カラカラと、酒場の扉に据え付けられた鈴が鳴る。
舌打ちしたい気分で――いや、実際ひとつ舌打ちをして、彼はまとわりついてくる腕を引き剥がした。
存外素直に離れた娘は、戸惑いを浮かべて彼と扉を代わる代わる見ている。
本気でないのはわかっていた。言わば単なる八つ当たりで、彼女はかまってくれる相手を探していただけだ。常であれば適当にあしらって受け流して、ついでに軽く拳骨でも落として、兄よろしく説教してやればよかった。
ただ、今回ばかりは。
舌打ちの次に出てくるのは深いため息だ。ああ、猶予はない。彼は言葉もなく、扉の向こうに消えた後ろ姿を追って走り出した。
ギルドの巣窟ダングレストは、いつでも薄闇の中にある。
世界そのものの構造が変わっても、まったくすべてが変質してしまうわけではないのかもしれない。斜めに差す光は黄昏を連想させて、まだ昼間と呼べる時間帯にあってもそろそろ一日が終わるのではないかと錯覚してしまう。
もっとも、そんなふうに思うのは自分が朝明るく夜暗いという、大多数の地方において至極一般的な時間の変遷をたどる街に生まれ育ったからであって。首領の少年などに言わせれば、光の加減にも特徴があって、ちゃんと時間を推し量ることはできるのだそうだ。
今は、ごく普通に夕刻。そろそろ夕食を求めて腹の虫が鳴り始める刻限だ。感覚と実際の時刻が一致しているとなれば、従わない道理はない。仕事を済ませた一行は、空腹を満たすことを求めて馴染みの酒場を目指していた。
「“天を射る重星”に行くのは久しぶりです。みなさんお元気でしょうか……楽しみです!」
隣を歩く娘はうきうきと足取りも軽く、今にも歌い出しそうなほどご機嫌だ。
それも無理はなかった。ここ一か月ほどは城に缶詰め状態だったと言っていたから、よほど忙しかったのだろう。ぼんやりと空想を広げる時間もなく、ただひたすら夢に通じる現実を見据えて。それはそれで充実していて楽しいと彼女は言うのだけれど、寝る間も惜しんでと来れば話は別だ。本人ではなく、主に周りの人間にとっての話だが。
やっとのことでもぎ取った(取らされた)数日の休暇さえ、彼に逢いたいとその一心で休息にも充てず一直線に下町にやってきた。待ち合わせなどしていなかった、もし留守だったらどうするつもりだったのだろうか。実際、彼とギルドのメンバーは仕事でダングレストに発とうとしていた直前だったのだ。
血色の悪い顔を見て喉元まで出かかった「オレの部屋使ってもいいから寝ろ。とにかく寝とけ」という台詞は、クリティア娘の輝くような笑みで封じ込められた。
彼女は効率の悪いことや理にかなわないことは嫌う――なのに、いつからか妙に妹分たちの肩を持つようになった。もっとも、鶴の一声であっさり同行を許された副帝陛下は皆とおしゃべりに興じることはかなわず、すぐさまフィエルティア号の船室に押し込められたのだけれども。
もともとエステルはわりに頑丈なつくりをしているらしい。空の旅の途中おとなしく休んでいただけで、仕事にはしっかりついてきた。遠出こそしていないものの数回魔物との戦闘を挟んだ。のに、元気いっぱいに見えるのは本当にそうだからなのか単に気分が高揚しているからか。後者のような気がしてならない。
ともあれ笑顔に翳りはなかった。そうだ、逢うのは久しぶりだ。にこにこと嬉しげにまとわりついてくるのも久しぶりで、知らず口許が緩んだ。
「あんまはしゃぐなよ、エステル。ちゃんと前見て歩かねえとコケるぞ」
「転びませんっ!」
ほら、途端にぷうと頬を膨らませる。前を行く少年と少女が呆れたように振り返り、忠実な相棒は欠伸のような中途半端な吐息を漏らした。少し離れてついてくる娘とおっさんからは抑えきれない笑い声が聞こえる。足りない顔はあるけれど、まあ、いつもどおりのやり取りだ。
「ほらエステル、そんなヤツほっといてあたしと行きましょ」
「はい、そうします。あっ、でもやっぱり転んだらいけないので手を繋いでください、リタ」
エステルがユーリにばかりかまけるので、少し不満があったのか。虎視眈々と隙を狙っていた少女がこれ幸いと駆け戻ってきて間に割り込んだ。それにやはり嬉しそうに応じる。ただ言われる内容までは予測していなかったのか、リタは真っ赤になって一瞬絶句した。
「んな、な……しょしょ、しょうがないわね! 転ばないためよ、それだけなんだからね! それだけ!」
「はい!」
「あ、じゃあボクも! 久しぶりだもんね、エステルと一緒に歩くの」
「うふふ、カロルもです? 嬉しいです〜」
普段なら微妙に照れて加わろうとしない少年までもが、雰囲気につられて無邪気に名乗りをあげた。三人はエステルを真ん中にして手を繋ぎ、きゃいきゃいと騒いでいる。微笑ましい光景だ。微笑ましいのだが――まあいいか。
「ううーん、可愛いわねえ。おっさん幸せ〜」
何が幸せなのかよくわからないが、確かに本当に幸せそうにでれでれと笑み崩れた顔でおっさんがつぶやいた。同じように――こちらはあくまで凛としている――笑みを浮かべた美女が、意味ありげな流し目をくれる。
「取られちゃったわね?」
「何のことだか」
肩をそびやかして足を速めた。目指していた場所はもうすぐそこだ。ふらふらしている三人を追い越して、扉に手をかける。カラカラとベルが鳴って、途端喧噪と食事と酒の匂いが押し寄せてきた。魔導器とは少し色味の違う炎の橙。夕闇に沈みかけ冷えていた外気が逃げていき、数歩進んだだけでふわりとあたたかな空気が身を包む。ふっと気を抜いた時だった。
「あらあ、ユーリ! ちょうどいいところに〜」
横合いからいきなり首に腕が絡んできて、ユーリはよろめいた。
すぐに体勢を立て直す。抱きついてきた細い身体を支えたのは反射だ。一瞬だけ腰に置いた手をすぐに離して、絡む腕をつかんだ。引き剥がそうとするがぐいぐい頭を押しつけてくる。顔見知りの娘の赤らんだ顔が近い。酒臭い。
「ちょ、離せって……おま、酔っぱらってんな? つーかハリーとまたケンカしたのかよ!」
「よおっぱらってなんかないわよぉ〜? ケンカだってしてないしぃ、っていうかハリーってだぁれぇ? そぉんなヤツあたしの辞書の中にはいないしー」
「どの口が言うか!」
どうもこうも、彼女はぐでんぐでんに酔っぱらっていた。変にくねくねしているし、呂律も回っていない。以前はしょっちゅうレイヴンの気を引こうと声をかけてきていたものだったが――たまたま先に目に入ってしまったのが悪かったのか。どうせ幼馴染と喧嘩して自棄酒をあおっていたのだろう。そんなところにちょうどかまってくれそうな相手が現れたものだから、これ幸いと絡んできた。
色々と本気でないのは明らかだ。ハリーは今やユニオンの中で一目置かれている。ここは彼が所属している“天を射る矢”の御用達の酒場で、たとえば余所者がこの娘に不埒な真似をしようとすれば袋叩きにあうだろう。そしてレイヴンもユーリも、女を本気で泣かせるようなことはしない。
一見やけっぱちになっているように見えても、安全な場所で安全な相手にしか突撃しない。その内側には冷静な計算が見えて、そういうのも嫌いではないのだが、ハリーは気苦労が多いだろうなと思う。ここは安全だから彼が追いかけてこないのもわかりきっている。安心して盛大に腹の中のものをぶちまけられる環境が整っているのは、いいのか悪いのか。悪くはないか。
「あのなあ」
ユーリはため息をついた。
「かまってほしいなら別の相手探せっての。オレたちゃメシ食いにきたんだぞ。邪魔すんな」
「なぁによそれ! ふーん、そういうこと言っちゃうんだ? かまってほしいだけ? ふーん、そう思うんだ?」
「なん……」
ちう、と音がした。
わざと音をたてて青年の頬に吸いついた娘は、妖艶な目をしてくすくす笑う。そこここから野次と口笛が飛び、一瞬頭が真っ白になった。いや、今更このくらいで固まるほど初心ではない。ないのだが、今はまずい。普段ならたいして動揺せずにあしらってやれるのだが、今は。
ユーリは自由にならない首を無理矢理動かして背後を振り返った。あーあ、と言わんばかりの顔をしているのが二人。苦笑しているのが一人。真っ赤になってわなわな震えているのが一人。我関せずとそっぽを向いているのが一匹。そして。
「……エステル……?」
恐る恐る名を呼ぶ。うつむいた顔は前髪に隠されて、表情がよく見えなかった。だらんと垂らした両腕は力なく、けれどちいさな拳はかたく握りしめられている。華奢な肩をわずかに震わせ、エステルはひっと喉を鳴らした。くるり、踵を返して。体当たりするように扉を押し開け、夜道へと駆けだしていく。
「エステル!」
ユーリは舌打ちして娘の腕を引き剥がした。
「えっ、え、何?」
存外素直に離れた娘は、戸惑いを浮かべて彼と扉を代わる代わる見ている。
親切に事情を説明してやる気になど到底なれない。ユーリは迷わず駆けだした。入ってこようとしていた数人とぶつかりかけ、仕種だけで謝って店の前の道路に出る。
街並みはすでに夜闇の中に沈みかけていた。ぽつぽつと灯る街灯だけでは到底足りない、暗くても目立つはずの白い服はすでに残像すらなく、彼は冷や汗が噴き出すのを感じた。
確かにエステルは、何度もダングレストを訪れたことがある。けれど、暗くなってから一人で歩かせたことはないし、彼女が知る施設もせいぜいユニオン本部や宿、いくつかの酒場や食堂だけだ。荒くれの集まるこの街は決して治安が良いとは言えない。ユーリでさえあまり足を踏み入れたくないと思う一角がちらほらあるというのに、あの無防備なお姫様がそんなところに迷い込んでしまったらいったいどんな目にあうことか。
普段ならば彼女も慎重に周囲を観察し、そういう雰囲気の場所は避けるだろう。でも今はたぶん、涙をこらえながらがむしゃらに走っている。目に浮かぶようで、彼はぎりりと奥歯を噛みしめた。
「エステル……おい、エステル!」
口の横に手を当てて名を呼ばうも、返事はない。ちらちらと興味深そうにこちらを見てくるものはいるが、声はかけてこない。いくらなんでも街の外には出ていかないだろうから、ある程度方向は見当がつくにしても。地道に聞き込みをするか、もしくは後戻りしてでもラピードを連れてくるか――
「あ……」
角を曲がったところで、ユーリは見知った顔が佇んでいるのをみつけた。向こうも彼に気づいたか、表情が変わる。だが近づいてはこなかったので、彼は動こうとしない少女に走り寄った。
「ナン! ちょうどよかった、エステルを」
「お姫様なら、この奥に入って行ったわよ」
少女のちいさな指が、いくつもある路地のうちの一筋を指し示した。いきなり求めていた答えを与えられ、思考が止まる。
「ここは行き止まりだから、たぶんそのままそこにいる。ただ、あの人より前に“暁の雲”の連中も入って行くのを見たから」
存外近くにはいてくれたというわけだ。ともかく人目から隠れたかったのか。確かに若い娘が一人全速力で大通りを走っていれば目立つ。すぐに見つかってしまうだろう。それを避けてかくれんぼをしようと思うくらいには冷静だったということ――いや、そう表現するのは少し違うかもしれない。
「……鉢合わせかよ。ヤバそうな物音とかは聞こえてないんだな?」
「今のところはね。ついさっきのことだもの。あたしも入っていくか、誰かを呼んでくるべきか迷っていたところだった」
「なるほど」
街中だからか、“魔狩りの剣”の少女はごく軽装だった。
服装こそ動きやすそうだが、あの大きな得物はもちろん持っていない。見かけに騙されれば大火傷を負うことになるけれど、魔導器なしでの今の彼女の腕力は大の男にかなうものでは到底ない。
「おまえがここにいてくれて助かったぜ、サンキュ。あとはオレに任せとけ」
「言われなくても。……あの人、泣いてたわよ」
「…………知ってるよ」
そう、とつぶやいて、ナンはそれきり何も言わなかった。
足音を忍ばせる必要はない。ユーリは大股でずんずん進んだ。靴底が砂利と煉瓦を擦ってざりざりと音をたてる。奥に行くにしたがって、くぐもっていた話声が鮮明に聞こえるようになった。言い争っている風ではない、けれど不快だ。眉を寄せて近づく彼に気づいているのかいないのか、若い男が二人、しきりにエステルに話しかけているようだった。
「……だからさ、アンタを泣かせるようなヤツのことなんか忘れてさ。俺たちとどっか行こうぜ。美味いもん食わせてやるから」
「いえ、結構です。あの、わたし、もう行かなきゃ……」
「なんだよつれないな〜。今来たばっかじゃんか。ところで、あんた帝国のお姫様に似てるね?」
「え? ……と、よく、言われますけど」
「へえ、やっぱ言われるんだ。まあ実物は遠くからしか見たことねえんだけど。似てるどころかアンタのほうが可愛いんじゃない? 一緒に楽しもうぜ、なあ……」
太い腕が伸び、壁を背にして立っていたエステルが身を竦ませる。そこを間一髪、横ざまに掻っ攫って引き寄せ、背後から抱きしめた。悲鳴をあげかけた唇を左手のひらで覆う。
「悪ぃけど、他当たってくんねえかな」
声を出した瞬間、腕の中の身体から一気に緊張が抜けた。それに少々溜飲を下げた気分で、口端を上げて目の前の男たちをねめつける。
「なんだてめ、いきなり横から」
「……って、あれ? あんた、確か“凛々の明星”の」
「あー」
エステルばかりに気を取られて男たちの顔をろくに見ていなかった。確かに記憶にある風貌だ。何度か一緒に仕事をしたことがある――とは言っても名前までは知らないし、一言二言言葉を交わした程度だが――相手も同じように覚えてはいたらしい。一瞬高まりかけた殺気がみるみるうちに収束して消える。
腰に回したユーリの右腕に、エステルがそっと手を添えた。男たちはといえば、ばつが悪そうに顔を見合わせた。
「なんだよ、じゃあそのお姫様も本物か」
「残念ながらな」
「おいおい、それならそうと最初っから言えって! 帝国はともかくアンタらやらレイヴンを敵に回すのはごめんだぜ」
前半を聞いて、エステルが眉尻を下げる。ごめんなさい、と言おうとしたのだろう。手のひらに唇が当たってくすぐったい。なおももごもご声を出そうとするから少し力を強くしてやった。苦しげに身じろぎするが解放してやる気はまだない。じっとしてろ、と耳元で囁くと途端に首筋が赤く染まる。
彼らは呆れたようにため息をつき、それから苦笑した。
「わーかった、わかった。ここは俺らが退散してやるよ」
「お姫様ー、そこの色男とうまくいかなかったらまた来なよ。慰めてあげあでっ!」
「バカ余計なこと言うんじゃねえ!」
年かさのほうが若いほうの首根っこを引っ掴んだ。取り繕うようにへらへらした態度を振りまきながら、足早に大通りへ出ていく。
後ろ姿が完全に消えて人の気配もなくなったところで、ユーリはエステルの頭に顎を載せ、胸の奥底から深く長い息を吐いた。
「滑り込みセーフ……」
「ご、ごめんなさい。その、軽率でした」
「ま、おまえが軽率なのは今に始まったことじゃねえけどな。つーかオレも悪かった。避けりゃ良かったんだが、さすがにああ来るとは思わなくて」
「……」
ふるふると花色の毛先が揺れる。片手で梳いてやるのには抵抗しなかった。くしゃくしゃと前髪をかき混ぜ、濡れた感触を捉える。思ったとおり、泣いていた。注意深く聞けばまだ鼻をぐすぐす鳴らしている。
「悪かったよ」
「いいえ、いいえ」
「エステル」
「わかってます、わたしわかってます。ユーリの心を疑ったりなんかしません。あの方にだって悪気があったとは思いません。あれくらい、親しいお友達なら誰でもやっていることです。あれくらい、を、許容できないわたしの、みじゅく……」
「いや待て待て」
彼は改めて腕に力を込めた。つむじに唇を押しつける。ぎゅうぎゅう締めつけても逃げ出そうとはしない。そのまま自分の背を壁にもたれかけさせて、少し斜めになった。
「ありゃ怒ってもいいとこだぞ。言ってやりゃよかったんだよ、“わたしの男なんだから触るな”ってな」
「そ、そんな図々しいこと、言えませ……」
「オレは言うけど」
「え、と」
「ん、駄目か?」
「いえ……」
少しは機嫌が直ったのだろうか。少なくとも涙は止まったらしい。腕を緩めて顔を覗き込もうとしたら、どっこい押し返された。後ろからは良くても前からは気に入らない様子で、両腕を突っ張って真下を向いている。
「エステル?」
「……も、もう少し、待ってください……」
恥じらっているのとは違う。ユーリはわずかに眉をひそめて顎を下げたが、中途半端に短い髪に邪魔されてやっぱり表情をうかがい知ることはできなかった。
「うおーい。顔見せてくんないの」
「だからその、もう少し……今わたし、頭の中がぐちゃぐちゃですから。きっとひどい顔してるんです。可愛くないんです。そんなの見られたくありません……だからもう少しだけ」
というか、可愛くない顔ってなんだろう。美女とは言い難いが、基本的に愛らしいつくりをしているエステルが酷い顔。ひどいかお。
彼女が主張したい事柄は一応理解できる。恋人の言葉に多少気は晴れたものの、一度抱いた嫉妬の念はそうそう簡単に消えはしない。これは、ユーリ自身何度か経験したことなので想像することは容易い。
そして、嫉妬とは一般に醜いものだとされている。感情そのものがというよりは、それに起因した行動や表情が醜いと、物語の中などではよくそういった描写が登場する。だから、まさしく真っ只中の今の自分の顔を見ないでほしいと。落ち着くまで待てと。
彼女の主張は理解はできる。
が。
名前を付けるなら悪戯心というのか嗜虐心というのか、とにかくそういうものがむくむくと頭をもたげてきて、彼はにっと口許だけで笑った。安心させるように手のひらで髪を撫でてやる。突っ張る腕の力が抜けた瞬間、薄い肩を強くつかんで引き寄せた。
「んじゃ、オレが可愛い顔にしてやるとしますか」
「!?」
翡翠色のびっくり眼は、いわゆる“醜さ”とは程遠かった。幼子のように無垢な瞳が逸らされる前に、噛みつくほどの勢いで唇を塞ぐ。
「んぅ……!?」
どんどんと二、三度ちいさな拳が胸を叩いたが、おかまいなしで花の色をしたそれを舐めあげた。あくまで優しく、閉じられた前歯をちろちろと探ればわずかに隙間が空く。先端が触れ合っては引っ込み、けれど追いかけはせずに唇を触れ合わせることに専念した。
しばらく感触を楽しみ、最後に軽く音をたてて離れる。はあ、と漏らされた吐息に色がついているような気さえした。
「ユー……リ」
とろんととろけた目をしたエステルが、息も絶え絶えに彼の名を呼ぶ。上気した頬、濡れた唇。苦しげに寄った眉、睫毛の間から今にもこぼれそうな涙。肩にすがりつく、細い、指。
可愛いとか可愛くないとかそういう問題じゃない。気にすることすら的外れだ。こんな顔を見せられて、何も思わずにいられるものか。ひとつのことしか考えられない。ぞくぞくと悪寒に似た、けれど決して不快ではない何かが背を昇る。それが脳天まで達してくらりと視界が揺れる。
「……たまんね……」
「ユ、んんっ」
ユーリは身震いしてつぶやくと、エステルの腰を引っさらい立ち位置を反転させた。壁に彼女の背を押しつけ、再び喰らいつく。先ほどの名残のわずかな隙から無理やり舌をねじ込み、歯列の奥に隠れていた獲物を引きずり出した。逃げようとする、逃がしてやらない。角度を変えて、でも隙間も作りたくなくて、ただひたすらに執拗に貪った。
呼吸すらままならないエステルが震えだす。がくりと力の抜けた脚を割り、間に膝を入れる。彼の脚に跨る格好になる寸前で、今更羞恥が働いたのか彼女は体勢を立て直そうと身を捩った。
動くだけ、無駄と言えば無駄なのだけれど。もう充分に堪能させてもらっている。どこもかしこもやわらかい。花のような果実のような、甘い幸せな香りがする。漏れる吐息が、鼻にかかった声が、ユーリの脳髄を真っ白に染め上げて焼き切ろうとする。
そんな状況にありながらどこか頭の一部が冷静でいられたのは、二人を見つめる視線を感じていたからだろう。出歯亀か、そのわりに興味津々といった気配でもないが、害意も伝わらない。放っておいても問題ない。むしろ微妙に感謝すらしながら、彼はようやく誘惑にあらがってちいさな唇を解放した。
「……っ! っは、はぁ、はあ……!」
途端エステルは軽く腰を折り、けほけほと咳き込みはじめた。背中をさすってやると恨みがましい目でにらまれるが、まあ正直言って怖くない。そのうち息も落ち着いてきたのか、再びぽかりと胸元を叩かれた。
「ひ、ひどいです、ユーリ……」
「酷いってな何だよ。オレはあくまで協力してやったんだぜ」
可愛い顔を見せたいって言うから。白々しく嘯くと、頬どころか耳まで真っ赤になる。唇を尖らせて、彼女は手櫛で髪を整え始めた。
「もう、髪までぐちゃぐちゃです。ユーリのせいです」
口づけの最中散々かき回した髪は、それはもう乱れに乱れている。あまり乱雑に扱うと絡まって切れてしまいそうだ。やんわりと手を押さえつけて手伝ってやりながら、ユーリは再び悪い笑顔――と、仲間たちには表現される――を浮かべた。
「でも機嫌は直ったんだろ?」
「…………」
「エステルさん?」
「……なおりました、なおりましたけど!」
頬への親愛の口づけとは比べ物にならない。恋人同士しかなしえない正真正銘の愛情と恋情と欲をぶつけられれば、いくら初心な彼女だとて察するものは有り余る。
ただ、釈然としない部分もあるのだろう。ぶちぶちと何やら文句のようなものを並べ立てているのは聞こえないふりをしてやる。可愛らしい八つ当たりだ。ユーリの手を振り払わないあたり、内心もうわだかまりはないと見てもいい。
「みんなにも心配かけてしまいましたね。早く戻らなくては」
エステルは息をついて路地の入口のほうを見やった。歩き出そうとする手首をつかんで押しとどめる。振り返った頬をつまむとふにゃんとやわらかかった。
「あのう、ユーリ?」
「まだ顔赤いぞ。元に戻ってからのほうがいいんじゃねぇの?」
「……誰の、せいだと」
「オレだなあ」
ふにふにとよく伸びる。戻るどころか熱を帯びてきた頬を名残惜しくいじり倒していたら、ついにぺちっと手をはたかれた。
「戻ったら戻ります!」
「おー。戻ったら戻ります」
「…………ユーリ、意地悪です…………」
どのあたりを指してそう言っているのかわからないが。
もうとっくにご機嫌になっているくせに、ぷうと膨らんだままの頬がおかしい。つついてやれば空気が抜けて、変な音をたてる。ますます笑いがこみあげてきて、ついには噴き出してしまった。
「〜っ、ユーリ!」
だからその涙目がそそるのだ、とは今のところ口に出して伝える気はない。自身も笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、ユーリは空を振り仰いだ。
迫る壁に囲まれた四角いちいさな空。それでも星はきちんと瞬いていて、指し示してやれば、たちどころにそちらに興味をひかれて瞳を輝かせる。それだけだ。簡単だ。
でも今しばらくはこちらだけを見ていてもらおう。ひどいです、そんなに笑わなくても、と必死に抗議しながら後をついてくる。本人は移動しているのにも気づいていないかもしれない。適当に受け流してやりつつ、彼らは少しずつ仲間たちの待つ場所へと戻る道を辿って行った。
ジュディスあたりにも笑顔で「もう少し手加減してあげないといけないのではないかしら?」とか脅されるよね!
ラピードにはワフってため息つかれるよね!
そんな感じでした。
何気にハリーと幼馴染の子(あれって幼馴染でいいよねたぶん)の組み合わせも萌えます。あの子モデリングがモブなんだよなーそれが残念。本文はもう書きあがった後だったんですが、このあとがきもどきを書く直前に虚空の仮面の漫画版2巻も読みまして余計にハリーうまくいけばいいなあ…的な。デレッデレなドンにニヤニヤしました。気持ちはわかる! あれはデレデレになる! …まあそれは置いといて。
ユーリは他のお嬢さんにちゅーされたこと自体はべつに気にしてないと思います。ただそれをエステルに目撃されたことが問題なだけであって。その辺は割り切るヤツだよああそうだよ。
エステルもいろいろわかってて、でも理性で感情を抑えきれなくて暴走しただけ。怒ってはない。
ただ、立場が逆だったらユーリは普通に相手の男殴……るまではいかなくても相当威嚇しそうなんですよね。ほっぺたは許せんよね。手の甲はなんとか許してもね。
あ、ちなみにこの話時点では、婚約までは行ってないけどユーリとエステルの仲は知ってる人は知ってるって感じだと思います。たまにしか来ないけどダングレストでそこそこ大きめのギルドに所属してる人はみんな知ってる暗黙の了解状態。そこそこ有名。ハルルも同じくらい? 逆に帝都ではせいぜい、下町のユーリと親しい面々、あと市民外貴族街でごく一部の人だけ。あんまりおおっぴらに話題にはしないしある程度見て見ぬふり。他人の目や耳のないところでは話題にするけど、みたいな?