きっと浮かれていたのだ。
 生まれて初めてだったから。
 まっすぐ目を見て、屈託なく名を呼んでくれる少女に出会ったのが。




たどりたくない





「……どうしてだい?」
 震える唇がようやっと、それだけの言葉を紡ぎだすのを、酷く冷静な気持ちで眺めていた。
 泣くかなと思ったが、生来の気丈さゆえか訓練の賜物なのか、その瞳に盛りあがるしずくは無い。
 恋人だと言いきれるような関係ではなかった。恋慕か友情か、自分も彼女もそのあたりを曖昧にしながら、それでも遠慮なく悪態をつき、じゃれあい、笑いあえる程度には親しい間柄だったはず。
「並べたてるほどの理由もねーんだけどねー」
 そううそぶいて、ゼロスは肩をすくめた。たった今自分が放った言葉が、彼女をこんなにも動揺させるだけの影響力を持っていたとは思わなかった。だが、すがるような視線は少しだけ鬱陶しい。媚びもない、怒りもない。ただ理不尽だと訴えてくるだけのまっすぐな光。
「あたしがなにか」
「だーかーらぁ、しいなに落ち度があったなんて誰も言ってないでしょーよ」
 あえてあるとすれば、むしろ俺さまのほう?
 可愛らしく小首を傾げてみせても、しいなの表情はやわらいではくれなかった。
 当然だな、とは思う。機会があれば、会って他愛もないおしゃべりをしていた。喜ぶ顔が見たくて、遠い観光地に連れ出したこともある。周りになんの断りもなく出かけたものだったから、あとで忠実な執事にそれとなく苦情を言われたりもしたけれど。神妙に伏せた顔をこっそり見合わせて視線を交わすその瞬間さえ、楽しさとある種のくすぐったさで満たされて胸がふわふわしたものだ。
 きっと彼女のほうでもその感覚を共有していたはず。だから、突然別離を切り出されて戸惑うのはあたりまえのことで。

 だけど、気づいてしまったから。

 幸せな時間は案外長かったな、とは思うけれど。
 気づいてしまったら、続けられなくなったから。







 樹齢何百年を数えるのか、推し量ることすら馬鹿らしい気分になるほど太く大きな樹木。その幹を切り出し一枚板に加工、かつ繊細な彫刻を施されたものが、彼の屋敷の扉になっている。生まれ育った家だ。何度くぐったのかもわからないのに、今日は据え付けられた金属製のノッカーさえも動かすのが億劫に感じられる。
 ゼロスは柱にどさりと肩を預け、緩慢な動作で扉を叩いた。ごくちいさな、くぐもった音が響く。一拍置いて、すぐに扉は開いた。
「お帰りなさいませ、ゼロスさま」
 気づいたのはやはりセバスチャンだった。とはいっても、使用人は本当に最低限の人数しか雇っていないから、奥で忙しく立ち働いて気づく暇もないのだろうが。
 優秀な執事は主の顔色を見てかすかに眉根をよせた。
「まだお時間は早いようですが、すぐにお茶にいたしましょう。暖炉に火は入っております。お連れさまも、お早く」
「今日はしいなはいねーよ。つーか、たぶんもう一生来ねえ」
 投げやりに言い捨てて足を踏み出す。セバスチャンはゼロスが赤子のときからワイルダー家に仕えていた。彼の好みや性質も良く心得ていて、気に障るようなことは一切しない。しいなと親しくつきあっていても、反対めいたことは一度も口にしなかった。
 ここ数ヶ月、彼が屋敷に上げた女性はしいなだけだ。今日も当然のこと、と思い込んで支度をしていてくれたのだろう。お茶と、お菓子を用意して。
 ……無駄に、なってしまったけれど。
 セバスチャンは何も言わなかった。ただ、ゼロスが目で示したティーカップを持ってさがっていった。青いスミレのカップ。気に入ったんならそれしいな用な、と言ったら、嬉しそうに笑ったのを覚えている。
「……うわ。俺さまってば未練タラタラ?」
 冗談めかしてつぶやいてみても、聞くものは誰もいない。彼はソファに寝そべって天井を見上げた。美しい細密画も慰めになってはくれない。手だけであたりを探り、クッションを抱きしめてみる。彼女の手のひらすら、こんな冷えた感触はしなかった。ひどくあたたかくて、やわらかかった。抱きしめたことはないけれど、もしそれが実現できていたならばもっと満たされた心地になれたのだろうか。
 触れなかったのは、拒否されたからではなかった。しいなが向けてくれる気持ちが恋愛感情と名づけるには多少無理のあるものだということはわかっていたが、好かれているという確信はあった。だから、触れてもかまわなかったはずなのだ。ただ、どこかでそれを押しとどめる自分がいたから。
 ずっと本気になれなかった自分が、本気になれることもあるのかもしれないとそう柄にもなく思ってしまったときに――――
 ちら、と目の端に白いものが舞った。
「やべ」
 今までのやる気のなさはどこへやら、ゼロスは機敏に立ち上がると厚いカーテンをひいた。閉めきる前に一回だけ、舌打ちをしてから両腕を交差させる。
「……畜生、早いんだよ」
 いつもなら初雪が降る前にさっさとアルタミラに逃げているのに。例年より初雪が早かったうえ、珍しく浮かれていたから。
 雪に、水を差されてしまった。
 身を切るような冷たさだけが、印象に残っている。なのに降ってくる紅い雪だけは、温かいのだ。ぽたぽたと、頬に、額に、滴り落ちるしずく。子ども心に焦がれた母は、こと切れる瞬間でさえ気高く美しく、けれど凄絶な色を瞳に宿していた。
 生まれてこなければよかったのです――――
 その言葉だけで、それまでの母の記憶は弾けとんだ。その言葉だけが、すべてになった。
 きっとあのとき、心のどこかが凍ってしまったのだ。だから、素直に人を愛することができない。自分のことなんてどうでもいいのに、自分のことが一番大事。
 しいながいれば? 無意味な仮定だ。一時的に癒されたとて意味があるものか。
「……そうだ。俺は神子だ」
 近い将来自分にも必ず神託が下る。ハーフエルフとめあわせられることなど絶対にないとわかっていただろうに、それでもセレスの母を手放すことができなかった父のように、なれと? そして、同じような思いをする女と子どもをまた生み出せと?
 絶対にごめんだ。
 自分がしいなを愛することはありえない。
 しいなが自分を愛することはありえない。
 絶対に。
 絶対に。


 ただ浮かれていただけだ。
 まっすぐに、瞳をみつめて名を呼んでくれる少女に出会ったから。
 それだけだ。







 その日の夜のうちに、ゼロス・ワイルダーは南へ向けて発った。








--END.




|| INDEX ||


あとがき。
父親と同じ道は「たどりたくない」でした。
個人的ゼロっさん考察そのいち〜(何)
なんかゼロしいに関しては内面すごい複雑です。特にゼロスさん複雑すぎです。
話の一本や二本じゃ全然表現できないさ。
相反するもの、矛盾するもの、溶け合うもの、なんていうかこう混沌としてごちゃまぜな人だと思うのですよ。あるときはあることは正しいけど、べつのときはあることは違う、とか(訳わからん)
ゼロスがしいなに別れを告げたのが、どういう心境によるものだったのか。
書いといてなんですがこれよりももっともっともっともっともっと複雑だと思います。

しいなはそれなりにゼロスのこと好きだったと思う。恋愛かどうかはべつとして。
あーあとしいながセレスのおかーさんみたいになる…ってのはあまり想像できないんですが、逆とかありそうだしネ…(苦)

あ、あと私の中ではセレスのお母さんはハーフエルフ、ということになってます(公式は違うよね?)
だからなおさら神子と正式に結婚できる可能性はなかった。
なおかつ自分でゼロスを殺しに来て、現行犯で逮捕、ということに。しておいてください。

(2004.08.24)