでいたのだ。しっかりした足取りで、確実に一歩一歩進んでゆく。危なげなところは見受けられない。
頂上に着くと同時、ざあ、と風が吹き抜けた。
見慣れた景色、慣れた場所。天気のいい日にはここで昼食をとることもあった。さすがに吹きさらしとなっている今は寒いが、初夏には大樹の葉が青々と生い茂り、木漏れ日の下がちょうどいい具合になる。一年以上、そんなこと思い出しも思いつきもしなかったけれど。
「ああ、久しぶり……!」
クレアが歓声をあげて歩き回る。つかず離れずの距離を保ちながらついてくるヴェイグを振り返り、笑う。
「ねえ、覚えてる? スールズに来たばっかりのころ、ヴェイグったら一日中ここで遠くを見てたわよね。話しかけても、全然返事してくれなくて」
「……返事しなかったか?」
クレアはうなずいた。
「無視してたんじゃなくて、気づいてなかったんだっていうのはわかってたんだけど……なんとか気を引けないかって、けっこういろいろ考えたのよ? スティーブが虫でもくっつけてやろうかって言ったり、モニカが虫は嫌って泣いたり。私はヴェイグをどうにかしたかったのに、二人のほうがどうにもならなくて結局私も泣いちゃったり」
「ああ……」
そういえばそんなこともあった。亡くなった両親や祖父のことを思いながら静かな気分で景色を眺めていたのに、背後から子どものやかましい泣き声が聞こえてきて。振り向いてぎょっとした。
それほど喧嘩っ早い気質ではなかったし、以前住んでいた街では同年代の遊び友達もあまりいなかった。子ども同士の遠慮会釈のない関係も知らなかったから、何がどうなってああいう状況に陥ったのかわからずにあたふたするしかできなかった。
「あの時は困ったな」
結局誰も泣き止まずに、ヴェイグはしゃくりあげるクレアの手を引いて家まで戻ったのだった。あのときの養母ラキヤの表情は今でも覚えている。一度ぽかんとして、それから困ったように小首をかしげた。自分も相当おぼつかない顔をしていたに違いない。その後数日間夕食の席で何度も話題になっては、へそを曲げていたような記憶がある。
「ここにね、座ってたのよね」
すとんと座り込んだクレアの風上に立つと、そっと服の袖を引っ張られた。おとなしく腰を下ろす。甘えるようにすりよってくるのを一瞬躊躇してから、その細い肩を包み込むように腕を回した。
「……やっぱりまだ熱があるだろう」
ひとりごとのようにつぶやく。
触れ合うことも寄り添うことも、ずっと日常茶飯事だった。家族なのだから当然のことだと思っていた。
けれど、一年間も氷に閉じ込められた彼女を見守り続けて。必死で求めた挙句、姿だけが入れ替わった彼女と再会して。昔ほど思うように振舞えなくなっていて、当然だと思っていたことが、少しずつ少しずつ変わりつつある。
指先で金髪を梳くと、さらさらと耳に慣れた音がした。すくい上げて、落とす。細い糸が、きらきら輝きながら風に流れてゆく。
「…………」
「なに?」
口を開きかけたヴェイグに気づいて、クレアがいつのまにか閉じていた瞳を開いた。間近にある翡翠を見つめ返して、かぶりを振る。
「いや、なんでもない。……帰ろう」
促すと、今度は彼女も素直に立ち上がった。寒くなってきたのだろう、無意識に身を縮めている。握りしめた手のひらは冷たかった。よりそって歩き出す。少しでも温かい思いができればいい。今の自分には、これくらいのことしかできない。
「……クレア」
「なに? ヴェイグ」
「なんでもない」
寒くないかと尋ねると、平気だと答えが返る。
与えられたものに対して、どれだけのものが返せるのだろうかと。考え続けて何年経ったのだろう。
いろいろなことがあった。自分も、そしておそらく、彼女も変わった。無邪気なままでい続けることなんてできない。精神的にも物理的にも、あのころのまま、まっすぐなだけの関係でいることはできない。
それでも、ただひとつだけ考える。願い続ける。
あの日からずっと、与えられ続けた光。過酷な旅路を支えてくれた想い。自分も同じだけのあたたかさで、彼女の心を照らし出せているだろうか。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
ヴェイグはクレア馬鹿ですから。
いやはや、あーそこまでクレアクレアとやかましいとは思わなかったなあ(笑)
でもそこがいいんだよなあ…
なんていうかこの二人はお互い以外に相手がいない感じですね。
村でも公認だろう。周りはもう二人がくっつくもんだと決め付けてかかってそうなふしがある…
ベネット夫妻は最初は別段どういうつもりもなくヴェイグを引き取ったんでしょうが、年頃になってきても相変わらず仲良しだし、やっぱり何年も育ててヴェイグのことは可愛いしで、そのうち結婚させて名実ともに本当の家族にとか思ってそうだ。で、実現するのでしょう。すんなりといくかどうかは別として。
ヴェイグとクレアはけっこう自然にべたべたしてたんじゃなかろうかと思います。
「家族だから」を合言葉にな! いや人前でどうかは知らないけど(笑)
でもアガーテの姿になって、一緒にいるいないはともかく手つないだりはできなくなったんじゃないかな、と。仲間の目もあるし、気は使ってくれてるだろうけど、でもやっぱり限界が…ねえ。
触れ合うことに緊張を伴ってくる、というのは第一歩なのですよ。始まりなのですよ。
あまり前向きでない感じですがそれでも進み始めたのですよ。萌え。
あーこれとは関係ないけどミルアガ幸せになってほしかった…からついアガーテのことも本文に入れちゃった。
(2004.12.22)
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