北国の冬は厳しい。
 春の訪れを待ち遠しく思いながら、ときおり差し込む陽光に目を細める日がある。



春を待つ





 その日の空は、青く高く晴れ渡っていた。
 終始どんよりとたちこめる灰色の雲はどこかに消えて、あたり一面真っ白に輝いてまぶしい。風は相変わらず身を切るような冷たさを伴って吹き抜けてゆくけれど、太陽の光をじかに浴びれば張り詰めていた頬も少しだけ緩む。
 ざくざく、と足元で音がする。何日も降り続いた雪がやっと今日になって小康状態を迎え、今はちいさな粒が明るい空からちらちら舞い降りてくる程度だ。深雪に慣れた村人たちは、朝も早くから起きだしてさっそく雪かきに精を出していた。そのおかげで、集落の中に限っては歩くのにそれほど苦労はしない。
 ヴェイグは一度立ち止まると、額に浮き出してきた汗を片手でぬぐった。寒いことに違いはないが、吹雪いているならともかく今日は気持ちいいくらいの晴天だ。雪道を歩くのはみかけよりも体力を使うから、必要以上に身体が温まっているように感じる。しかも、これから入ろうとする集会所への道は、村から少し離れているためなのか雪の積もり方が深い。まっさらな雪に点々とついたちいさな足跡がなければ、進んで分け入ろうとは思わなかっただろう。
「……やっぱりここか」
 ひとりごちて、ざっと足を踏み出す。
 雪国の冬は基本的に暗い。晴れることなど滅多にないどころか、外出すらできないような日々がずっと続く。ひさしぶりに天候にめぐまれた今日、我慢できず外に飛び出してしまうのは何も子どもばかりではない。
 まあ彼女はべつに外で遊びたかったというわけではないだろうが。
 えっちらおっちら、ずぼずぼとのめりこむ足を苦労して抜きとりつつ進んでいると、目指す方向にようやく集会所の建物が見えてきた。
「ヴェイグ!」
 歩きにくいと、どうしても注意が足元に向かう。思わぬタイミングで声をかけられ、ヴェイグはぎくりとして顔をあげた。
「クレア? 中にいたんじゃなかったのか」
 できる限りの最大速度で――遅いのはもう仕方がない――たどりつき、しゃがみこんでいた少女を見下ろす。
「ドアの取っ手がね……凍りついちゃってて」
 クレアは眉尻を下げて苦笑した。指差す先のものを見て嘆息する。集会所の扉は、確かに見事なほど凍りついていた。
 頑丈な建物だということは言わずもがな。しかし、訪れるものもなければ屋根だろうが扉だろうが雪は容赦なく降り積もる。人の都合など考えてはくれない。なまじ少し暖かくなったせいで雪が溶け出し、再び凍ってしまったのだろう。雪のままの状態ならばクレア程度の力でもなんとかなったかもしれないが、さすがにこれは無理がある。
「一応雪が降り出す前に掃除はしたし……大丈夫だろうとは思ったんだけど。少し気になったから見にきてみたら、こんなふうになってるんだもの」
 なんだか余計に中に入りたくなっちゃって。
 朗らかに言うクレアを尻目に、ヴェイグは無言で扉に近づいた。
「なんとかなりそう?」
「……ああ」
 答えて片手をかざしてみる。熱いような冷たいような、どちらともつかない温度が指先によりあつまり、そして。
 陽光にさえ冴え冴えとした光を反射していた塊は、あっけなく消えてなくなった。なんとはなし、手袋越しに手のひらを眺める。すごいすごいと無邪気に喜ぶクレアの声が、なんだか遠くで聞こえたような気がした。






 人のいない集会所は、広くてがらんとしていた。
 掃除の邪魔になるからと、椅子も机も片付けられて隅によっている。積もった雪に邪魔されて、窓から太陽の光は入ってきていないようだった。そもそもこの建物は冬に使用することをあまり想定されていないため、暖を取るための設備もなきに等しい。やむをえない場合は、村人たちは厚着して身を寄せ合って、笑いあって、そうして温まる。
「やっぱりちょっと暗いね。火種持ってくればよかったかしら」
 クレアがつぶやいて天窓を見上げる。明るいのはそこだけだ。壁に取りつけられた燭台には煤もついていない。なにしろ村のおばさん連中総出で掃除したのだから。塵ひとつ、埃ひとつ、見事に何も落ちていない。
 春から秋にかけては、ここは文字通り人の集まる場所となる。昼間は子どもたちの笑い声が響き、夜は大人たちの宴会、ときには恋人たちの逢引の場所として使われることさえある。
 あの日もこの場所も、日常の一部だったのだ。なにごともなく終わるはずだったあの日から、すべてが始まった。夕食後の手持ち無沙汰な時間を二人でのんびり談笑していた。暦のうえでは春だったけれど、残雪のせいで肌寒くて外出していた人も少なくて、だからたまたま巻き込んだのはクレア一人だった。
 ちいさく身震いをして、ヴェイグは首を振った。シャオルーンから与えられた力は、今も確かに彼の中で息づいている。聖獣たちが人の世に干渉する意思も術も捨て去ったとて、人の心に起因するフォルスは消えはしない。今一度暴走するようなことがあれば、クレアだけでは飽き足らずスールズすべてを巻き込むだろう。いわば爆弾を胸のうちに抱えて生きているようなものだ。
 その事実がときどき、恐ろしいと思うことがある。
 ときどき、本当にときどきだ。それに少しだけ。この力を一生抑えて生きてゆく自信はある。何も起こりさえしなければ。穏やかな日常を積み重ねていくことさえ、できるのならば。
「……なんだかものすごく難しい顔してる」
 気がつくと、翡翠の瞳が間近にあった。
「なに、が」
 慌てて後ろを向いても、クレアは回り込んでくることはしなかった。目を合わせれば、嘘はつけない。逆に言えば、合わせなければごまかすことはできる。自分はこの少女に隠し事ができたのだと、そう気づいたのは旅に出てからの話だ。子どものころは、見せたくないと思うような感情は彼の中に存在していなかった。よしんば褒められたものではないにしても、すべて受け入れてもらえるという絶対的な安心感が、どこかにあった。
「もしかして……二人だけで来るべきじゃなかったの?」
「……っ」
 考えに沈んでいたヴェイグは、唐突に指摘されて絶句した。振り向くことができない。そういえばそうだった。あの旅を終えて、集会所に足を運んだのは一度や二度ではなかったけれど、いつも誰か他の人が側にいた。ここで二人きりになるのは本当に久しぶりのことなのだ。
 一年間、浴び続けた視線を思い出す。かばってくれた養父母や幼馴染たちとは意味合いの異なる、非難する目。わざとじゃなかったなんて、言い訳にはならない。クレアを氷から救い出せた直後に襲ってきた、安堵と恐怖も。戸惑いか怯えか、あの瞬間彼女が見せた表情の意味は彼女にしかわからないけれど。そして、村人たちのあんな言葉や視線が自分に向けられることはもう二度とないのだともわかっているけれど。
「……オレが……怖いか?」
「どうしたの、急に」
 クレアが首をかしげたのが気配でわかった。心底不思議そうな表情をしているのだろう。第一、そんなことを言い出すには遅すぎる。聞くなら直後が妥当だった。単純に忘れていただけの問いを今発する意味はない。
 怖い顔してるなって思ったことならあるけど……などと思案げにつぶやいているのが聞こえる。
 たとえあの一瞬そんな思いを感じたとしても、クレアは今まで引きずったりはしないだろう。女々しく考えているのは自分だけ。気にする必要もないこと、なのに。

 とん、と背中が温かくなった。

「クレ……」
「……ごめんなさい」
「なにが……」
 振り返ろうとしても抱きつかれているために上半身が回らない。かろうじて金髪の先がふわふわと舞うのが見える。
「ごめんなさい。フォルスを使ったからよね? ここで、使ったからよね? だから思い出しちゃったのよね」
「……」
 返す言葉が思いつかずにヴェイグは黙り込んだ。確かに状況が重なって思い出したのは事実だが、先刻彼がフォルスを使ったのはべつにクレアに頼まれたから、というほどのことでもない。フォルスを使うこと自体にはそれほど抵抗はなく、むしろ役立つのならそれでいいではないかとの思いさえある。
 勘違いしているのかと、それを正すべきかと口を開こうとしたが、言葉は声になる前に吐息の形で唇から滑り出た。
「大丈夫……大丈夫。何があったって、私はヴェイグが大好きよ。お父さんも、お母さんも、村の人たちみんな、ヴェイグのことが大好きよ。だから……だから、」
「クレア……離れてくれ」
 ヴェイグはクレアの言葉を遮って、声を絞り出した。びくりと震えた少女が、おずおずと身を離す。振り返ると、今にも涙が溢れ出しそうな瞳が彼をみつめた。
「ごめんなさ……っ」
 見ればちいさな唇はわずかにおののいている。拒絶と勘違いしたのだと、そう気づいて彼は声を出す前に動いた。遠ざかる手首をすばやくつかまえて、勢いのままに引き寄せる。硬直した身体を逃げ出さないように力いっぱい抱きしめてから、ようやくヴェイグは一声叫んだ。
「違う!」
「ヴェイグ……っ?」
「そうじゃないんだ、こうしたかった。だからいったん離れてくれと……」
 胸の中に熱い塊が生まれたような気がする。
 あの快活な青年に言われるまでもなく、抱えた思いは口に出さなければ相手に伝わらないのはわかっている。そのはずなのに、極端に少ない彼の言葉の端から心を読み取って、そのとき一番欲しい暖かさを与えてくれるのだ、彼女は。
 奇跡のようだと何度思ったか知れない。ずっと昔から、守られてきた。癒されてきた。失いたくないのだと、愛しくてたまらないのだと、全身が叫んでいるのに、声だけが喉の奥で凝る。そうして結局、抱きしめるしか伝える術がなくなる。
「……私がいるわ、ヴェイグ」
 少しだけ腕の力を緩めると、濡れた瞳が彼を見上げた。
「ああ。……クレアには、オレがいる」
「うん」
 額を合わせると、こつんと音がした。こすれあう前髪の柔らかさか、至近距離で見合う視線の気恥ずかしさか、どちらからともなく笑みがこみ上げてくる。



 今はまだ、これだけでいい。
 今はまだ。








--END.




|| INDEX ||


あとがき。
ザピィがいな(以下略)
微妙に存在感ない…てかアガーテ(中身クレア)が合流してから、奴は結局どっちにくっついていたですか?
覚えてないんだけど…
まあたぶんしばらくは本編の話書かないんで確かめる必要もないですが、クィッキーはわかりやすかったのになあ…次は登場させたいものです。
ヴェイグが氷溶かしてますねえ。…え、溶かせるよね? OKだよね?
自在に操るって生み出すことしかできないんだったらかなりショボい能力だぞう。

ところで。
ラドラスの落日までは、二人の間にはズレも隙間もなかったわけです。
それが、お互い相手が大切だということに変わりはなく、疑いも持っていないけれど、でもなんだかズレみたいなものがあの旅の間に生じて。
そして、焦る。
元の関係に戻りたい。でもまんま元のでも満足できなくなって。
そうして進展していくのですねえ…いやほっといても結婚してるんだろうけどさ。奴らは。
この話とは関係ないけど、くっついた後とか親の目を盗みながらいちゃつく場面想像したらアホみたいに萌えました(馬鹿)

(2004.12.29)