二度目の
 静かな夜だ。
 エアルの乱れを敏感に感じ取っているのかもしれない。森を行きかう魔物たちはどこか浮き足立っていて、すぐそばを獲物が通っているというのに気づきもしなかった。散発的に襲ってくるものはいたけれど――かなわぬ相手だと悟るや背を向けて逃げ出すものが大半で、初めてこの森を通った時からは想像もつかないほど戦いの少ない道行だった。
 虫の声も、どこか弱々しい。
 本当に静かな夜だ。こんなに静かなのは久しぶり。幼いころから暮らしていた下町はただでさえ家々の壁が薄いうえに、狭いところに人がひしめいていつも喧噪で溢れかえっていた。帝都を出てからは、ありとあらゆることに興味を持ちあっちへふらふら、こっちへふらふらするお姫様を筆頭にあれよあれよと同行者が増えていったものだから、そう、それこそ最後に息遣いすら聞こえるほどの静寂を味わったのは城の牢に放り込まれたときだったろうか。それさえほんの一瞬だったように思うのだけれど。
 ユーリは傍らの、魔導器のなれの果てを見下ろして薄く唇を歪めた。あの時ニアの実を食べて目を白黒させていた娘が、今や世界の中心で文字通りすべての命を握る存在となっているとは。ひょっとして夢でも見ているのではあるまいなと、らしくもないことを考えてしまう。
 少々特殊ではあるものの、ちょっと強力な術が使えるだけの普通のお姫様だと思っていた。いや、“お姫様”という存在はそもそも彼女のことしか知らないのだが――よく笑いくるくると表情が変わり、他人のちょっとした不幸すら放っておけない。頭の中に詰め込んだ知識やら細腕に過ぎているのではと思わせる剣術は、彼女の本質を語るものではない、きっと。そうだ、ごく普通の善良で罪もない無邪気な娘だった。
 ――殺して。
 破壊的な力とともに風がごうごうと唸りをたてて渦巻く中、なぜかあの声だけは鮮明に耳に届いた。
 気づかなければよかったのかもしれない。そうであれば、その選択肢など思いつきもせず(そんなことはありえないのだろうけれど)今もただただひたすらに彼女を隣に取り戻すことだけを考えていられたのかもしれない。
 でも聞こえてしまった。
 死んでもいい、ではなく殺してと。自分はあの時、軽はずみなことを口にする彼女を本気で叱りつけたはずだ。彼女にも自分の怒りは充分に伝わっていたはずだ。もとより想像力が豊かなのだから、自身の心を相手の立場に置き換えて考えてみれば、衝動的に口走った言葉が仲間たちをどれほど傷つけたのか、ちゃんと理解できているはずだった。
 それを押し流してまで懇願させた力と苦痛は想像を絶するものなのだろう。
 泣いていた。それなりに長いこと一緒にいた気はするのだが、あんなふうに身も世もなく取り乱して泣きじゃくる姿は初めて見た。肉体的にも精神的にも追いつめられて、今にもどうにかなってしまいそうだった。
 それなら解放してやる? どうやって。一番いいのはアレクセイをどうにかして無事に彼女を取り返すことだ。満月の子としての力をどうするかという問題は残っても、ユーリを含めた誰も泣かずに済む。だがそれは果たして可能なのだろうか。
 騎士団に任せるのは問題外。彼女を助けるのは自分たちでなくてはならない。それは最早意地のようなもので、だいいち、親友はともかくその副官ですらあんなに簡単に彼女を切り捨ててやむなしとの発言をしたではないか。擁立する次代の意向に反することになったとしても、彼らは動くときは動く。そういうものだ。そして関わることもできず結果だけを見せつけられたとしたら、“複雑”で止まっている感情は容易く憎悪へと変化してしまうだろう。自分の不甲斐なさを棚にあげて。
 あきらめたくない。あきらめたくないのに、考えられる限りの解決策を並べた中に、純然とそれが存在するのが気に食わない。
 あきらめない。あきらめるつもりはない。でも、もし、最悪の場合は――
 そう考えてしまったからラピードだけを道連れにハルルを抜け出した。どうせ行動するなら皆と一緒のほうがいいに決まっている。そのほうが救出の成功率は上がる。けれど万が一の可能性も捨てきれない。そんな光景は、ほかの誰にも見せたくないのだ。だから。
 なんだ、結局自分は彼女を殺す気なのだろうか。初めから、この手で。
「は……」
 息をつこうとして軽く咳き込む。呼吸すらままならない。ここまでほとんど戦っていない。しかも一度は通った道で、たいして力を消耗することなく歩いてこられたはずなのに。
 殺すのか。殺すのか?
 砂漠で出会った男は、おまえはまだ引き返せると言っていた。ドン・ホワイトホースのときのように、手をかけたくないものにまで手をかけられるようになってしまったユーリに向けてなおそう言った。でもおそらく、彼女を手にかけてしまえば自分はもう戻れない。だって彼女と比べたら、この世にはどれだけ罪深い人間が溢れていることだろう。死ぬまで罪を犯し続けて、ああいや、その前に親友が止めてくれるだろうか。正しく処罰を与え、二度と世に出さないようにされればこれ以上何をやりようもない。
 殺すのか。殺すのか?
 罪を知ってなお彼の手を取ってみせた、あの優しく可憐で愚かな――どうしようもなく愚かな、優しい、娘を、殺すのか。
 ちゃんと考えなければならないのはわかっていた。相手は何年もかけて計画を実行に移してきたのだ。こちらも闇雲に行動したところでいい結果など出ない。でももう考えたくなかった。夢ならいいのに。眠って起きて、目を開けたら彼女がいて、お寝坊ですよと笑ってくれたらいいのに。
 思考はどこまでも沈み、よどみ、どろどろと溶けてゆくようだった。そうだ、今は考えないほうがいい。一眠りして起きてからだ。そうじゃないときっと壊れてしまう。
「ここで少し休むから……ラピード」
 すべてを心得ている、と言わんばかりの目をしてすり寄る相棒にうなずき返し、ユーリは魔導器の残骸にもたれかかった。
「見張り頼む……」
 目を閉じる寸前に見たのは、塗り替えようもない闇の森だけだった。
--END.
二度目のクオイの森。
イベント中「こいつ…殺る気だ!」と思った。そうとしか思えなかった。
一人(ラピードいるけどしゃべれないし)なのでひたすら暗いです。でも仲間と合流したとたんに前向き思考になって自分でもびっくりしたらいいよ。
エステルもね、不可抗力とはいえベリウスが死ぬ原因作ったり、力利用されてアスタルやっちゃったりしてるので、まったく真っ白ではないんですけどー。それに帝都がああなったときに犠牲者ゼロってことはないと思うんだ。エステル自身そこらへんもわかってて、だから余計に絶望しか見いだせなかったのかもしれない。
力の行使に関して本人の意思はまったく介在してないわけで、その点では責めるのも気の毒かなという気はしますけどね。
ただユーリにとってエステルは、ただ守られるだけじゃないとか罪だって相応に犯してるとかそういうの全部わかっててひっくるめて、それでもやっぱりどこまでも真っ白できらきらしてて綺麗なもの、みたいな一種願望というか憧れみたいなものが絶対あるよなーと。
たぶんエステルだけじゃなくて、フレンに対しても同じような意識でいるんだろうなーとか。決して美化してるわけじゃない、泥臭い部分も知っていてなお捨てきれない何か。
(初出:2012.08.12 / HTML化:2012.09.22)