窓の外が蒼く染まっている。
 この時期は、毎日のように雨が降る。
 鬱陶しいと言う人もいるけれど、これは恵み。
 雨が上がれば、緑の燃え立つ季節が始まる。




紫陽花の花





 しとしとしとしと、外は相変わらずの雨だ。
 窓辺からは紫陽花の垣根がのぞく。
 雨粒が立てる音のほかには何も聞こえない、静かな時間。
 キールは腕の疲れを感じて、読んでいた本をかたわらのテーブルに置いた。
 いつもなら本が乗っている膝の上は、今は淡紫の頭と青い毛玉に占領されている。楽しい夢でも見ているのか、ときおりくすくすと笑い声のような寝言を漏らす、彼の大切な少女。
 例によって読書の最中にまとわりついてきたメルディを追い払う気にもなれず、好きにさせておいたらいつのまにか眠ってしまった。あどけない表情の一人と一匹に、ついつい口許に笑みが浮かぶ。
 額にかかる髪を一房払いのけてやってから、彼は何とはなしに窓の外を眺めた。
 紫陽花の垣根。
 花というものは一般的に太陽のもとでこそ輝くものだけれど、紫陽花は違う。雨に打たれているときの姿こそが一番美しい花。
 泣いているわけでもないだろうに。






「なあキール、あの花なんていうか?」
 外に食事に行きたいと駄々をこね、面倒だから嫌だと言ったら大きな瞳を潤ませてすがりついてきた。
 それが作戦だということはわかりきっているのだ。わかりきっているのに、こぼれそうな涙に慌てて結局折れてしまう。その後に待っている笑顔が見たくて。
 案の定というかなんというか、承諾した途端にメルディは泣きそうな顔から満面の笑顔へと早変わりし、「キール大好き!」などと言いつつ抱きついてきた。真っ赤になって引き剥がしながら、それでもまあいいかなどと思わされてしまうのは、いつものこと。
 食事を終えて外に出てみたら、雨がざあざあ降っていた。
 雨季。
 気候形態の違うインフェリアとセレスティアを往復する生活に慣れきっていたためか、すっかり忘れていた。そこここに咲く紫陽花の花や、どんより曇った空を見ればわからないはずはなかったというのに。
 完全に、失敗だ。
 食堂の軒先で、しくじったなあ、と頭を掻いたキールの袖を、メルディが引っぱった。
「なあキール、あの花なんていうか?」
「……うん?」
 宿まで結構距離あるしなあなんで傘持ってこなかったんだろうバカだなあなどとひとりぶつぶつつぶやいていた彼は、傍らの少女を見下ろして、その指差す先に視線をやった。
 雨にうたれてたたずむ、青紫の花。
「……ああ。紫陽花か?」
「あじさい、いうか」
 メルディはぼんやり花を見つめている。キールはその横顔をそっと盗み見た。そういえばセレスティアで紫陽花の花を見たことはない。そもそも日光の乏しい世界で、花どころか植物そのものがあまりなかった。エターニアが本来の姿に戻ってからは少しずつ増えてきてはいるが、それでもインフェリアの緑の豊かさとは比べるべくもない。いつだったか、こんなにも緑豊かな世界があるとは思わなかった、と彼女がぽつりとつぶやいたのを覚えている。
 突然メルディが振り向いた。大きな瞳とまともにぶつかって、彼はわけもなく動揺してあさっての方向を向いた。
「……なあ、あれもあじさいだな? ……色、違うけど」
 指差したのは先ほどの垣根とは通りをはさんで反対側の茂み。あちらの紫陽花は、赤紫色をしている。
「……あ、ああ、そうだよ」
 ふーん、とうなってまた顔を元に戻す。
「なんで色違うか? 種類が違うか?」
「ああ、……種類は同じだと思う。花びらも葉っぱも、同じ形してるだろ? 紫陽花は生えてる土の質によって色が変わるんだ」
「じゃあ、同じなんだ?」
「うん」
 それがどうかしたのか? と聞くと、彼女は軽く首を振った。
「べつに、意味はないけどな。……青いほう、キールの髪と目の色に似てるな。紫がほうは、メルディの髪の色に似てるな」
 言われれば、そう思えなくもないが。
「意味はないけどな。……同じ種類のお花、だな。なんかうれしいよ」
 はにかむでもなく、淡々と言ってのける少女の横顔は、言葉の内容に反してあまり嬉しそうには見えなかった。自分でもよくわかっていないのだろう。
 いつもなら眉をしかめて聞き返すキールだったが、彼はなんとなくその理由に達することができたから、ため息をついて空を見上げた。雨粒が、後から後から落ちてくる。
「……ぼくは、あんまり嬉しくないけど」
「え」
 ちいさな声だったが、雨音に邪魔されることなくしっかりと彼女の耳に届いたらしい。メルディは両手で彼の白いガウンを握りしめた。
「……メルディと同じ花だったら、キールはいやか?」
 震える声に、思わず胸元を見下ろす。紫水晶の瞳にはよくもまあ一瞬でこれだけ、と思うほどいっぱいに涙がたまっていた。まばたきすれば、しずくになって流れ落ちるだろう。キールは慌ててメルディの頭に手を置いてかぶりを振った。
「ちっ、違う、同じ花だったら嫌だっていうんじゃなくて!」
 声が上ずる。ぐすぐすと鼻を鳴らし始めた少女の顔を直視できずに、彼はあらぬ方向を向いて蚊の鳴くような声を絞り出した。
「……だって、泣いてるみたいじゃないか」
 顔を逸らしたまま勘だけで手を動かして頬に流れる涙を拭う。
「……紫色の紫陽花が雨に濡れてるの見ると、……なんか、おまえが雨の中で一人で泣いてるみたいに見える」
 ひとりぼっちだと、孤独に怯えて泣く様を、いやというほど見てきた。
 雨に濡れてたたずむ紫陽花を見ていると、メルディが寒さに震えている様が目に浮かぶような気がする。
 勝手な感傷だけれど。
 苦しさも悲しみも、彼女のところに届く前に追い返してしまえればいいなどと、かなわないとわかっていながらも願わずにいられない、彼としては。
 メルディ自身の口から、雨に打たれる花に似ているなどという言葉は聞きたくなかった。
「だから……わ!?」
 淡紫の頭がもぞもぞとガウンの中に侵入してきたのに気づいて、彼は声を裏返した。
「ななな、なにやってんだよ、離れろ!」
「……メルディ寒い」
 メルディはキールのガウンの中にもぐりこんで、彼の腕を抱きしめた。
「こうすれば、あったかいな」
 キールにしてみれば、動悸が増して暖かいどころか暑いのだが、なんとか心を沈めて深呼吸する。
「……宿に、戻るまでだからな」
「うん」
 えへへ、と嬉しそうに笑うメルディを見下ろして、彼もまた微笑んだ。
 雲間から、少しずつ光が差してくる。
 つかの間の晴れ間が近づいている証拠だった。




「う……ん……」
 メルディがもぞもぞと身動きしてうめき声をもらした。
 起きたのかと思って顔を覗き込んだが、まぶたは閉じられたままだ。ほっとしたような、残念なような気持ちになる。紫水晶を思わせる大きな瞳が、彼はとても好きだった。
 けれどそれを自覚してしまっているから、いざ目の当たりにすると頭が真っ白になってしまって、簡単な言葉すら紡げない。
 安心しきった無邪気な寝顔。そこには暗い影など一筋も見られない。
 無意識にふわふわと手触りのいい髪をなでてやりながら、彼もまたゆっくりと眠りに落ちていった。




「……キール?」
 髪をなでてくれる手のひらが心地よくて、しばらくおとなしくまぶたを閉じたままでいたメルディは、頭だけ持ち上げてキールの顔を見上げた。
「……寝ちゃったか」
 メルディはもそもそと起き上がり、端正な顔をじいっと眺めた。
 この青紫の瞳で優しく見つめられるとどきどきする、というのは以前からわかっていたことだけれど、最近はこうして目を閉じた顔を眺めるだけで、動悸が速くなる。
 いや、顔だけじゃない。大きな手のひら、蒼い髪、後姿。
 ぎゅっと、胸が締めつけられるような、けれど甘い甘い感覚。
「んふふふ」
 メルディはキールの腰に手を回して胸に顔をうずめ、くぐもった笑い声をもらした。
 普段はこんな真似しようものなら真っ赤になって怒鳴られるか、するりと逃げられてしまうかどちらかなのだが、今彼は眠っている。
 今のうちに思う存分甘えておこう。起きたらどうせ読書を再開してかまってくれやしないんだから。
 あったかいな……
 雨のせいで日差しが差し込まない部屋は肌寒い。でも、こうやってくっついていればあたたかいだけでなく幸せな気持ちまで広がって、不安や恐怖など心の中からすっかりしめ出されてしまう。
 気持ちいい。
 起きたばかりだというのに、再び重くなってきたまぶたをこすり、メルディはキールの腹の上に頭をもたげた。






 外では相変わらず、紫陽花が雨に打たれている。
 雨は空の涙だという者がいる。
 けれど、少なくともこの雨は、彼ら二人の涙では、ない。







--END.




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あとがき。
テーマは「雨」。
「雨」→「梅雨」→「紫陽花」と、三段論法で(笑)
紫陽花はやっぱり雨降ってる最中に見るのが一番綺麗ですね。
晴れてるとなんかくたっとしてたり茶色だったりするからいやん。
紫陽花リトマス試験紙もどき(笑)な話を小耳に挟んだことがあって、それでこの話書いたのですが…
うろ覚えなもんで自信はなかったりして。間違ってるかも。

インフェリアはなんとなく四季がありそうな感じです。
シャンバールとかはないだろうけど、ラシュアンとかインフェリアとか。
真ん中の紫陽花うんぬんは、キールの回想です。現在→回想→現在の流れで。
別に紫陽花に「暗い」とか「泣いてる」とかのイメージ持ってるわけではないですが、書いてるうちにこうなりました。

キリ番3000Hitアツキさまのリクエストでした。