ずっと、抱えていた願いだ。
 自堕落な日々を送りながらも、羨望のまなざしを一身に集めながらも、忘れられずにいた願いだ。
 かなえるためならば、何を犠牲にしてもいいと思った。
 すべてを捨ててもいいと思った。
 誰が泣こうと知ったことか。
 それは、生命をも含めたおのれのすべてをかけて実現すべき、至上の命題であったのだから。



つなぎとめるもの





 急ごしらえで背中に生やした翼は、予想していたよりもすんなりとその役目を果たしてくれていた。
 舞うも飛ぶも、自由自在。エクスフィアの力を借りずとももともと身軽なほうだ、翼があったとて特に何かが変わるわけでもないと思っていたのだが。
「……空飛べるのは便利だよなあ、やっぱ」
 たったさっきまで同行していた、金髪の少女の笑顔を思い出す。天使として、生体組織まで変化してゆくことを決して喜んでいたわけではなかったのに、それでもひとたび戦いとなればその背に翼を輝かせていたのは。
 ひとえに仲間の負担とならぬよう努めていたためだったのだろうか。
「まーどっちでもいいんだけどね、べつに。……とと、これはどっちだぁ?」
 つらつらと考え事をしながら、それでいてせいいっぱいに急いでいた彼は、その必要もないのにたたらを踏んで形のよい眉をひそめた。
 分かれ道。
 救いの塔は、その壮麗な外見とは裏腹に内側はひどくうつろだった。年月を重ねた大樹を思わせる。幾層にも分岐した洞が、吹き抜ける風に寒々しくうなりをあげている。これが繁栄をもたらすために必要不可欠なものだなどと誰が思うだろう。
 生の気配を感じられないこの空間のどこかに、今も生き延びようと必死であがいている者たちがいる。一人は大丈夫だった。だが油断はできない。ここで立ち往生しているだけで、彼らが生還できる確率は刻一刻と削られていく。
(ええい、ままよ――!)
 とにかく進むだけだ。違うと思ったら、引き返せばいい。押し寄せる風圧にたちまちのうちに瞳が乾いてゆくのがわかるが、まぶたを閉じてしまうわけにはいかなかった。
 何をも、見落とすわけにはいかない。
 失敗の許されない状況などと、一生お目にかかることはないと思っていたのに。疑いようもなく神子としての証を背に負って、自らを滑稽だと思いながらも立ち止まることだけはできない。


 細くなった視界に、ちらりと桃色が翻った。


「しいな……ッ!」
 一声叫んで速度をあげる。重力に従ってまっさかさまに落ちゆく身体は、ぐったりしていて力が感じられない。
 冷たい予感を振り払って、彼は懸命に手を伸ばした。腕を取り、引き寄せて。しっかりと抱えてから、ようやく自分もさかさまになっていることに気づく。鳥とは違い、筋力で動くわけではない翼だ。それでも相当苦労をして、頭を天に向ける。
 ゆっくりと上昇していることが確信できて、初めて腕の中の娘を見下ろす余裕ができた。頬は青ざめているが、その肢体は温かなままだ。相当の距離を落ちてきたからだろう、気を失っている。本人はもう死んだつもりでいるのかもしれない。ごく浅い呼吸に少しだけ不安になったけれど、ここで取り乱してしまうわけにはいかなかった。
 まだ半分も終わっていない。いちいちこれほど消耗していては、人を助ける前に自分がくたばってしまう。命が惜しいと思ったことは実はあまりないのだが、それはさすがに遠慮したい。
 しいなが落ちてきたところからさらに上昇し、細い通路状になった場所まで到達すると、彼はやっと身体の力を抜いた。
「おい、しいな。……しいな」
 癒しの魔力を少しずつ送り込みながら、頬をぴたぴたとたたく。いつもならここらで不埒な考えが浮かんできてもいいはずなのに、そんな余裕もない。とにかく早く、その褐色の瞳をみとめて安心したい。
 切実な願いが届いたのか否か、そう時間をおかずにそのちいさな手はぴくりと動いた。
「しいな。生きてるか? ……じゃない、見えてるか? 俺が誰だか、わかるか」
「…………ゼロス? ゼロ……ッ!?」
 しいなはカッと目を見開いた。
 がばりと起き上がり、身構え、目の前の男を凝視し――警戒でいっぱいの瞳が徐々にやわらぎ緩んでゆくさまを目の当たりにして、不意に胸がしめつけられるような感覚を覚える。
 罵倒されると思っていたのに。予想に反してしいなはへなへなとその場に座り込むと、力のない笑顔を浮かべた。
「なんだ。……そういうことだったのかい。なんだ」
 素直すぎるこの娘には、自分の裏切りは信じがたいことだったのだろう。事実から目を背けるわけにはいかないと、そう自らを叱咤しながら、それでも希望を捨て去ることができずに。
 忍ぶものとして育てられたくせに、めそめそと涙まで流し始めるのだから、こちらは苦笑するしかない。
「なーに勝手に納得してるのよ」
 茶化す声音も軽やかで。あっという間に数刻前のお気楽な空気に戻ってしまった。
「だって、そうなんだろう?」
「そうって」
 言いたいことはわかっている。ただ、こちらからそれを口に出すのははばかられるような気がした。
 なにしろ、直前まで迷っていたのは事実なのだから。
 いや、今この瞬間でさえ、自分は笑って仲間たちを捨てられるのかもしれない。
 先ほどドームの底からすくいあげたあの男も。
 目の前で安堵に涙ぐむ、この娘も。
 可能性を思うだけで、その気がわかないことに少しだけ安心するけれど。
 道なんか踏み外したってよかった。自分が異常なものなのだと、思うのも思われるのもかまわなかった。
 ただ。
「さ、て、と」
 ゼロスは立ち上がって伸びをした。
「ゼロス?」
 しいなが不思議そうな顔で見上げてくる。思わず和んでしまったが、彼の役目はこれで終わりではない。むしろここからが正念場だ。
 欺かれることになれていないものたちではなく、常に疑念を抱いてしか他者を眺められなくなったものたちを、出し抜くには。駆け引きは得意分野だが、必ずうまくいくとの自信はない。
 さっさと動きはじめなくてはならない。
「この道をな」
 言って、彼は先の見えない通路を指し示した。
「あっちだ。ずーっと、あっちに行って、つきあたったら階段を上れ。そうしたら塔の最上階につく」
「あんたはどうするんだい」
「俺さまはー、」
 ばさ、と光の翼が広がる。物質的な束縛はないはずなのに、風圧を感じる。こぼれおちてきらきらひかる羽は、手のひらに触れると熱さもなく消え去った。
「まだ仕事が残ってるんだなー、これが。あちらさんもだいぶ姑息な手段を用意して……」
「じゃあ、あっちで会えるんだね?」
 さえぎられて口をつぐむ。存外真剣な瞳に押されて、とっさに言葉が出てこない。
 黙りこんでしまった彼にいらついたのか、しいなはゼロスの両腕をつかんでひっぱった。簡単によろめいた肩を受け止めて、顔を近づける。至近距離に近づいた瞳に、途方にくれたような赤毛の男が映っている。
 それが自分の姿なのだと、認識するより先に彼女は低くささやいた。
「……あんたはあたしたちのものだ」
「んな……」
 うめいても、しいなは解放してくれなかった。
「あんたはあたしたちのものだ。天使の血を引いてようが、羽根が生えようが、クルシスにもレネゲードにも渡さない。……絶対に渡さない」
 吐息の熱さが頬を焼く。波立つものは、なにもない。けれどまっすぐなまなざしは執拗に、逃げる自分の視線を追いかけてくる。
 ここで縛られてはいけない。確かに自分はもう選んだけれど、かつて苦しんだあの想いをよみがえらせてしまったらがんじがらめになってしまう。
 動けなく、なってしまう。
「それだけは肝に銘じときな。……いいね?」
 思考が止まっていた間にも言葉は続いていたらしい。気おされたまま、こくりとうなずきかけ――ゼロスははっと気がついて、急いでかぶりを振った。
「いやあの待って、なにそれ」
「なにそれもどうもこうもない!」
 手を伸ばしても、触れられる距離は遠く。彼よりも一瞬早く走り出していたしいなは、振り向きざま「遅れるんじゃないよ!」と一声叫んで拳をつきあげた。
 さっきまで泣いていたはずだったのに。生気にみなぎった背中を呆然と見送って踵を返す。翼を生やしたままとぼとぼと歩きつつ、ゼロスはかすかに首をかしげた。
「…………俺さま口説かれたのか?」
 そんなはずはない。自分で言って、自分の科白に嗤う。彼女にそんなつもりはないのだ。ただ言葉どおり、そのままの意味にとればいいだけのはずで。
 けれど。
 流した涙も本物で、言霊に宿っていた心も本物で、それがひどくくすぐったかった。
 すべてを捨てるつもりだった。でも少し、ほんの少しだけひねくれないでがんばってみようかと思わされたのはいつのことだったのか。でも立ちはだかるものの多さに、眩暈も覚えていた。
 それなのに。
「お笑い種だな」
 一人ごちて、ふわりと浮き上がる。



 これからが、始まりだ。
 今までの根回しの集大成なのだから、最大の成果をあげてくれなければ困る。





 忘れられない願いがあったのだ。
 幼いころからずっと抱えて、あたためていた。
 そのためならば、何を犠牲にしてもいいと思っていたのに。




 その顔に浮かぶのは紛れもない歓喜。
 にじみでる気配は安堵にあふれていて。
 案の定泣きそうな声で呼ばれる自分の名前に、いつもどおりの笑顔で返してみせる。








--END.




|| INDEX ||


あとがき。
ゼロっさんを地上につなぎとめたものはいろいろあるのです。
しいなさんは最後のダメ押しをしたのです。
つーかあの科白言わせたかっただけなんだけどさ(笑/某エ○ナ○ーガIIの影響らしいヨ…)

口では自分が一番大事、みたいなこと言っといて、自分でもそう思い込んでて、でもいざとなったら捨てられないものがたくさんある人だと思うのだなー。
しいなとか、妹とか、ロイドとか、セバスチャンさんでさえ実は見捨てられないんじゃないかと思われ。
だってねー。本気で裏切ったときでさえ殺したのは相手じゃなくて自分自身なんだもんな。
最上階でみんなにはやくこっちに戻って来いとか言われたときはもう本人嬉しくて嬉しくてたまんないんですよ。顔にはださないけど。素直じゃないから。
いやゼロっさんはみんな大好きだけど一番はしいなですよ?
あんまそう見えないなこの話…それだけが心残りかもしれん。

とにかく幸せになりやがれ!

(2004.10.06)