自分はけっこう目ざといのだと思う。
 幸せというのはそこら中に転がっているのだが、待っていても懐に飛び込んでくるものはごくわずか。
 だから見逃してはいけない、逃してしまってはいけない。
 ちゃんとつかまえて、日ごろから自分のこころを幸せで満たせるように。


逃さず見逃さず





 きっかけは、彼と同室だった青年によってもたらされた。
「あれ、ヴェイグのやつまだ起きてきてねえのか?」
 真夏の太陽のような内面から想像するに違わず、その青年――ティトレイは朝も早くから元気いっぱいである。外で身体を動かしてくると出て行ってから四半時、彼は相棒がそろそろ起きてくる頃だと推測していたのだろう、宿の食堂を見渡してそんなことを言った。
「ヴェイグならまだだヨ。そういえば珍しいね」
 旅の道連れたちは唯一の例外を除いて基本的に朝には強い。テーブルで食後のお茶と洒落こんでいた赤毛の少年が、金髪の娘と顔を見合わせて首を傾げる。
「おれ、部屋出てくるときにあいつが起きたの見たんだけどなあ……まさか二度寝じゃないよな?」
「ヴェイグだってたまにはそういうコトもあるんじゃないの?」
「そりゃま、考えられないことじゃねえけどよ」
 少年たちの会話を聞きながら、クレアは一人カップのお茶をすすった。自身の金髪が陽を透かし、視界の端できらきらと輝く。
 勤勉という単語からは程遠い、茫洋とした雰囲気をまとったヴェイグは、実は結構な働き者だ。それを否定するような要素はついぞ見たことがなかったというのに、仲間たちにはその事実は意外なものと映ったらしかった。幼なじみの救出に痛ましいほどの覚悟と情熱をもって挑んだ姿が強烈すぎたのかもしれない。その頃の彼は他人を気遣う優しさこそ多少見せてはいたものの、およそ生産的な行為とは無縁だったから。けれど冷静に理屈だけで考えてみれば、彼は辺境の農村で育ったのだから、早寝早起きして労働という習慣が染みついていないはずはない。
 カップの底が白く浮きあがってくる。甘い芳香のする茶色い液体をきれいに飲み干して、クレアは身軽に立ち上がった。
「私、ちょっと様子を見てくるわ」
 先ほどユージーンも外出していった。男性の寝室とはいっても、いるのがヴェイグ一人なら気後れなどない。……もっとも、全員そろっていても用さえあれば気にせず乗り込んでしまえるけれど。挨拶代わりにひらひらと軽く手を振る。少年は手を、パンに思いきりかぶりついた青年はバターナイフを、それぞれ振って彼女を見送った。





 扉を叩く拳にはそれなりに力をこめたつもりだった。
 それなのに、返事がない。幼なじみの声はもともと低く、あまり大きくもない。それにすっかり慣らされてしまったクレアの耳には、部屋の中の静けさに勝って外からの鳥のさえずりのほうが大きく響いた。
 鍵はもちろんかかっていない。すんなり回ったノブを押して、扉を開け放つ。
「ヴェイグ?」
 明確な呼びかけにも、期待した応えはなかった。歩くのにあわせて、入り口付近の床がぎしぎしと鳴る。あらいやだ、とクレアは眉をひそめた。自分たちが使っていた部屋はこんなふうではなかった。ちょっとした建てつけの加減だろうが、男性が少し騒いだら床板が抜けてしまうのではないだろうか。まあ、取っ組み合いの喧嘩を日常とするような要員は一人しかいないことだし。そもそもそんなこと、同室のものたちが許さないだろうからいいのだけれど。
「……って、そうじゃなくて」
 一人ごちて、彼女はヴェイグの座っている寝台に近づいた。
 そう、座っている。先ほどティトレイが言ったとおり、目は覚めているようだ。薄青い瞳は確かにその色をのぞかせているし、背筋はきちんと伸びていて枕にもたれかかっているようなこともない。
 ……ただ、微動だにしないのはいかがなものか。
「ヴェイグ」
 至近距離に顔を見合わせて力強く名を呼ぶと、彼はようやく反応してクレアの瞳を見返した。
「……………………クレアか」
「遅いわ、ヴェイグ」
 わざとらしく肩をいからせてみても、芳しい反応がない。
 これはさすがにおかしい。何度も繰り返すようだが、ヴェイグの寝起きは決して悪くない。ぼんやりしているように見えてもそれはみかけだけで、呼べばちゃんと返事をするし、起きた直後から繊細な仕事を任せてもきっちりこなす。そのはずなのに、このいかにも眠いですと言わんばかりの様子はどうだろう。まるで、風邪でもひいているかのような――
「あ」
 クレアはその可能性に思い至ってぽんと手のひらを打ち合わせた。苦しいのだろうか。目を眇めて注意深く観察する。顔色も変わっていないからそれほどひどいわけではないだろうが、ヴェイグは自分自身のことには鈍いから、周りがきっちり客観的に判断してやらなくてはならない。さらさらとまっすぐ、彼の顔を覆う前髪をかきあげて額を合わせる。
 触れあった額はほんの少しだけ、熱かった。
 近づけばわかる、呼吸も心なしか浅い。いつもの習慣で目覚め、起き上がったはいいものの気だるさに負けてしまっていたということか。
 ヴェイグが億劫そうに何度か瞬きをした。
「…………クレア。…………起きるからどいてくれ」
「だめよ!」
 クレアははっとして、彼の身体を力任せに押さえつけた。ぼふ、と音がしてたくましい体躯が寝台に沈む。いつも馬鹿でかい大剣を振り回して涼しい顔をしているくせに、今ばかりはなんとも弱々しい。こんな状態で外を歩かせるわけにはいかない、せめて今日一日は安静にしていてもらわなければ。
 少しは暴れて脱出しようと試みているようだが、クレアとて農村の娘。それなりに腕力はあるはずだ、熱に浮かされてぼうっとしているヴェイグなど、物の数ではない。
「だめよ、今日は絶対にだめ。寝てなさい!」
 きつめの語調で叫ぶと、くぐもった抗議の声が聞こえた。頭だけは目覚めたのかもしれないが、やはり身体は思うとおりに動かないのだ。
 片膝乗り上げて、ふとんごとぎゅうぎゅう両手を押しつける。ぎし、と木が鳴く音がして、つかの間意識がそちらに向いた。今のは寝台ではない。床の、音。入り口の。
「あら」
 クレアは手を離さないまま軽く目を瞠った。小柄な少女が一人、頬を染めて戸口のところに立ち尽くしている。
「く、クレアさん……」
「おはようアニー」
 そういえば戸は開けたままにしておいたのだった。にこやかな挨拶にアニーと呼ばれた少女は表情を緩めかけたが、すぐに動揺を思い出して再び真っ赤になった。
「あ、の、閉めたほうがいいですか?」
「なにを?」
 きょとんと尋ね返したのは悪戯でもなんでもなく、本当に一瞬意味がわからなかったからだ。答えられる前に自分で思い至って、クレアはかぶりを振った。
「ううん、そのままでいいわ。すぐに下に降りるから。オートミール作らなきゃいけないし……そうだ、その間に診察していてくれる? 単純に微熱だけだと思うけど、念のため」
「あ、はい。…………あ、風邪ですかヴェイグさん」
「たぶんね」
 うなずく。観念したのか力尽きたのか、ともかく抵抗はやんだ。今更ながら体重をかけないように気をつけて床に下りる。寝具を綺麗に整えて、彼女は踵を返した。
 口を開けてください、と背後から聞こえた声は間違えようもなく一人前の医者の口調で、それがあのあどけない少女の発したものなのだと思ったら、なんだかくすぐったいような気もした。





 診察結果はやはり風邪だった。
 ただし、ひき始め。
 あまり痛いとか苦しいとか言う方ではないですけど、実際微熱でだるいだけでしょうから、そんなに心配はいりませんよ。
 アニーのお墨付きももらったことだし、とりあえずは安心だ。クレアはにこにこしながら、スプーンに息を吹きかけるヴェイグを眺めた。
 暖炉の薪は赤々と燃えている。毛布が二枚増えて、枕もひとつ持ってきた。布団に埋もれるようにして座る肩にはやはり厚手のショールがかけられている。やりすぎかなと思いつつ、ヴェイグが何も言わないのをいいことに、あっという間に病人仕様の部屋になってしまった。おとなしく世話をやかれる彼なんて、何年ぶりのことだろう。いつもいつも他人を気遣うばかりで、自分のことにはまったく頓着しないひとだから。だからここぞとばかりに、ついはりきってしまったのだ。
 もちろん、病気なんてしないのが一番いい。苦しい思いなんてしてほしくない。いつも元気でいてほしい。
 本当は代わってあげられたらいいのだけれど。そんなことを言えば彼は大げさなくらいに悲しむだろうから。眉をぎゅっとよせた顔が、容易に想像できるから。だから、それは口には出さないで。
 ぽふ、と寝台に突っ伏する。首だけ動かして見上げると、目が合った。視線だけでどうかしたのかと問うてくる気配に、声を出さずに笑う。腹もふくれて、さすがに頭が働いてきたらしい。
「べつにどうってわけじゃないのよ。ただ、二人だけでこんなにゆっくりしてるなんて、ひさしぶりじゃないかしらって」
 クレアとしては、にぎやかなのも楽しくて大好きだけれど。
 ヴェイグが風邪!? 雪降るんじゃねえのか!? などと騒ぎたてた青年も、退屈だろうからボクが何か……といそいそ自分の荷物を探り出した少年も、ユージーンに襟首をつかまれて引きずられていった。
 今ここにいるのは二人きり。窓の外を彩るのは青空であって、あの故郷の雪空ではない。それでも、パチパチと弾ける薪の音と、ゆったりした空気がなんだかスールズにいるような錯覚を覚えさせてくれる。
「…………そういえば、ひさしぶりだ」
 ずいぶん遅れて返事があった。
 まだ皿は空になっていないが、そろそろまぶたが重くなってきたのだろう。ごく自然な動作で皿からカップに持ち替えてやり、薬を飲み下すのを見守る。
 もそもそ寝具の塊が動いて、どうやらヴェイグは都合の良い場所を見つけたようだった。
「クレアは……」
「ええ、ここにいるから。起きたらまたお話しましょ」
 子どもにしてやるように額に口づけを落とす。
 すぐに聞こえてきた寝息にくすりと微笑んで、クレアは再び寝台に上半身を預けた。
 硬めの輪郭、ごく薄く開かれたくちびる。このときだけはやわらかな弧を描く眉。意外に長いまつげが震えて、眠りの深いことを示している。
 しばらくご無沙汰していたけれど、そしてずいぶん成長してしまった感があるけれど、やっぱり見慣れた彼の寝顔。


 今日もまたひとつ、しあわせをつかまえた。






--END.




|| INDEX ||


あとがき。
最初もっとものごっついタイトルでした。さすがに変えました。
ヴェイグちゃんはクレアさん相手だと警戒心もへったくれもなしにただの天然と化します。
…いや、普段から天然だけどもー。特に。
ぽやんとしていて、気づいたら押し倒されていそうです(え)
そんな光景を想像しながら書いていたらこうなった(笑)
基本的にこのひとたち、お互い攻めだと思うんですけど、男前度はクレアのが上だから。
ヴェイグはぶちキレないと肝心な行動には出なさそうです。
ちなみ「肝心な行動」には手つなぎや抱きつきや無意識告白その他もろもろは含まれません。
それらはあくまで日常です。

(2005.10.11)