確かに待つ春
 枝の間から、青がのぞいている。
 風は澄んで、空はどこまでも高い。すっかり葉の落ちてしまった大木の根元はやはり茶色をしていて、春や夏のあの瑞々しい輝きはすっかり鳴りを潜めてしまっていた。
 でも、目を凝らすとそこここに小さな芽の前身のようなものが見える。これから来る冬を越えなければいけないから、未だ硬くて厚い皮に覆われてはいるけれど。暖かくなればいっせいに蕾が出てきて、またたくさんの花を咲かせるのだろう。
 エステルは微笑んで幹をなでた。今は手袋をしていないから余計によくわかる。ごつごつとした手触り。花の香りを、涼しい木陰を求めてやってくる人は数あれど、冬の間この大木の根元はいささか寂しい体になる。木の状態をよほど気にかけている住人か、彼女か、遊び場や彼女の語る話を目当てに集まる子どもたちか。それくらいだろうか。もっとも、人が来ようが来まいが春が来れば花は咲くのだろうけれど。
 もう一度空を見上げ、エステルは踵を返した。予定通りなら今日は恋人がこの街にやってくる日だ。時間までは聞いていなかったけれど、おそらく夕方になるだろう。お昼も過ぎたことだし、今から食事の用意をして待っていよう。近所の人がおすそ分けだと持ってきてくれた果物でパイでも焼いてみようか。喜んでくれるだろうか。
 と、坂道を上ってくる人影が見えた。風に長い黒髪が翻る。顔にかかる髪をかきあげた彼は、破顔して大きく手を振った。
「エステル!」
「……ユーリ!」
 エステルはぱっと顔を輝かせた。待ち人来たる、だ。彼が来る前におやつを作るという思惑はとりあえず潰えたものの、早く逢えるのは素直に嬉しい。少しの距離ももどかしく、坂を駆け下りて――ぶつかる直前に急停止する。
 本音を言えば、このまま抱きついてしまいたいところなのだ。でもそれをしてしまったら、たぶん二人してごろごろと坂の下まで転がり落ちていくことになるだろう。いくらユーリに力があっても、下り坂で勢いのついた彼女を受け止めきることはできない。
 だが、制動をかけるのは少し遅かった。青年の胸元に軽く額をぶつけてしまう。布でこすれた箇所をさすりながら、それでも笑顔を崩さず見上げる。べつに痛くない。そんなことにかまけている暇があったら彼の顔を見たい。
「あーあ、何やってんだ」
 優しい声が胸の奥をくすぐった。べつに痛くない。大きな手のひらでおおわれた箇所からじんわり温かさが伝わってくる。黒曜の瞳が細められて自分を見ている、そう認識するだけでふわふわして些細なことなど気にならなくなってしまう。
「おかえりなさい!」
「ん、ただいま。……大丈夫なのか? 赤くなってんぞ、そこ」
「大丈夫ですよ、べつに痛くないです」
 なおも額を気にする彼から一歩下がる。このままでは延々そこをさすられそうだ。
 触れられるのは好きだが、まさに「痛いの痛いの飛んでけー」状態で色気の欠片もない。こういうとき何故かユーリは恋人というよりは父親か兄のような顔をするのだ。まあ、父の記憶はなく兄もいない彼女にとって、彼がそんなふうに振舞うのを見ているのも、それはそれで好きなのだけれども。
「お仕事、予定どおりに終わったんですね。よかったです。ラピードはどうしました?」
「あいつは先に帰ってるとさ。……はああ……」
「え、ユーリ?」
 急に表情を曇らせてため息をついた彼に、エステルは眉根を寄せた。何かあったのだろうか。しかし口を開く前に腕を取られ、引き寄せられた。やんわりとした重みが身体を包む。二人の間の隙間がなくなって、それぞれの衣服に含まれていた冷たい空気がぽふっと音をたてて逃げて行った。ユーリはエステルの肩口に顔を埋めて深い呼吸を繰り返している。
「……はー……癒される……」
「はい? え、ユーリ、もしかして怪我をしているんです? 治しますから見せてください!」
 慌てて手を突っ張って離れようとするも、許してくれない。
「んにゃ、どこも傷なんてねえよ」
「それじゃ……」
「単に疲れてんだ。気疲れってやつ。だから癒して」
「はあ……」
 癒して、と言われても。
 ギルド“凛々の明星”は仕事を選ばない。首領であるカロルやギルドメンバーが是としたものなら内容に関わらず請け負う。要求されるものもそのときに応じて様々で――終わってから話してもらう約束だったのでまだ細かいことまでは聞いていないが、今回の仕事はギルドの要人に関係するものだということだけは知っていた。
 魔物の掃討等ならむしろ生き生きしているのに。いわゆるお偉いさんと接して疲れたのだろうか。ヨーデルに対してさえ不遜な態度を崩さないユーリだが、だからといって一緒に仕事をする人々の足並みまで乱すような真似はしない。たいしたことではないにしても、疲れる何かはあったのだろう。そういえばいつだったか、一応我慢も覚えたんだよね、とかなんとか一回り以上年上の風来坊が言っていた。それにちいさく毒づいていたのを覚えている。
 たぶん、似たような疲れなら味わったことがある。評議会のお歴々を前に、喧々諤々やりあった後の脱力感。嫌味は言われるし、論の穴は容赦なく突かれるし。だからといって決して投げ出したいとは思わない、むしろ充実感がある――けれど、ひどく疲れた気のするあの瞬間。甘いものを食べたいとか、気心の知れた人に甘えたいとか、そんな気分になることはエステルもしょっちゅうだ。
 確か、以前。そんなふうに疲れきっている彼女にユーリがしてくれたのはなんだったか。嬉しくて、一瞬でいろいろなものが飛んで行ってしまった記憶がある。あのときは確か。
「ユーリ」
 エステルは黒髪に隠れた耳に向かって囁いた。ユーリが首を曲げているとはいえ、身長差はあるので、少しばかり下から。
 なんだよ、と律儀に肩から顔をあげて見返してくる。素早く背伸びしてその頬に口づけた。驚いたのか抱擁が弱まってできた隙間から、両腕を背中に回す。ぽんぽんとたたいてきゅっと抱きしめた。
「お疲れさまです」
「…………」
「……ユーリ?」
 いつも不敵な光を宿している瞳が、呆気にとられて自分を見下ろしている。
「あの」
 何かまずかっただろうか。以前同じようにエステルが疲れていたとき、彼は軽く額に唇を落として「お疲れさん」と言ってくれた。嬉しいやら恥ずかしいやらで胸がいっぱいになって気が晴れて、だから同じようにしてみただけだったのだが。
「おま、」
「ひゃっ?」
 ぎゅうと締めつけられて肺から一気に呼気が抜けた。力はすぐに緩んで、息苦しいのは一瞬だったけれど、拘束されて身動きができない。頭までがっちり固定されているからユーリの顔も見えない。ただどくどくと全身に響く自身の鼓動がうるさかった。聞こえているだろうか。どうせお見通しなのだろうから今更知られたところでどうにもならないのだけれど。
 熱い吐息が首筋に触れて、ぴくっと身体が跳ねた。
「早く結婚してぇ……」
「……え、と? どうしたんです、急に……?」
「急じゃねえって。……いやな、普段から思ってはいるけどなんつーか……」
 微妙に歯切れが悪い。照れくささが勝るのだろうか、珍しい。けれど紛れもなく本音なのはわかって、エステルの声は弾む。
「あとたった半年ですよ」
「順調に行けば、だろ」
「行きますよ。わたしとユーリだけじゃないんです、ヨーデルもフレンも、みんなも協力してくれているんですもの。延期なんてないです、ね?」
「確かに説得力はあるな」
「でしょう?」
 婚約、そして半年後に結婚を予定するまでに漕ぎつけられたのは、なにしろ現皇帝であるヨーデルの力が大きい。彼と、騎士団長を務めるフレンが後押しして根回しを手伝ってくれて、ようやく評議会を納得させることができたのだ。二心なく賛成してくれているのは半分いればいいほう、ではあるのだが、反対一色にならなかったのはエステルにさえ驚きだった。こんなことにさえ彼と自分の王の器の違いというものを感じる。はじめはギルド側の反応だって芳しくなかったのに。
 大丈夫。ここまで来たのだから、あと半年で残りの憂いも、全部は無理でもできるだけなんとかして、晴れやかな気持ちでその日を迎えられるようにがんばるしかない。
 いかにも幸せいっぱい、な表情で笑ってみせる彼女につられたのだろうか。ユーリも目元をやわらげた。触れるか触れないかの軽い口づけがいくつか降りてくる。エステルはころころと笑って身をよじった。抱きしめる腕が強くなる。
「…………まあオレがそれまで我慢できるかっつーのが目下一番の問題なんだけどな……」
「はい?」
 ぼそっとつぶやかれた台詞はよく聞こえなかった。聞き返しても首を振るだけだ。
「いや、なんでもね。……よっと!」
「きゃっ!?」
 エステルは、急に浮遊感に襲われてちいさく悲鳴をあげた。横抱きにされたのだと理解して、慌てて両腕をユーリの首に回す。不安定な姿勢を回避して息をついた彼女の目に入ってきたのは、ずんずん近づいてくるハルルの大木の幹だった。
「ユーリ? 家に帰るんじゃないんです?」
「あー、後だ後。まずはここでエステルを抱き枕に昼寝する。オレ疲れてるんだよ」
 きょとんと瞬きする。先ほど彼は気疲れ、と言っていなかっただろうか。確かに、理性に縛られた思考から解放されて頭を休めるという点では、睡眠は気疲れにも効果があると言える。でもどうせ寝るならちゃんと寝台で横になったほうが身体的な疲れも取れるのではないか。
「ならなおのこと帰りましょう。ユーリが寝ている間にわたし、お夕飯の準備をしてしまいますから」
 ユーリに限らず、リタやそのほかの面々が顔を出しては泊まっていくこともないではない。なので一応寝室として使える客間は最低限確保してある。
「却下。おまえは抱き枕役だって言ったろ」
「う。……じゃあ、ちゃんと枕になりますから。だから帰りましょう。ベッド、昨日シーツ干しましたから気持ちいいですよ?」
「いやだからそれはオレが無理」
 敵は手ごわかった。坂道を運ばれている状態では、腕から無理矢理抜け出して飛び降りることもできない。エステルはおろおろと高台から周囲を見回し、ユーリの肩に抱きついた。
「でも、ここじゃ誰か来るかもしれませんし……あの……せめて裏のほうとか……」
 今は周囲に人気はない。だが今後もそうだとは限らないではないか。二人とも町の人々とはすでに顔なじみになっているし関係も知られてはいるが、野外で抱き合って寝こけていましたなんてそんなことが広まったりした日には、恥ずかしくてしばらく外を歩けなくなってしまう。
「…………人が来る可能性があるほうが好都合なんだけどな」
「意味がわかりません……」
 今度のつぶやきはちゃんと聞こえた。が、意図がわからない。あまりこういったことでからかわれるのは好きではないようなのに、方針転換でもしたのか。
 けれど、真っ赤になって俯いたエステルの意はさすがにくんでくれたらしい。よっこらせと片足を太い根にかけて、視界が少し斜めになった。
「……しょうがねえな。じゃあ」
 言う間にも大木の周囲を回り込み、根の間、窪みになったところに腰を下ろす。やっと揺れない地面に下ろされた彼女はほっと息をついた。
「こっちならそうそう見えないだろ」
「はい」
 正面の広場からは死角になる場所だ。確かにここなら子どもたちも滅多に足を踏み入れない。改めて抱え込まれて、ユーリのはだけた胸元が眼前に来る。頬が熱いのをごまかすように目を閉じて額を押しつけると、くつくつと低い笑い声が耳朶を震わせた。
「ちっとは慣れろって」
「慣れませんよ……」
 手をつなぐだけでもおかしいくらいに心臓が騒ぎたてるのだから、こんな状況に慣れられる日なんて一生来ないのではないかと思ってしまう。でも離れたら途端に寂しくなってしまうのだから因果なものだ。
 赤くなっても逃げ出さず、おとなしく腕の中に納まっている彼女の内心など筒抜けだろう。満足げな吐息とともにつむじにやわらかい感触が落ちてきた。
「じゃ、おやすみな。エステル」
 長い指が髪の間を優しく通り抜けていく。晩秋の風は少し冷たいけれど、こうして寄り添っていれば風邪もひかずにすみそうだ。
「はい、おやすみなさい、ユーリ」
 どきどきしているのに自然に笑えた。ふんわり緩む口元を自覚しながら、黒い布地をきゅっと握りしめる。
 腕が背中に回って、真綿でくるまれるかのような温かさが全身を包む。どこよりも安心できる場所。
 エステルは微笑んで、押し寄せてくる優しい闇に身をゆだねた。
--END.
先に寝こけたエステルさんを抱えてしばらく寝つけないユーリ・ローウェル氏。

というわけで相変わらずギルドの仕事で飛び回るユーリと、ハルル(ほとんど滞在はできてない)と帝都を行ったり来たりなエステルの、婚約中だよラブラブだよ話でした。結婚するまで手を出さないと自分内ルールを課してしまった黒狼さん、つまり途中のつぶやきはゲフゴッフ!
エステルはまだハグやらなんやらだけで満たされているので余計に以下略。
書いてて思ったけどエステルってほんとユーリ大好きですね。いやゲーム本編中でもものすごく伝わってくるけど。
「罪人と姫君」が果たして結婚まで漕ぎつけられるのかって話ですが、まあ、「テイルズだしいいんじゃね?」と思います。正直理由はそれだけです(大笑)
だってテイルズって身分差何それおいしいの状態じゃんわりと昔から。
もちろんエステルが継承権放棄するのは大前提だと思いますけどね。子どもができても継承権なし。


以下は曖昧にしとくのが一番だろうなー(書きやすいか否か的な意味で)と思いつつつらつら妄想してみる。
ED後ですが、エステルは副帝はたぶんそのままやる。というか本来の副帝とは意味合いを変えて権限とかは削られそうだけど。そんで情勢安定したら普通に降りそうだけど。フットワークの軽い要人として、ヨーデルの名代の意味合いが強くなりそうだなあ。主にダングレストやらギルドの勢力圏に出歩く要員として。ついでにシナリオブックでやってたみたいな調査にも加わってみたり。今まで特権階級として生活して教育されてきたわけだから、性格的にも義務的にもいきなりヨーデルに丸投げはできるわけがないってことでそのあたりが落としどころでしょう。前皇弟の冒険王レギンみたいな位置にいくんかな。先例があるぶん多少は納得させやすいよね。まあ十年単位で見れば少しずつ少しずつ表舞台からフェードアウトしていきそうですが。…それにしても忙しいな…何重生活だ…
あ、レギンってもしかしなくてもヨーデルのお父さんですよね。え、それでいいんだよね…? だから余計にヨーデルはエステルの後押ししてくれるのかなと思った。本編中でもやたら「世界を見てきて」とかそれっぽいこと言ってた気がするし。
ユーリは一応星喰みの件で恩赦扱いなんだっけ? でも今後また同じことをやったら普通に自首するか逮捕されると思います。でもたぶんやらないと思う。信念を覆すとかじゃなくて安易に突っ走らないでほかの道を探すようにはなれていると…たぶん。じゃなきゃ本編中のフレンやらカロルやらの心配が報われない…
ユーリはユーリで、カロルを含めて将来的にギルドの中で重鎮になるだろうと目されている雰囲気があるので、エステルと結婚することは対外的には皇帝家をより身近に感じさせるためのイメージ戦略とギルドとの友好がうまくいっているというアピール的な意味で、目立たないけど式典とかの時隅っこにひっそり立ってそう。

二人が幸せに結ばれるっていうのは、状況的に難しいことは間違いないんだろうけど、正直この人たちが腹を括ってしまえばわりとどうにかなりそうなイメージしかないので。
結局そういうことです。
(2012.09.30)