傍から見ればなんということはない、穏やかな日々だ。
 けれどそんな日々を積み重ねて、着実に育ってゆく、絆の強固さは。


揺るぎないもの





 小鳥のさえずりが聞こえる。葉ずれに混じってかさこそと聞こえるひそやかな足音は、おそらくマフマフだろう。雑食性のあの獣には、秋だけでなく今も森中が食べものにあふれた嬉しい時期だ。動き始めた虫たち。緑の新芽ややわらかな花びら。長く厳しい冬をなんとか生き延び、これからも命をつないでいけるという希望にあふれた、活力に満ちた季節。
 春は、人にも獣にも優しい。
 そして、彼女もまた豊かな恩恵にあずかろうと、足を伸ばしてきた一人だった。傍らに投げ出すように置かれた籠からは、しおれた山菜がのぞいている。ここに落ちてからいったいどれだけの時間が経過したのか。木々の枝の間からのぞく太陽の光だけでは頼りなくて、読み取ることはできない。
 彼女は――クレアは、山菜を摘みに来て足を滑らせたのだった。
「いたたた……」
 開口一番、ちいさくつぶやいて、顔をしかめる。落ちてしばらくは気を失っていたらしい。見上げれば、木の柵がかなり上にあった。道端を歩いているだけでは山菜など取れるわけがないからと、奥まで分け入ったのがまずかったのか。茂り始めた下生えで足元が見えなかったのだ。草むらにはご丁寧にも、彼女が落ちてきた跡がくっきりと残っている。
 とりあえず道は問題なくわかるのだから、上まで登ってすぐ家に帰る――のが、正しい選択なのだろうが。
 足に感覚がない。
 腰や背中は熱を持ってずきずきと痛むのに、それだけははっきりとわかるのに、力を伝達する神経がどこかやられてしまったような気がする。首だけをまわして全身を見回すと、ちいさな擦り傷や切り傷がいくつも目に入った。出血自体はもう止まっている。今すぐ命に関わるということはないだろうが、だからといって放っておいてよいものでもない。
 すでに陽は傾き始めていた。北方のスールズも、昼間はぽかぽかと暖かいが、暗くなればすぐに寒くなる。散歩がてら、のつもりだったのでもちろん籠以外には何も持ってきていないし、家人には出かけるとしか言ってこなかった。ある程度村から離れているから、ちょっとやそっと叫んでみたところで届きもしないだろう。
 ざわざわと木立を揺らす風が、少しずつ冷たくなってくる。急速ににぎやかさを失ってゆく森に、クレアはぶるんと身震いをした。スールズは小さな村だ。その周りの丘も森も、彼女にとっては幼いころからの遊び場だった。けれど、それは光あふれる時間帯での話。特に用事でもない限り、夜は出歩くものではない。夜は魔物の時間。村落の中であればともかく、暗い山中は人を食らう獣やバイラスの徘徊する危険な場所なのだ。
 クレアは痛む身体を引きずりながら、苦労して大木の根元に移動した。本当なら枝の上まで登ってしまいたいところだが、さすがにこの足では無理がある。山菜入りの籠を遠くに放り投げ、葉陰に隠れられるよう、できるだけちいさくなる。木々の緑、土の茶色とは明らかに違うワンピースの赤はごまかしようがないが、仕方がない。今夜一晩はここでしのぐ覚悟をしておいたほうが良さそうだった。
 じわりと視界がゆがむのを自覚したけれど、泣いても何も変わらない。
 大丈夫、きっとなんとかなる。だいいち、打ち所が悪かったらそのまま死んでたかもしれないのに、骨も折ってない。要するに自分は運がいいのだ。
 だから、大丈夫。
 自分に必死に言い聞かせながら、彼女は東の空にうっすら浮かんだ月を眺めた。







 今、自分は危険な場所にいるのだと。頭では理解していたはずなのに、疲労がそれを凌駕してしまっていたらしい。
 いつのまにかうつむいていた顔をあげると、何か違和感を感じた。
「…………?」
 声は出さずに、首だけかしげる。とりあえず、大きなものが動く気配は感じない。夜行性の小動物がときおり背後を走り抜けていくが、それらは人に害をなすことはない。
 それなのに、何かが、違う。日が暮れる前と、何か、が。
 唐突に違和感の原因に気づいてクレアは目を瞠った。
「……ひまわり……? どうしてこんなところに」
 今は春だ。スールズの夏は短く、ひまわりが綺麗に咲いていられる期間などほんの二週間ほどしかない。それでもその太陽のような花は景色を明るくしてくれるからと、好んで栽培している村人は何人か知っているけれど。
 身じろぎすると、大きな葉っぱがかさりと動いた。
「……っ、や……!」
 どうやらこちらをうかがっているらしいとわかって、一気に血の気がひく。クレアは震える手で口許をおおった。普通、ひまわりは移動などしない。太陽を追いかけてその向きを変えることはあっても、根を地上に張り出し、足のように使って、そろそろと迫ってくるなんて。すでに花びらは枯れて乾いているのに、地に落ちもせず、びっしりと花芯に実った種を牙のようにうごめかせているなんて。
 考えられない。普通では。
 大声を出すのが得策でないことはわかっていた。確信を与えていない以上、隠れてやりすごすのが一番いい方法だとはわかっていた。
 それでも、叫ばずにはいられなかった。
「ヴェイ、グ……ヴェイグ! ヴェイグ――――っ!!」
 父よりも母よりも、頼りにしている少年の名を呼ぶ。ここが村の中であったなら、彼は即座に駆けつけてくれただろうに。埒もないことを思って、涙が浮かんだ。叫びに触発されたように茎をしならせ、ぐわりと迫ってくる巨大な花に、頭をかばうように腕を交差させる。
 一口だけで満足してくれればいいけど。そんな都合のいいことを考えながら、襲い来る痛みに耐えられるようにぎゅっと唇をかみしめる。ああ、でもここであきらめてしまうのもいやだ。殴りつけたらひるんでくれるだろうか。めちゃくちゃに腕を振り回して、足さえ動けば、火事場の馬鹿力という言葉もあるのだから。
 けれど、ことは想像していたとおりには運ばなかった。腕は何にも当たらなかったし、足は動いてくれなかった。
 ただ。
 ぼとり、となにか大きなものが落ちる音がして、クレアははっと目を見開いた。おそるおそる、花のいた方を見やる。
 明るくなり始めた月の光を弾いて、銀色が輝いた。
 刃の銀ではない。三つ編みに納まりきらなかった短い髪がふわふわと揺れて、踊る。幻かと思う。けれど、その後姿を見間違えたことなど、一度も、ない。
「ヴェイグ……!」
 呼んでも少年は振り返らなかった。携えた剣が鮮やかな軌跡を描いて、根と茎だけになったひまわりを地面に縫いとめる。動物で言えば首と胴体を切り離された状態だというのに、なおもじたばたと暴れて逃げようとする花をつかまえて、何かをやっている。ほどなくボッと音をたてて炎が燃え上がり、化けひまわりを包み込んだ。
 植物が変異したバイラスは、不必要なほど生命力が強い。説明されるまでもなくそれを理解すると、おぞましさに震えが走った。こぼれ落ちる種にすら油断してはならないと、彼は教えられたことを忠実に実行しているのだ。
「クレア……! 怪我はないか」
 花が完全に炭となり崩れ落ちたことを確認してから、ヴェイグは初めてクレアを振り返った。数歩の距離を一足飛びで飛び越えて、もどかしげに彼女の顔をのぞきこむ。クレアは必死で涙をぬぐった。揺れる視界では、ただでさえきらきら光る銀髪を捉えきれない。色彩から声から、彼が彼であることはわかりきっているけれど、それでもその青い瞳をちゃんと見つめ返したい。そして、笑って大丈夫だと、伝えたい。
 なのに、熱いしずくは後から後からあふれ出てきて、彼女の望みの邪魔をする。
「ふっ……う、ヴェイグ……」
「……クレア、無理しなくてもいい。もう大丈夫だから。……大丈夫だから」
「…………ふ……え……っ!」
 優しい声になだめられれば、もう我慢はできなかった。
 クレアは兄代わりの少年の首に力いっぱいすがりつき、数時間ぶんの恐怖と不安を思う存分ぶちまけた。







「呼んでくれて助かった」
 ヴェイグの背に揺られながら、助けてくれてありがとう、とようやく礼を言えたと思ったら、返ってきたのはそんな言葉だった。
「なんとなく行き先の見当はついていたんだが……まさか崖の下に落ちてるとは思わなかった」
 夜になればバイラスは好戦的になる。ヴェイグとて一匹や二匹なら難なく相手もできるけれど、声を張り上げるとなれば誘われてよってくるものはどれほどの数になるものか。焦燥だけがどんどんふくれあがってどうにもならないと、そう思った矢先に彼女の叫びを聞いたらしい。本来ならば賢い選択とは言えなかっただろうが、間に合ったのだから御の字だ。あのまま悲鳴を抑えていたら、頭からばりばり食べられていたかもしれないのだし。
 ヴェイグがちいさく息をついて首の前で交差された手を見下ろす。気づかれなければいいと思っていたが、やはり目に入ってしまうものなのだろう。指先に走る傷を痛そうに眺めてささやく。
「……怪我。痛いか?」
「うーん……あのね、実はそれほどでもないのよ」
 強がりではないのだ。誰にもみつけてもらえないかもしれないと思った、あの心細さに比べたら。ゆったりと頭をもたげた、あの花がもたらした恐怖に比べれば。
 今全身を包む疲労すら心地よい。絶対的な安心感に、まぶたが重くなってきているのを自覚する。
 村の明かりはまだ遠い。本当なら、心配しているだろう両親や村の人にちゃんと謝って、お礼を言って、それからベッドにもぐりこむべきなのだろう。
 ……でも、眠くて。
 干草のにおいがする。危なげない足取りで進む少年の肩にすがりついても、その背は揺らぎもしなかった。銀髪に頬を寄せて目を閉じる。
 だいすき、と口の中だけでつぶやいた言葉は風に溶けてどこか遠くへ運ばれていった。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
どこの少女まむがですか、これは。

…いやもう何も書くことはありませんね!(書いてるがな)
回想シーン見る限り崖から落ちただけだったようですが勝手に脚色してみました。
てか古今東西使い古された話ていうか。
でも幸せです。ええ、幸せです。
ヴェイグ十五、クレア十四のつもり。

(2005.01.20)