目の端に映ったものは、ありふれたチェス盤。
 メルトキオの貴族の間では、読み書きと同じくらいに生活に密着した娯楽だ。

 薄暗い屋敷の一室で、むせかえるような花の香りに包まれながら、その男は。
 豪奢な調度に似合わぬ、静謐な緊張感に満たされた空間で跪きながら、その女は。

 瞳を細めて、少しだけ唇をゆがめた。



ひきがね





「なに、しいなチェス盤見たことないの?」
 白と黒の市松模様を見下ろしていた娘は、突然視界に割り込んできた手に気づいて顔を上げた。
 こぼれる赤毛を気にする様子もなく、冬の曇り空を映した瞳は、その色に似つかわしくない面白そうな光を浮かべている。
 しいなはもごもごと口を動かした。
「見たことないわけじゃないよ……城で、何度か。でもそうだね、なんだろうって思っただけで近くで見たことはなかったかね」
 どうせ田舎者だよ。
 かすかに唇を尖らせる彼女に、なだめるように優しい手が降りてくる。ぽんぽん、と軽く頭をたたかれた。
 ミズホの文化は、このテセアラにおいてかなり特殊だ。それに初めて気づいたのは、精霊召喚の適性を認められてメルトキオの研究所に連れてこられたときだったか。当然のように交わされる貴族的なやりとりや、暗黙の了解も理解できず、ずいぶんと苦労したものだった。故郷にも言葉に出されていないことを自ずと察するのが美しい、という考え方はなきにしもあらずだったが、この土地では背後に渦巻くものがあまりにも多すぎて形だけでも馴染むのに時間がかかった。
 確かに自分に与えられた役目はメルトキオとのつなぎという意味を多分に含んでいるのだけれど。相手もはじめからこちらが異端だと決めてかかってくれるものだから、腹が立つ反面、余計なことを覚えずともすむと安堵していた部分もあった。
 しかしそれも、この男と親しくつきあうようになるまでの話だ。
 無知を見せても馬鹿にすることはなく、むしろ嬉々として知識を詰め込みにかかってくる姿は、聞き知っていたものとはかけ離れていたけれど。
「まあべつに知ってなきゃいけないってわけでもないしなー。検討はつくか?」
「つくよ」
 うきうきと弾んだ声に、嘆息して黒い駒をつまむ。みかけに反してずっしりと重いそれは、どうやら大理石で作られているらしかった。黒檀と象牙のモザイクに乗せれば、かちりと硬い音がする。豪勢な玩具だ。これほど高価なものが居間の卓の上に置きっぱなしだということ自体、どうかしているのではないかと思う。
 しいなは適当にいくつかの駒を動かし、傍らの男――ゼロスをもう一度見上げた。
「要するに陣取りだろ。どれがどう動くのかまではあたしは知らないけどね、ミズホにも似たような遊びはある」
「あ、そーなんだ」
 ゼロスはにこりと微笑むと、おもむろに駒をかき集め始めた。白と黒、王冠やら馬頭やら、その他いろいろなものを精巧に写し取ったそれらが大きな手のひらの中に納まる。そんなに乱暴に扱ったら欠けてしまうだろうに。ひかえめな非難のまなざしを送っても動じる様子はない。
 そのまま窓際に向かう背中を見守っていると、振り返らないまま声だけが飛んできた。
「しいなー、盤こっちに持ってきてー」
「はいよ」
 彼のようにぞんざいにできる度胸はなかった。両手でおそるおそるチェス盤を持ち上げ、そろそろと移動する。心得た執事がきれいに拭き清めた卓の上に置くと、盤の光沢が少しだけ増したような気がする。しいなは手持ち無沙汰に、楽しそうに駒を並べている男にじっと見入った。
 初めて会ったときは、ひとえに派手な男だと思ったものだ。遠目から見かける姿はいつも圧倒的な存在感を放っていて、取り巻きの黄色い声などなくともどこにいるかすぐにわかってしまうほどだというのに。
 今は、無邪気と表現しても差し支えないほどの表情で、ゲームの準備に勤しんでいる。
 わからない男だ。
(まあ、べつになんでもいいけどね)
 彼女は自分が立ったままだということに気づいて、やわらかなソファに身を沈めた。
 ときおりセクハラまがいの言動が飛び出すことはあるけれど、ゼロスと二人でいるのは素直に楽しいと思う。からかわれて、本気で腹をたてて、それでも離れようという気にならないのは、だからなのだ。
「よっしゃ、準備完了〜! 覚悟はいいかね、しいなくん」
 なんの覚悟なのやらわかったものではないが、とにかくお気楽な声と笑顔が自分に向けられて、しいなはとくとくと始められた説明に苦笑しながら聞き入った。





 案の定というか当たり前というか、チェスはゼロスの圧勝で終わった。
 ミズホにも似たような遊びで“ショウギ”というものがあるらしい。ルールを説明し終えたとき、これなら簡単だすぐに覚えられる、それどころかすぐに勝ってみせることもできるなどと大口をたたいてくれたから、冗談半分で賭けを申し出てみた。
 まずは練習程度に数回。一度勝っていきなり自信満々になってしまったのが彼女の敗因だ。
 似たような遊びだとはいってもやはり戦略の組み立て方に違いは出てくる。まして自分は、幼いころから大人相手に何度も何度も勝利と敗北を繰り返してきたのだから。付け焼刃に負けるほど、やわな腕はしていない。
 ふふん、と余裕の笑みを浮かべてみせる。拳をぷるぷると震わせて悔しがるしいなの肩に、ぽんと右手を置いて左手の親指をたてた。
「俺さまの勝ち。な?」
「…………くっ」
「手加減するなって言ったのはしいなだぜ? さーて、何してもらおっかな〜と」
 ほかの娘が相手ならば、キス一回だのなんだのとお茶を濁してやればそれですむのだけれど。すでにかなり気が立っているらしい彼女にそんなことを言おうものなら、まず間違いなく張り倒される。
 それはさすがに遠慮したい……というよりも、まずそれだけの台詞を吐く度胸が足りていないというべきか。
「あ、そうだ」
 ゼロスはぽんと手を打ち合わせた。胡乱な目つきで見上げてくるしいなに苦笑する。
 何もそこまで警戒することもなかろうに。彼女をからかうのは楽しいし、軽くいじめてあわてるさまを見物していたこともある。それでも、傷つけようと思ったことはついぞないし、泣かせたこともない。
 そういう意味での信用はきっちり勝ち取っていたつもりだったのだが、思い込みだったのだろうか。
 彼はいつのまにか額にこぼれおちていた前髪を払い、その手で傍らのカレンダーを持ち上げた。
「あのさあのさ、俺さま行きたいとこあんだよねー。一人じゃつまんないし、一日じゃ無理だし、誰かつきあってくれる子探してたのよ」
 もうちょっとしたらバカンスの連中が押し寄せちまうから、その前にさ。
 日付を指差してにかっと笑うと、しいなは呆れたように目をむいて腰に手を当てた。
「……あたしは仕事でメルトキオに来てるんだけどねえ」
 ぶつぶつぼやきながらも伸ばした手はひょいとカレンダーをさらってゆく。頤に当てられた指先は、まじめに考えている証拠だ。
 見上げる瞳はよっぽど期待に満ちていたらしい。しょうがないねと、しいなはそう言って花咲くように笑った。








 よっぽど長い間眺めていたのだろうか。
 少なくとも、身を寄せている相手に気づかれる程度には。
「……ゼロスさま?」
 胸に抱いていたぬくもりがもそりと動いて、薔薇の香りが漂った。
 薄暗い部屋の中でもわかる、この少女の瞳は青い。テセアラでもっともよくみかける色。深い、海の紺碧。
 彼女のそれとは明らかに違う色。
「そういえば、チェスがお好きとうかがったことがありましたわね」
 それでも正確に彼の視線の先を読み取って、気だるげにつぶやく。動かないゼロスの肩口に甘えるように頬を摺り寄せて彼女はささやいた。
「……一戦、交えてみます?」
「………………いんや。今はこっちのがいいわ」
 少しの沈黙の後そう答えて、細い腰を抱き寄せる。指に絡まる長い巻き毛は、ふわふわと頼りなく。
 まっすぐで硬質なあの黒髪とは、あまりにも違っていた。




「しいな? ……しいな。如何したのか」
 問われて彼女は、はっと我に返った。いつも上から人を見下ろしている印象しかない王が、珍しく気遣うような表情を見せている。
 自分はそんなに動揺していただろうかと内心で問い、しいなはごく軽く唇を噛んだ。
 ずっと続くのだろうと思っていた優しくあたたかい日々。恋ではなかったけれど、今ではそれがわかっているけれど、それでも自分はあの男が好きだったのだ。
「確かに卑怯な手だとは重々承知している。だが、我らは――我らの民を、見捨てることもできぬ」
「心得ております」
 頭を下げる。
「この身は道具なれば、陛下のご自由にお使いくださればそれでよいのです。ただ……そう、ただ、御伽噺だと思っていたシルヴァラントが実在したのだと、そのことに驚き我を失っておりました。どうかご無礼お許しくださいますよう」
「良い。……頼んだぞ、しいな」
「おまかせください」
 王は、伏せたままのしいなの目の動きには気づかなかったようだった。退出してからようやく安堵して、息を吐く。
 こんなことでは駄目だ。
 考えるのは任務のことだけでいい。
 嬉しそうな笑顔など、どうして浮かんでくるのだろう。優しいささやきは、どこから聞こえてくるのだろう。







 腹立たしい。
 あの日初めて見せた刃が、見せられた刃が、絆を断ち切り、決別したはずだったのに。


 思い出だけが、ときおりさざ波のように訪れては心を乱して去っていく。








--END.




|| INDEX ||


あとがき。
思い出の引き金、というわけです。
……ていうか私の萌えはなんかこう妙なベクトルへ向かって突っ走っているような…

時期としては本編直前でしょうかね。しいながシルヴァラントに発つ前。
カレカノ時代のゼロスはとにかく浮かれていたので、しいなにはごくごくまともに優しく甘かったのですよ。
傷つけようなんてさらさら思えず、なんていうか大事に大事におくるみにして。
自分の中の闇を忘れていた時期でもあったわけです。
んで、しいなはしいなでゼロスがそんなんだから、素直に信頼していたんだと思うのだなー。
セクハラアホ神子だってのは充分承知していたでしょうけど、でもなにせ優しいから。
別れをきり出されて初めてゼロスの秘めた刃に気づいて、衝撃を受ける、と。
幻滅ではなく衝撃でお願いします。つーかゼロスに夢見るほど乙女でもないだろうしいなさん…
初めて傷つけられて、別れを経験して、それから本編中の裏切りだの諸々のできごとを経て。
ゼロスの中の闇の存在をはっきりと認識して、それでようやくしいなの中のゼロスへの感情は愛情に変化するだけの深いものになっていく。
そう考えるとロイドへの片思いもうなずけるかも。
根底に流れているものは同じでも、やっぱり対照的な二人だからねー。
ロイドの光に照らされて、ゼロスの闇に気づくってな感じか。
ゼロしいはけっこう容赦なく傷つけあうカップりゅーですよね。特にゼロスなんか何をどういえば相手が傷つくかきっちり心得てるから、それがまた性質悪いっていうか。
でもそんなやつらに萌え。萌え(だめだこいつ…)

ゼロス邸にあったチェス盤でここまで妄想広がるとは…

(2004.10.08)