困るだろうか、呆れるだろうか。
 それとも、笑ってくれるだろうか。


旅立ちの日





 その日の目覚めは爽快だった。
 窓からのぞく空は青く晴れ渡って、どこまでも高く高く続いている。ようやくあたたかくなってきた陽射しに照らされた尾根は相変わらず白いままだけれど、家の裏手を流れる小川からはひっきりなしに流水の音が聞こえてくる。雪解け水は、春の訪れを告げる使者だ。
 クレアはにっこり笑顔を浮かべると、寝起きとは思えないほどきびきびした動作で寝台を降りた。ストーブの上でしゅんしゅん湯気をあげているやかんを持ち上げる。椅子の上においてあった金だらいに湯を注ぐと、勢いよく蒸気がたち昇った。こうしておくと、着替え終わったころには冷えて、顔をぬぐうのにちょうどいい温度になるのだ。
 身支度を整えて、一度鏡の前で全身を確かめる。それから慣れた手つきで諸々を片付けて、彼女は早速となりの部屋の扉を叩いた。
「ヴェイグ、朝よ。ヴェイグ」
 返事はない。クレアはかすかに首をかしげた。無口なうえあまり感情を表に出すほうではないから何やら勘違いされやすいらしいが、ヴェイグの寝覚めはいいほうだ。声をかければすぐに起きるし、起きた直後からちゃんと頭も働いている。なのに部屋の中はしーんとしていて、物音ひとつしない。
 と、いうことはもう上にあがったのだ。そういえば、階上からはもう食事時特有のいい香りが流れてきている。いつもならば母親と一緒に朝食の準備を始めるくらいの時刻。太陽の高さから見て寝坊したわけではないはずなのに、この気配は、何かが違う。
 クレアは一息に階段を駆けのぼった。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、クレア」
 母ラキヤが穏やかに振り返る。父は朝食前の散歩に出かけているのだろうか。台所を見やると、火口にくべられた鍋には蓋がされ、すきまからおたまの柄がのぞいていた。流しにはちょうど一人ぶんの食器がある。母は娘の視線を追うと、困ったように苦笑した。
「それってヴェイグのお皿よね?」
「ええ」
 椅子をひいて、テーブルに頬杖をつく。真ん中にふたつ、取り残されていたカップの片方は、きれいに飲み干されていた。指先で弾いて、彼女は少しだけ唇を尖らせた。
「……何も私が起きる前に出発しなくても」
「クレア」
「あ、べつに怒ってるわけじゃないの。予想はついてたし」
 仲間たちとの旅の再開を約束して帰途についてから、冬の間中、ヴェイグがその機会を待っていたことは知っている。何事もないがしろにはできない彼らしく、スールズに帰ってきてからの数ヶ月はやれ建物の修理だ、やれ畑仕事だとずいぶんまめまめしく働いていた。春を向かえ、一区切りがつけば旅立つと、最初に打ち明けられたのはほかでもないクレア自身。彼は、村で待っていてくれとも、一緒に行かないかとも言わなかった。
 また旅に出ると聞いたとき、自分はただ、うなずいたのだ。「そう」と。
 心残りはあっただろう。だが、各地を回りカレギアの現状をつぶさに体験してきた身としては、きっと、それらを押し殺してでもしなければならないことが見えていたのだ。
 クレアを残していったのは、彼女の身の安全と、ひいてはずっと心配させていた両親へのせめてもの心遣いといったところか。寝ている間に出てしまえば、なしくずしに残らずを得ないだろうと。それを、見越して。
「…………私はそれを台無しにするのかしら」
 ぽつりとつぶやいた言葉は、母の耳には届かなかったらしい。けれど、何か察するところがあったのだろう。優しい手が、ぽんぽんとちいさな肩をたたいた。







 水汲みはけっこうな重労働だ。けれど、水場はごく近くにいくつも存在している。重いものを持ち運ぶよりも、ちいさな桶で何度も往復するという方法をとったクレアは、三度目の復路で幼馴染に呼び止められた。
「クレア!」
「あら、モニカ。おはよう」
 赤毛を二つに結い上げた娘がせかせかした足取りで駆けてくる。一時期彼女を支配していた悲しみはすっかりなりを潜め、頬はほんのり林檎色に染まっていた。だが、いつも愛らしい笑みを浮かべている唇はぱくぱく閉じたり開いたりしている。よっぽど慌てているらしい。
「なにかあったの? なんだか、急いでるみたいに見えるけど」
「急がなきゃいけないのはクレアでしょ!?」
 ものすごい剣幕でつめよられ、クレアは瞳をぱちぱちさせた。
「え、なに?」
「なにじゃなくてー! ヴェイグはもう行っちゃったんだよ? いいの、一人で行かせて? 今から追いかければ間に合うかもしれないのに、こんなとこでのんびりしてちゃダメじゃないの!」
「……ああ……」
 クレアはこみ上げてくるものをこらえきれずに噴出した。みなクレアのことを、人のことばかり心配して自分のことは後回しだと言うけれど、モニカだって相当なものだ。
 ひとつ年下の彼女がヴェイグとクレアを眺める目には、幼いころから続く友情に、最近もうひとつ、少女らしい憧れが加わった。氷漬けになったクレアを一年間そばで守り続けたヴェイグの姿に感じ入る何かがあったらしい。突然力を発現した彼を恐れることなく、他の幼馴染とともに何度となく様子を見に来て、気遣ってくれたのだと聞いた。
 彼女たちの中では、自分とヴェイグはいつもともにあるべき存在ということだ。それは多分に思い込みで、おそらく想像されているような事実は自分たちの間にはないのだが。
 腹立たしいような、くすぐったいような奇妙な感覚に襲われる。決して不快ではないし、ことさら否定しようとも思わないけれど。きっと半分くらいは正しいのだから。そしてそのうちそれが、事実になるようなこともあるかもしれないのだから。
「大丈夫よ、モニカ」
 クレアは笑いながら幼馴染の手をとった。ことの是非はともかく、おそらく自分がこれから言うことは彼女の望みにかなっているのだろう。
「準備はもうすませてあるの。お昼に出れば、ケケット街道にいるうちに追いつけるわ。いくらヴェイグでも、馬より速くは走れないものね?」
「そう、なの?」
「そうなの」
「なーんだぁ……」
 よかったぁ、と繰り返す少女の背を抱いて目を閉じる。
 きっと、両親は説得するまでもなくうなずいてくれる。もしかしたら、彼女がそのつもりだということに、もう気づいているかもしれない。打ち明けてみれば、ひさしぶりに何の憂いもなく夫婦水入らずができる、なんて、そんなことを言うのかもしれないけれど。本音はきっと家族全員でと。そう望んでいるはずで。
 今まで、自分の望みと他人の望みが対立することなどそうそうあるものではなかった。相手が笑顔なら、自分も幸せ。そんな穏やかな世界に生きていた。
 けれど、世界は優しいものだけでできているわけではない。そのことを、知識ではなく経験で、知ってしまった。村を出れば、否応なしにその事実と向き合わなければならない日々が待っている。
 それでもなお。
「……私、帰ってくるころにはものすごくわがままになってるかもしれない」
「いいんじゃないの? わがまま言って、甘えて、困らせちゃえ」
 ひとりごとのつもりだった科白に返事をもらえて、どころか煽られて。彼女は一瞬あっけにとられた。
「いいかもね、それも」
「ね?」
 内緒話のように声を潜めて、顔を見合わせる。くすくすと広がり始めた微笑はなかなかおさまらなくて、二人はしばらくその場で肩を震わせていた。







「……お嬢さん。お嬢さん、前を人が歩いてるよ」
 がたがたと不規則な揺れに負けず、船をこぎかけていたクレアは御者の声にはっと我に返った。
「本当ですか?」
「ああ、聞いてたとおりだ。銀髪ってのぁ遠目でもわかりやすいなあ。間違いないんじゃないのかい?」
 彼女はすばやく馬車の窓を開けて身を乗り出した。確かに、青空の下、緑色が目立ち始めた街道で、真新しい銀貨のように輝く彼の髪は人目を引く。まっすぐに前を向いて、姿勢よく歩いていく後姿は、見紛うはずもない。
「はい……はい、あの人です! ありがとうございます、助かりました」
 礼を言って料金を渡す。軽やかに飛び降りてお辞儀すると、どうせなら相乗りしていけばいいのに、と笑われた。かぶりを振って、駆け出す。後ろから飛びついて驚かせてやろうと思うのに、コンパスの違いのせいだろうか、大きな背中はぐんぐん遠ざかってゆくばかりで追いつけない。
 仕方なく、クレアは声を張り上げた。
「ヴェイグ!」
 弾かれたように振り向くその顔に、まず浮かぶのは驚き。
 そして、次には。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
よし、旅立った(何)。
いへ、あらすじブックのせいでかーなーりない頭しぼって考えましたとも。
そして私にできる限界がこれだったとさ。
ユージーンとマオとアニーは直後から旅を続け、ティトレイは一度工場に戻って、この話の後合流。ヒルダはしばらくミリッツァと一緒にいて、ヴェイグたちと合流。脳内設定。
ちなみ中には書けませんでしたがクレアは出掛けにポプラおばさんからピーチパイをもらいました。ヴェイグが渋ったらこれをちらつかせてうなずかせろ、とはおばさんの言(あーそうですか)。

本編では本来の姿でほがらかに笑うクレアってのが見られなくてですねー…欲求不満っていうかですねー。アガーテ様の姿のときもかわいいけど、表情はクレアで姿は女王様だからのう。
うさにんにTGS版スキットを見せてもらって、やっとつかめた感じです。
クレアは完璧な聖人君子タイプと言われとりますが、個人的にはなんつーか、単純に倫理観・道徳観のしっかりした、自制心の強い子って感じが。
まあそれは父さん母さんヴェイグにも言えることですけどもー。
ともかく、嬉しそうに甘えるクレアさんに素で甘やかすヴェイグさんを書く下準備がこれで完成(したらしい)。
よしゃー。

(2005.01.15)