ふと、姿が見えないなと思った。
ユーリは嘆息して頭をかいた。姿が見えないからといって、今の状況では別段問題はない。何しろここは空の上で、自分たちは始祖の隷長が運んでくれる船から一歩たりとも外に出ることなどかなわないのだから。
仲間たちは皆思い思いの場所でくつろいでいるのだろう。急ぐ旅路ではあったが、大洋の真ん中まで到達するにはまだ少し時間がかかる。自分たちの足で歩くわけでもなし、それなら武器の手入れをするなり休息を取るなり、適切な暇のつぶし方というものがあるはずだ。
現にほら、頭をめぐらせるだけで見える甲板の隅では、カロルが下町の人々から預かってきた品の修理をまだ続けているし――量が多くて一晩ではさばききれなかったらしい――その傍らにはラピードがどっしり寝そべって少年の手元を眺めている。レイヴンがフレンに引っ張られていったのも見た。なんとも情けない顔で助けを求められたけれど、手だけ振っておいた。嫌いではないにしても、どうにも面と向かって真面目に話すのは苦手意識があるのかもしれない。でもやっぱり助けてやる必要もないので放っておく。レイヴンにかまけてくれれば、こちらが余計なお小言をいただく確率も下がって好都合というものだ。
姿が見えないのは女性陣だった。とはいってもだいたい想像はつく。パティは舳先で相も変わらず双眼鏡をのぞいているのだろうし、ふらっと消えたジュディスはバウルと話しているに違いない。残る少女二人は――船室だろうか。
近くに居るのはわかっているのだ。目を離していたとて何の危険があるはずもない。
でもなんとはなしに身体が動いた。ユーリは音もなく立ち上がると、利き手でドアのノブを握った。
持ったままだった剣が木製のドアに当たって鈍い音をたてる。もちろんカロルもラピードも振り向かなかった。そのまま押し開けて、階を降りて。
その先に、果たして予想していたとおりの人影はあった。
「エステル、リタ」
二人ともいる。が、向き合っておしゃべりでもしているとばかり思っていた彼女たちはしかし、てんでばらばらな方向を向いてそれぞれの趣味に没頭していた。
すなわちエステルは読書。そしてリタはといえば、床に部品をごろごろ転がして魔導器をいじっている。
「エステル? リタ?」
もう一度名前を呼ぶと、小柄なほうの少女がふいとこちらを向いた。
「なに、何か用?」
「いや、用はねぇけど」
てっきり作業に集中していて、「邪魔するなぁ!」と魔術が――とまではいかないにしても、怒鳴られるくらいはあるかと思っていたのだが。あっさり呼びかけに反応してくれたことに少し拍子抜けしながら、彼はわかりきった問いを口に乗せた。
「何してんだ、おまえら」
「何って。見りゃわかんでしょ」
「いや、わかるけどよ」
細かい作業をするならもっと明るい場所のほうがいいのではないか。内心が顔に出ていたのか、リタは肩をすくめて視線だけで階の上を見やった。
「甲板はガキんちょが散らかしてるでしょ。部品が混ざるのも嫌だから、あたしはこっちで作業してるのよ」
甲板は広い。が、彼女の理屈にも一理ある気がしてうなずく。バウルの飛び方が上手いのかなんなのか知らないが、高空を猛スピードで移動しているにも関わらず、フィエルティア号の甲板上の風は普段は割合穏やかだ。それでも多少の揺れはあるし、丸っこい部品がころころ転がって、なんて事態も考えられないことはないだろう。
「なるほどな。んで、こっちのお姫様も楽しく読書中ってか。せっかく時間あるんだからおとなしく寝てりゃいいのに……おーい、まだ身体も本調子じゃねんだろが。あんま根詰めると良くねえぞ」
「……」
「おーい、エステル?」
「…………」
「エステルさーん?」
船室の中央にはテーブルも椅子も配置してあるのに、隅っこの床にわざわざラグを敷いたらしい。ぺたんと座り込んで膝の本に目を落とす横顔は真剣だ。背筋はまっすぐ。息遣いに合わせて薄紅色の毛先がふわふわと揺れている。翡翠色の瞳は絶えず文字を追ってせわしなく動く。いつも淡く微笑んでいるかのように弧を描いている唇は今は真一文字に引き結ばれているから、たぶんこの本は物語ではなく歴史書や哲学書といった類のものなのだろう。
顔色は悪くない。呼吸も規則的で深い。変調は見られない。
「だめだこりゃ、聞こえてねぇわ」
一人ごちて、ユーリはエステルと背中合わせになる形で腰を下ろした。肩だけ触れ合って、次には体重をかけないように後頭部をそっともたれさせてみたが、何の反応もない。
ただ伝わってくる。はっきりとではないが、背中越しに伝わってくる気がする。とくとくと脈打つ命の音。薄い皮膚の下を確かに流れている血潮の熱さ。どう呼べばいいのか、はっきりとはわからない――だけど感じられる、気配のようなもの。生命力。
生きてる。
思考の真ん中に、すとんとその言葉が落ちてきて、彼はようやく安堵して全身の力を抜いた。
なんだろう。彼女が無事だったことなんて、とっくの昔にわかっていたのに。帰ってきてまず最初にそのあたたかさを抱きしめたのは、他ならぬ自分だったはずなのに。
頭で理解していても、まだ実感はないのかもしれない。だからことあるごとに確認しなければ気が済まないのかもしれない。
浮かんできたのは自嘲にも似た思いだった。母親を恋しがる子どもでもあるまいし、いったい何をやっているんだか。レイヴンやジュディスあたりに知られたら、まず間違いなく遊ばれるだろう。顔に出すようなヘマはしていないつもりだから、きっと大丈夫だろうけれど。ああでも、帝都では八つ当たりに潜んだ甘えも見破られていたから、案外とっくに気づかれているのかもしれない。そのうえでそっとしておいてくれているのかも。それはそれで有難いような迷惑なような複雑な気持ちになるけれども。
「……何やってんの、あんた」
今度は問うてきたのはリタのほうだった。なんとも失礼なことに、奇妙なものを見る目つきをしている。まあ、自分でも何をやっているんだと思うので、彼女がそう訊きたくなる気持ちもわからないではない。
「見てわかんねえか?」
「わかんないわよ。……あー、でも、まあいいわ。聞くだけ無駄だったわね、ごめん。バカっぽい」
最後の“バカっぽい”が誰に向けられたものなのか、問い質す気力はわかなかった。というより、どうでもよかった。少なくとも不快ではない。
今エステルはこちらを見ない。でも生きている。本さえ読み終われば、またユーリを見てくれるだろう。そして、花が咲くような笑顔を見せてくれるだろう。
この場から動く気は失せていた。食事どきまではまだ時間がある。今日の昼食は帝都で持たされた弁当にしようと言い合っていたから、必然的に料理当番というものも存在しない。自分たちがここでじっとしていたって誰に文句を言われる筋合いもないはずだ。
左手に巻きつけていた剣帯をほどく。伝わる息遣いも、風によるかすかな船の揺れも、何もかもが心地よかった。
ふと、背中が重くなったような気がした。
知らぬ間に集中しすぎていたらしい。かすむ目を労わるように瞬きして、眉間を軽く揉む。本に栞を挟んで脇にやり、顔をあげ――傍らで作業していたはずのリタはいつのまにかいなくなっていた。散らかしていたものも綺麗に片づけてあるので、やりたいことは全部終わったのかもしれない。
それなら自分の後ろに座っているのが彼女だろうか。そう思って首をひねると、さらりと黒が流れてきた。
同行者の中でその色をまとうのは一人しかいない。
「……ユーリ?」
名前を呼んだが、返事はなかった。代わりにぐっと背中が重くなる。支えきれなかった体重が移動して、ずるずると横にずれて――
「ひゃ、わっ?」
エステルは慌てて両腕を伸ばした。床に激突するところだった青年の頭をすんでのところで回収し、抱え込んだ勢いで膝に乗せる。なんとか惨事は免れた。ほっとして見下ろせば、そこにはなんともあどけない表情があった。
「…………。……ユーリ、寝て、ます?」
どうやら狸寝入りというわけではなさそうだ。伏せた睫毛が彼女の吐息に揺れる。指先でそっと額にかかった前髪をどけてやっても、薄く開かれた唇から洩れる寝息は変わりなかった。
いつから寝ていたのか、もうそれなりの時間は経っているのかもしれない。今までエステルが集中していて微動だにしていなかったから、寝入る前の姿勢が絶妙に均衡のとれた形になって、倒れずにいられたのだろうか。
エステルはくすくすとちいさく声をこぼした。まぶたを閉じたユーリの顔からは普段の鋭さが取れて、優しく、少しだけ――そう、少しだけ子どもっぽく見える。いつもなら、こんなに顔が近づいたらどぎまぎして正視できなくなるのに。見つめ返されることはないという安心感があるからか、一方的にじっくり観察できるのがなんだか楽しい。
そうだ、目の前でこんなに無防備に眠っているなんてそうそうないことなのだから、ここはひとつ、何か悪戯でもしてみるべきだろうか。顔に落書きするとか。ほっぺたをつまんでみるとか? ああでも、それじゃ起きてしまうかもしれないし。
実践すれば笑顔でそれ以上の仕返しをされることは確実なのだが、このとき彼女の頭からそれはすっぽり抜けていた。
しかし幸か不幸か、ささやかな企みはまとまる時間をもらえなかった。
「エステル? まだそこにいるのかしら?」
ぎしぎしと木製の板が鳴く音とともに、艶やかな声が降ってくる。顔をあげて振り向く。やってきたクリティア族の美女は、一瞬きょとんとし、それから笑顔になった。
「ジュディス」
「まあ、ユーリもここにいたのね」
「そうみたいです。……いつからいたのか、わたしはちっとも気がつかなかったんですけど」
ごく近くまでは寄ってこない。首をかしげるエステルにはかまわず一定の距離を保ったまま、ジュディスはさも楽しげに口元に手を当てた。
「こんなに無防備なユーリなんて珍しいわね。よほどいい夢を見ているのかしら? 私たちがすぐそばで話しているのに起きないなんて」
「ね、珍しいですよね。いつもは人の気配だけで起きるのに」
「おぉーいジュディスちゃん、あと青年と嬢ちゃんだけよ? 二人とも中にいるの……って、おおっ?」
たん、たんっと音がしたのは二回だけ。階を数段飛ばして転がり落ちるように降りてきたレイヴンはしかし、猫のように静かにしなやかに着地した。そのあとの足取りは鼠のように細かくてすばしっこい。音もたてずに走ってきたかと思えば、やはりにんまりとユーリを見下ろしている。
「何、どうしたの嬢ちゃん。青年ってば完璧に寝ちゃってるけど」
「あ、はい。それがわたしにもよく」
「あーっ!」
わからなくて、と続けた声は甲高い悲鳴のようなもので遮られた。レイヴンとは打って変わってどたばたと足音高く、リタが駆け下りてくる。
「ちょっ、何やってんのコイツ! エステル、あんたもあんたよ、おとなしく膝なんか貸してないでたたき起こしてやんなさいってば! てゆーか剥がす! 剥がす! おっさん手伝え!」
「ええー? おっさんご飯の前に力仕事とかやーだぁー」
魔術こそぶっ放さなかったが、ちいさな拳が頬にめり込み、彼は「ぐはっ」と本気なんだか冗談なんだかよくわからないうめき声をあげてぶっ倒れた。
「じゃあジュディス!」
「こんなに幸せそうなユーリ、初めて見るかもしれないわ。今たたき起こすなんてかわいそうじゃないかしら?」
「どこがよ! このふてぶてしい態度、ああもうそんならあたしが天罰下してやる!」
「あ、あのリタ? あまり手荒な真似は……」
興奮してぎゃんぎゃんわめくリタの声はさすがに少々音量が過ぎる。膝の上で、ユーリがぴくりと眉を動かした。
「ちょっと、何騒いでるのさリタ。みんなお腹すいてるんだから、早く上がってきて……って何やってるの?」
「ユ、ユ、ユーリ? エステリーゼ様?」
「ああ! ずるいのじゃエステル、うちもユーリを膝枕したいぞ!」
「…………ええと……?」
つまりは甲板で昼食を食べないかと、ジュディスが代表して声をかけに来てくれたらしい。それがいつのまにか船室内に全員入ってきてしまった。ジュディスとレイヴン(復活した)はにこにこしているが、二人に進路をふさがれている形のリタとフレンは殺気立っている。パティがずるいずるいと連呼しながら隙間を通り抜けてこようとするのを、たぶん何も考えていないカロルが後ろから引っ張って止めようとしている。
…………訳がわからない。
「……るせーなあ……」
蜂の巣をつついたかのような騒ぎだったこの場は、ちいさなつぶやきひとつに反応して水を打ったかのように静まり返った。
「ユーリ?」
「…………」
見下ろして呼びかけるが返事はない。ユーリはもごもごと口の中で何かを呟いて――たぶんうるさかったことに対しての文句かなにかだ――ごそごそと頭を動かして寝返りを打ち、エステルの腹に顔を埋めた。腕は腰に回されて、ああ、たぶん彼は彼女を羽根枕かなにかと勘違いしているのだろう。うるさいから枕に顔を押しつけて耳をふさぎ、再び安眠体勢に戻る。その思考回路は理解できないでもないのだが。
仕種そのものはむしろ幼いともいえる。眠たくてぐずる子どもがとる行動にも似ていて微笑ましい。けれど、押し当てられる肩や腕の硬さ、力強さは間違いなく成人男性のものだ。
髪をなでてやるべきか、それともやっぱりちゃんと起こしてあげるべきか。的外れなところで迷う彼女の眉は八の字になった。
「んんー? ……なんか……あったけぇ……?」
やがて自分で異常に気づいたらしい。抱きついた腕はそのままに、見上げてきた寝ぼけ眼とばっちり目があった。エステルとしては、とりあえず笑う以外の選択肢を見いだせない。
「えと……おはようございます?」
「ん、おはよ。って、なんだこの状況」
咄嗟に遊ぶほど目が覚めていないのだろう。ユーリは素直にエステルから離れ、身を起こしてくああ、とひとつ大きなあくびをした。左手でぼりぼりと頭をかく。その、かいている側とは反対の側頭部をリタがべしっとはたいた。
「ってぇ! 何しやがる!」
「ご挨拶だね、ユーリ」
肩を怒らせて震える少女はまだ御しやすいかもしれない。むしろ彼にとっての真の脅威は生真面目な騎士のほうだった。いくら親しいとはいえ、主君筋の、しかも姫君の膝を枕に太平楽にいびきをかいていたとあっては、見過ごすわけにはいかないのだろう。
空の上だというのにきっちり着込んだ甲冑が、かしゃんと音をたてる。右手は剣の柄にかかり、左手の親指はその鍔を押し上げている。
「あの、二人とも。あまりその……手荒なことは」
そもそもわざとではなかったのだし。むしろこの状況を招いたのはエステルだ。それでユーリがとばっちりを食ったのではいたたまれない。
けれど二人は聞く耳持たなかった。至極冷静に状況を把握しているらしいジュディスとレイヴンが、両側から肩をぽんぽんと叩いてくる。
「大丈夫よ、明日に響くようなことにはならないわ」
「そうそう、二人とも加減はちゃあんとわかってるわよ? だから俺たちは先に飯にしようぜ」
「ちょ、おまえら……」
「しょうがないよね。がんばってね、ユーリ」
「うちも……うちもー! ……仕方がない、後で突撃なのじゃ」
「ワフッ」
半開きになった扉を押さえるようにしてラピードが座っていた。くいと首を外に向ける動作は、早く上がってこいとでも言いたげだ。
誰も事態を収束させる気がない。エステルと、当事者であるユーリを除いては。
「だ、ダメです! ダメですってば!」
こうなっては彼の盾になれるのは彼女だけだ。黒衣にすがりつこうと腕を伸ばしたが、すんでのところで引き戻されてしまった。
「大丈夫よ、エステル」
「ジュディス……」
「二人とも、あなたにできるだけ治癒術を使わせたくないと思っているはずだから。つまりはそれほどひどいことにはならないわ」
多分ね、と微笑むジュディスはとても綺麗で優しい目をしていてほっとする。……ような、しないような。フレンやリタのように腹を立てているというわけではなさそうだが、むしろ楽しそうだが、言っていることは微妙に物騒だ。
「じゃあ普段なら治癒術を使うほどの事態になるってことじゃないですか!」
「そうとも言うわね」
「そうともって……ゆ、ユーリ! 痛かったら後でちゃんと言ってください、治しますから! 隠さないでちゃんと」
その叫びが最後まで届いたかどうかは怪しかった。ラピードが尻尾で扉を押す。ぱたんと穏やかな音とともにこちらと隔てられた向こう側の空間からは、特別気になるような物音や悲鳴は聞こえてこない、けれど。今のところは。
確か、食後のおやつとして王城の料理人がシュークリームを人数分持たせてくれていたっけ。自分の分はとっておいて、ユーリにあげることにしよう。
それくらいで機嫌を直してくれればいいけれど、とエステルは逆に不気味なほど静まり返った室内に思いをはせてため息をついた。
サブイベントをガン無視して本編進めた場合、エステルが帰ってきた良かったーとなったわずか数日後に今度はユーリが行方不明とかいう事態になるわけで(笑)
で、今度はエステルがユーリユーリ言いながらまとわりついたりするんだろうか。想像すると可愛いな。可愛いな…!(壊)
なんていうか、この辺りは息つく暇もない展開ですね。まあ世界情勢的にも息ついてたらおかしいんだけどさ。
あと、ユーリはもともとの性格と、旅の初期に「保護者役」が自分しかいなかったということも手伝って、自分は常に助ける側に回ってなきゃいけないんだ的な意識があったと思うのですが。
ジュディスやらレイヴンやら加わって、エステルカロルもずいぶんしっかりしてきて、ついでに仲間に甘えようって意識も芽生えてきて、ここら辺からは無防備な寝顔とかさらし始めるのかなと思います。
とかそういうこと考えてたらこういう話になりました。
あ、作中でもジュディスが言ってますがリタとフレンは魔術やら殴ったりはしないと思います。うっかり怪我させたらエステルが大騒ぎして治癒術かけそうなんで……そこに思い至らない二人じゃないと思う。せいぜい思いっきり手をつねるとか笑顔で皮肉攻撃とかそんな感じじゃないかな。ユーリは状況なんとなく察してため息とともに二人の教育的指導(八つ当たり含)を受け入れてあげてください。
地の文でエステルにするかエステリーゼにするか迷った挙句エステルにしてみた。いつもの私のパターンだとエステリーゼでいくところなんですが、今後はまあ視点によって変えるのが妥当かなあ…とか考えてます。予定は未定。