この腕の中に





 ちいさな背中が震えている。
 港に停泊させた船の甲板の片隅で。
 膝を折り、背中を丸め、ピンクの布地に包まれた細い腕で自分を抱きしめながら。
 おろした薄紫の髪の毛は、白い月の光に照らされ、冷たい海風にあおられている。

 ちいさな体が震えるのは、
 寒さのためか。
 それとも、近い将来、必ず訪れる決断の時を思ってか。 
 ちいさく丸まっていた体がさらにちいさくなる。
 膝に顔を埋め、ちいさくちいさく。

 彼女の足元に丸まっている青い毛玉は気づいているだろう。
 扉に手をかけたまま立ちすくんでいる自分に。
 甲板に足を一歩踏み出したまま動けないでいる自分に。
 時折、顔をあげては彼女の体に頭をこすりつける。
 それ以外なんの反応も示さないのは隠れて震える彼女ため。

 ドアノブをきつく握りしめる。冷えた鉄が体温を奪い、すこしだけ暖かくなるのを感じる。
 こんな風に暖めてやれたら。
 けれど。

 素直になれなくて。
 気遣うどころか、怯えさせるばかりで。
 それがさらに苛立ちをつのらせる。
 やさしい言葉もかけられず、役にも立たない知識ばかりが頭を巡る。
 こんなに無力だとは思わなかった。
 村を出て、大学へと進み、自分は成長したものと思っていた。
 これではなにも変わらない。
 幼いころと何も変わっていない小さな自分。

 なにもできなくて。
 自分の無力さばかりが目について。
 情けなくて。

 涙がでた。
 呼ばれる。
 声がする。
 自分を呼ぶ、心地よい声。
 ゆらゆらと意識がゆれる。
 重苦しかった気持ちが和らぐ。

 意識が浮上する。
「キール!」
 体を大きく揺さぶられ目を開いた。
 暗い部屋にサイドテーブルの上の、ランプの光が揺らめいている。
 寝台に横になったキールの体の上に、隣の部屋で眠っているはずのメルディが覆い被さるようにしていた。
 心配げな瞳に安堵の色が浮かぶ。
「キール。よかった。たくさん呼んだけどなかなか起きなかったな」
 メルディの小さな唇からため息が漏れる。
「メルディ?」
 どうした? と聞きながら体を起こす、と何か異変を感じた。
 顔に風が当たる感触。
 手で触れると、濡れて冷たくなっていた。
「なん、で」
 頬を寝巻きの袖で拭う。
「だいじょぶか?怖い夢でも見たか?メルディ、クイッキーに呼ばれたよ。そしたらキールが」
 小さな指が拭いきれなかった雫をすくう。
 自然に目が指先を追い、改めて自分が泣いていたことを知る。
「・・・そうか」
 そう一言だけ漏らした途端、鼻の奥がつんと痛みを訴えた。その拍子に瞳の縁に再び涙が盛り上がるのが見えた。
「キール。だいじょぶか?」
 溢れた涙を拭おうと、メルディが手を伸ばす。
「大丈夫だ」
 ふい、と顔を背ける。視界の端に行き場のなくなった手を胸元で握るメルディの姿が見えた。
 傷つけている・・・。
 キールは罪悪感に深いため息をつきながら、手のひらで顔を覆った。
 けれどきっとひどい顔しているだろうから。目を背けたくなるほど情けない顔を。
 そんな顔を見られたくなかった。
「キール・・・」
 小さな声で呼びかけられても顔を上げる気にはならなかった。
 さらに心配させると判っていても。
「・・・だいじょうぶ、だから・・・部屋に戻っていろ」
 震えないよう、やっとのことで声をしぼりだしそれだけを伝える。
 しかし、動く気配はない。
「キール」
 再び呼ばれる。
 何度呼ばれようと顔を上げるつもりはなかった。
 それどころか、いつまで経ってもこの場から離れない彼女に苛立ちさえ感じ始めた。
「・・・戻れっ・・・」
 自分勝手なのはわかっていた。
 けれど、どうしてもこんな姿は見られたくなくて、もう片方の手も使って顔を隠した。

 世界を守るため、たった一人で見知らぬ世界にやってきた小さな少女。
 気を狂わせんばかりの過酷な現実にも押しつぶされず、耐えてきた。
 大切な人を失った傷は今もなお癒えていない。

 それでも。
 彼女は笑う。
 悲しみも痛みも、脅かし続ける黒い力も全てを抱えて彼女は笑う。
 故郷の暖かい陽だまりのように、優しく穏やかに。

 立てた片膝に額を乗せる。握った拳をシーツに落とした。
 さらり、と軽い衣擦れが聞こえた。
 戻るのかと、息を吐く。
 朝になれば、普段の自分に戻れる。
 だから今は・・・。

「だいじょぉぶな」
 ふわり、と暖かいものが頭を包む。
 さらりとした布地の下の暖かく柔らかい感触に息を飲む。
「キール一人じゃないな。メルディがいっしょ。クィッキーもいるよ。」
 続けながら、メルディが抱きしめる腕に力を加える。
 耳元でささやきが聞こえる。
「なぁんにも、こわいことなんてないな」
 いつのまにか冷えてしまった体に、メルディの温もりがしみわたるようだった。
 なだめるように背中を撫でられ、おろした髪を梳かれる。
「キール、メルディに約束してくれたよぅ。メルディといっしょって。ずぅっといっしょって約束してくれたよ。だからメルディさみしくないな。シゼルもバリルもリッドもファラもいないけど、キールがいてくれるよ。クイッキーもきっとそうな。さみしくないな。だからこわくないよ。キールは、メルディだけじゃだめか?」
 キールが頭を動かす。
 メルディの腕の力が緩められた。
 顔を上げれば、メルディが微笑んでいた。
 瞬きをすれば、雫がまたひとつ零れる。
 メルディが唇を寄せ、それをすすった。

 赤く色づく瞳の縁に、額に、こめかみに、優しく口付けを落とす。
 なされるままに瞳を閉じる。
 黙って口付けを受け止めるキールをメルディが見下ろす。
 橙色のランプの光が、キールの白い肌を包んでいた。その肌に色を乗せるのは、癖のない青い髪の毛。涙で濡れた頬に張り付いたそれを、優しく撫でるようにして払っていく。触れればさらさらと、指の間から零れていく。
 濡れて、いつもよりも黒っぽく見える長いまつげ。
 遠く離されてしまった、彼と自分の父の、故郷の海を思い浮かばせる青い瞳はまぶたに隠されていて。
 その瞳に見つめられたくて名前を呼んだ。
「キール」

  
 ささやくような声で名前を呼ばれ、キールは目を開いた。
 いつもよりも少し高い場所でメルディが、先ほどよりも鮮やかな笑顔を浮かべていた。ランプの光でおろしたままの、薄紫色の髪の毛がいつもよりも赤っぽく、きらきらと光っている。
 その光から視線を移動させると寝巻きに包まれた腕が自分を抱きしめていたことを思い出す。
 彼女の指は自分の髪を絡めたままだ。時折、ゆっくりと梳く。その手を掴み、手のひらに自分の頬を押し付け、そのまま唇に寄せた。軽く口付ける。
 ぴくりと、手のひらが微かに震える。
 もう片方の腕でメルディの腰を引き寄せ、左胸の真下に耳を押し当てた。
 とくん、とくんと、脈動が聞こえる。
 その音を聞きながら、キールは瞳を閉じ、メルディの言葉を思い出していた。
"キールがいてくれるよ"
"だからさみしくないな"
 メルディを抱く力を少し強める。
 柔らかな体を頬に押し付ける。
「メルディ ・・・」
 キールがメルディの名を呼ぶが、再び口をつぐむ。
「なにか?」
 続きが聞きたくて、メルディが身じろぎをし、キールの顔を見ようとする。
 キールは大きく息を吸い、吐き出すとメルディの体を、立てた両膝の間に座らせた。
 紫色の瞳を真正面から見据える。
 小さな肩から零れ落ちるふわふわの髪を一房つまんで、指の腹で撫でる。
 あの船の上で風になぶられていた薄紫の髪が手の中にある。
 震えていた背中、自らを抱きしめていた細い腕、その全てが目の前にある。
 あの時見えなかった紫の瞳は、たまに瞬きで隠れはするものの逸らされず、じっとキールと見つめている。
 キールはもう一度息を吸い、細い吐息と共に言葉を紡いだ。
「もう一度約束したい」
 口に出したとたんに、どくどくと動悸が大きくなる。
 つまんだ髪の毛に力を込めてしまわないよう、指を離す。
 そのままシーツの上に降ろし、ぐっと握り締めた。
「今度は僕のための約束だ」
 あの時の約束は、何もかもを一人で抱え込もうとしたメルディを思ってのものだった。
 一緒にいる、ということは二人がそろっていないと意味のないものだから、特別やり直す必要もないのだろうけれど。
 それでも。
 メルディの瞳が和らいだのを確認し、続けた。
「ずっと、メルディと一緒にいる。一緒に生きていく。・・・何があっても」

 再び零れ落ちた雫を、すかさずメルディが指で受け取る。そのまま首にすがりつき、以前よりも広くなった背中に腕を回した。
「はいなっ・・・・。いっしょな。メルディ、キールとずっと、ずぅっといっしょに生きていくよぅ。何があってもぜったいっ・・・」
 肩口でささやかれる言葉は少し、くぐもっていたけれど、確かにキールの耳に届けられた。
 とめどなく流れ落ちる涙を拭うこともせず、溢れるにまかせ、メルディの小さな背中を抱きしめた。

 もう、ひとりで震える姿を見ることもない。
 震える背中は、この腕のなかにあるのだから。







--END.




|| INDEX ||


紫雲英の戯言
えっへっへっへv
「泣き」の話だと聞いてて、てっきり泣くのはメルディだと思ってたのにイィィーー!!(笑)
そこはかとなくメルキルで悦です、悦v
ってか甘い…甘いよう…もう幸せだよぅ…(ボキャ不足)

題は私がつけました…が。
うーん、もっといいの考えたかった…
とにかくとにかく、ありがとうございましたーーvv