数日間、閉めきった扉の向こうから物音が絶えないというのはさすがに心配になってくるのだけれど。
だけどがんばっているのに水を差すのも申し訳ない気がしたから、だからせめて食事だけはきちんと取ってくれるようにと、やはり彼女も一日三度、必ず彼の部屋へ足を踏み入れた。
嵐のあとの
カチャカチャと硬質な音と、何やら水が沸騰しているときのようなボコボコ言う音と。耳慣れない音が充満するその部屋に、メルディは昨夜とまったく同じように食事の乗った盆を持って現れた。
キールが振り返る気配はない。相変わらずぶつぶつと聞き取れるか聞き取れないかの声で――もっとも、聞き取れたとしても恐らくメルディには内容などわかりようもないのだろうが――つぶやきながら、忙しく手を動かしている。
メルディは自らの吐息に後れ毛をふわふわと揺らしながらしばらく待ってみたが、それでもやはり状況は変わらなかった。知らずため息が洩れる。
たとえそれが如何に大切な研究であったのだとしても、食事だけは抜かせるわけにはいかない。それに、徹夜は今日で三日目だ。今日こそはしっかり睡眠を取らせるのだという固い決意を胸に、彼女はすうっと息を吸い込んだ。
とりあえず盆をドア脇のチェストの上に置き、その場から声をかけてみる。
「キール」
「……………………」
返事はない。少し近づいてから、もう一度。
「キール」
「……………………」
やはり気づかない。斜め後ろからときどき見え隠れする蒼い瞳は、ただひたすらに目の前の実験機材をみつめている。今の彼にとって、メルディの声など、それら機材がたてる物音にすら劣るものなのだとあざ笑われているような気になって、彼女はむっと唇を尖らせた。
……かくなるうえは。
「キールぅっ!!」
「うわあぁッ!?」
がしゃがしゃん!
耳元で大声を出され、いつもどおりキールはすっとんきょうな声をあげてひっくり返った。メルディは一瞬満足感を感じて笑みを浮かべた。思惑通り、さて食事の時間だ、と。
しかし、今回はそれだけではおさまらなかった。
びしゃり、と何かが降ってきた。
液体。
「……ふぇ?」
メルディはきょとんとして目をしばたたかせた。
「っ……! メルディ〜〜〜……」
怒りとやるせなさを含んだ声音でうなりながら、こちらを見ているキールの表情に忘れていた大事なことを思い出す。
自分が今頭からかぶったものは、さっきまで実験で使われていた薬品だ。
確か、キールがインフェリアに行った際に大学の友人に頼んで手に入れたものだと聞いた。インフェリアでしか育たない植物を原料に、研究用に調合することしか許されていない、貴重な。
さっと顔から血の気が引いた。
なんてことをしてしまったのだろう。それでなくともこれはキールの三日三晩かけた努力によって生み出された結果のひとつであるのに。それを自分は、彼がちょっと気づいてくれなかったからというちいさなちいさな理由で台無しにしてしまったのだ。
じわりと視界がゆがんだが、そんなことは気にしていられなかった。割れた破片の中にまだ少し薬品がこぼれず残っている。集めれば何かの役にはたつのかもしれない。
そう思ってメルディは必死でフラスコの成れの果てをかき集め始めた。
「何やってる!」
ぐい、と手をつかまれる。切羽詰った形相のキールを見て、彼女は身をすくませた。
(怒られる!)
「ごっ、ごめ……!」
「こっち来い!!」
問答無用とばかりに風呂場に連れて行かれ、服を着たまま頭から水をかぶせられる。何度も、何度も。もう何が何やらわからない。ただ気管に水が入らないように息を調節するのが精一杯だ。
しばらくの水攻めの後、彼女は唐突に解放された。
「ケホッ! ケホコホ、ごほっ……!」
むせても気遣いの言葉はやってこない。
今度は熱い湯を出すシャワーを握らされる。
「……外に着替え、用意しといてやるから。髪も身体もちゃんと洗ってから出てくるんだぞ」
説明を求めて背中を眺めても、こちらを見もしない。質問するいとまも与えずに一方的に話を打ち切り、キールはさっさと風呂場から出ていってしまった。
「……キール」
生乾きのふわふわ髪を背に流したままでメルディが風呂場から出てきたとき、彼はテーブルの上に一連の救急用具を並べているところだった。
「こっち来い」
彼女はおびえたまなざしを向けてくるけれど、さすがにすぐに優しげな笑顔を作れるほど人間ができてはいない。キールは嘆息しながら自分も座るソファの隣をぽんぽんと叩いた。
彼女が座るのももどかしく、まだ湿ってしっとりとした手を取る。
腕のほうは服に保護されていたためか外傷はなかったが、手が少し赤くなっている。指先には裂傷がいくつか。
「ひりひりするだろ」
刺激を与えないように細心の注意を払いながらなでると、未だちいさくなったままのメルディがおずおずとうなずいた。
「……ちょっと、すこしな」
「他の場所は?」
「だいじょぶ」
「……ったく」
顔や頭皮はやはり髪におおわれていたから無事だったのだろう。キールはがりがりと頭を掻いてから、すまなそうな視線から逃れるように華奢な身体を抱きしめた。
「き、キール?」
メルディがかすかに頬を染める。しかし抱きしめたのは一瞬のことで、すぐに彼はメルディを解放して赤い傷の走る手に薬を塗り始めた。
「……おまえな、今までいろいろあったけど、今回ほど肝冷やされたことはないぞ」
「ご、ごめ……」
なんだか変かもしれない。メルディは謝りながらもこっそり考えた。
これは、怒っているというより――脱力している?
その理由はすぐに知れた。
「おまえが頭からかぶったのは、劇薬……ものすごく危険な薬なんだ。大抵のものを溶かしてしまう。人体だって例外じゃない――」
「そ、そんなにアブないくすりだったか!?」
今更ながらに事態に気づき、メルディがあわあわと身体をゆする。
可愛らしく――本当に可愛らしく慌てる彼女を見て、キールは先ほどから感じている脱力感をさらに強めてうつむいた。手当てに集中する。
あのとき。
連日徹夜してまで得た成果を一瞬で台無しにされてしまったとき、彼はさすがに怒鳴りつけてやろうと思った。そう思って、振り向いた。
けれど、次の瞬間目に映ったのはこのうえなく恐ろしい薬品を頭からかぶった大切な少女の姿。
全身に冷水をあびせかけられたかと思った。その上、よりにもよって素手で破片をかき集めようとするなど。細い指がみるみるうちに赤く傷ついてゆくさまを、もうそれ以上、一秒でも見ていたくなかった――……
下手をすれば失明していたところだったのだ。その瞬間抱いた焦燥は未だ胸の中に燻っている。もちろん、メルディも事態はもうわかっているのだろうからことさらに恐ろしげな説明をして怖がらせるつもりはないけれど。
「…………終わり」
結び目が傷口の上にこないよう、念入りに包帯を結んでからキールはやっと落ち着いて息をついた。
メルディは申し訳なさそうに肩を縮こまらせている。さすがにいたたまれなくなって、キールはわずかに緊張していた頬を緩めた。
「……もういいから。そんなに気にするなよ」
「だって」
優しげな声に却って涙腺を刺激されたのか、えぐっ、とこみ上げる声に後押しされる形でしずくがいくつもスカートに落ちた。
「きーる、が、タイセツな……おくすり……メルディ、メルディが全部……」
止まらない。ぽろぽろと後から後から流れ出る透明な液体を彼女自身も抑えようとはしているようだが、到底止まるはずのないことはキールにはよくわかっていた。
この少女は自分に負けず劣らず――いや実ははるかに、泣き虫なのだ。
「ああもう!」
ぐしゃぐしゃと淡紫の髪をかきまわし、キールはやけくそ気味にかぶりを振った。ひざの上できゅっと握りしめられた両のこぶしを無理やり排除し、そこに顔をうずめる。
「……きーる?」
「ぼくは眠い! と、いうわけでひざを借りる!」
「あ? あ、はいな」
びっくりした拍子に涙の止まったメルディが、きょとんとした顔で見下ろしてくる。
「……でも、これだけでチャラになるとは思ってないからな」
キールはメルディのひざに顔を埋めたまま、にやりと彼女を見上げた。
「起きたらケーキが食べたいな。イチゴののってるやつ。生クリーム、たっぷりで」
硬く閉じていたつぼみが開くように、徐々にこわばっていた顔が笑みで満たされてゆく。その様子を彼は確かに見た。
「……っあ、はいな! まかせてな!」
「……期待してるからな」
キールは微笑んでゆっくりと目を閉じた。
蒼穹を映し出す、彼の髪を梳く手指は包帯のせいでいつもと少し感触が違う。
きっかけこそ不本意なものだったけれど、数日ぶりのこの幸せな気持ちを満喫してやろうと。
そう思う。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
えっと、書きたかったのは「実験」なんですけどね。
理系の人に実験で徹夜もザラだって聞いて。なんとなく。
いや、よく考えたら今まで話の中でキールが理系の研究やってるさまって書いたことなかったなあって。
いっつも本読んでますもんね。
「晶霊学」って聞くと理系っぽいのに…まあ、メルニクス語が必要だとかそのあたりのことで
文献研究イメージが強いんですが。
最後なぜか膝枕なのは気にしない気にしない!
いーや、オチ決めてなかったんですよ。なのに書いてるうちにいつのまにか。
なんとなくしっくり来たのでそのまんま逝ってみました〜。
あ、タイトルの「嵐」はそのまんまキールの徹夜研究を指してるってことで。
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