月のない夜だった。
いつものように母とともに寝台にもぐりこみ、いつものようにありふれた朝を迎えるはずだった。
たぶんはじめて悲しみというものを知ったのは。
六つになって間もない日のことだった。
ちいさな安息
ぐらぐら足元が揺れている。けれど不思議と自分はしっかり立っているように思う。淡い光を放っていた目の前の球体は、今や激しく脈打ち、この振動を生み出している。
ふっと、自分の中に何かが入ってくるのを感じた。
黒いもの。黒いとしか形容できない何か。母を混沌への誘惑に駆り立てたもの……!
「あああああああぁっ!!」
耐えきれずに身体の底からあげた絶叫は、けれど遠い。
背後から抱きしめる腕を感じる。同時にこみあげるどうしようもないほどの熱で、いっそこの闇を焼き尽くしてしまえるならどんなにいいだろうかと思う気持ちと、この闇をこそ利用して世界を護るのだと思う気持ちと、めちゃめちゃに混ざり合って、何がなんだかわからない。
自らの心の動きに気をとられて、彼女は一瞬自分を苛む闇が消えたことに気づかなかった。
抱き寄せられた胸に額をぶつけてはじめて、自分がすでに自由になっていることを意識し、見上げた顔の視線を追って。
(……や)
そこにいたのは。
(……いや。見たくない)
最後に見たのは、間違いようもないほど穏やかな、笑顔―――――
「いやああああああぁっっ!!」
彼女は、メルディは自らの悲鳴を引き金に目を覚ました。
視界に入るのは紫の淡い光――アイメンの街灯だ。
「クキュ……」
見下ろすと、クィッキーが心細げな声をあげて擦り寄ってきた。無意識に抱き上げて頬を寄せると、美しい青い毛並みが湿り気を帯びていくのがわかった。
「……ふぇ……」
駄目だ。自覚してしまうともう止まらない。
ごく幼い頃は育ての親であったガレノスと一緒の部屋に寝ていたから、怖い夢を見たときは彼に泣きついて、あやしてもらって、その後はぐっすり眠ることができた。十になった頃からそんなこともなくなって、ちょうどいいからと一人暮らしをはじめ、今ではすっかり慣れていたけれど。
忘れるにはあの記憶は痛すぎる。
薄れさせるにしても鮮やかすぎる。
ふと窓の外を眺めた。あれから数ヶ月、人々の尽力でセレスティアはかつての姿を取り戻しつつある。アイメンも例外ではなく、メルディはティンシアとこの街を定期的に行き来しながらインフェリアへ渡る道を探していた。
あのとき抱きしめてくれた腕の持ち主は――キールはもう休んでいるだろうか。アイメンの図書館の文献をあされるだけあさって、この家へと運んできたのは一昨日のこと。熱中し始めると食事や睡眠といった命をつなぐために必要な行為すらおろそかになる彼にやんわりと釘をさし、休むことにしたのだけれど。
あの戦いの後目を覚ました彼女はまずキールの姿を探した。一緒に生きると言ってはくれたけれど、彼の故郷はインフェリアだという思いがあったから、隣の寝台に彼の姿を見つけたときは心底からの安堵を感じ、同時に少しだけ罪悪感を覚えた。そばにいられる嬉しさと、彼が故郷に残してきたであろう多くのもの。もしかしたら彼がインフェリアに帰ることは永遠にできないかもしれないのに、そう思ったのだ。あのとき。
寝台から降りて扉へ向かうメルディを追いかけて、クィッキーがテーブルの上から飛び下りた。
足にまとわりつく。
「クィッキーも行くか?」
未だ止まらない涙をどうにかしようと彼女の頬を舐めてみたり、豊かな毛をこすりつけたりしていたクィッキーは、返事をするように一声鳴いて肩に移動した。
気づいたときには寝台に寝かされていた。
あのセイファートリングが爆発した瞬間、クィッキーの尻尾をひっつかんで、シゼルに手をのばすメルディを必死で抱きよせて、微かに光の向こうのリッドとファラをみとめた。正直自分たちがどうなるかなどわからなかったから、リッドとファラが、そして自分とメルディがそのとき一緒にいたことに、柄にもなく感謝したのだ。光に包まれておりてきたのだと聞かされても、実際見たわけではないから実感などない。あれだけの戦いの中で命があった、それだけで十分だと思える。
セイファートリングが崩壊してインフェリアとセレスティアをつなぐ鎖が外れたときは、これでふたつの大地はまったく関係がなくなってしまうのかと思っていた。しかし空に浮かぶとりわけ大きな天体を見た瞬間、古代人の妄想だと馬鹿にしていた天球儀が真実であったことに思い至ったのだ。メルニクス時代交流のあったかつてのふたつの大地が今とまったく同じ姿をしていたということに。
このことはセレスティアにとり残されたインフェリア人にも大きな希望を与えた。彼自身は絶対に不可能なら、このままセレスティアで暮らしても構わないと思った。あの時点でその覚悟もしていたのだが、過去に可能であったのならなら話は変わってくる。
それ以来、アイラやガレノス、ゾシモスや他のインフェリア、セレスティアの晶霊術士たちも加わって、ひたすら研究の日々が続いている。
キールは寝台に横たわり、何度目かのため息をついた。もともと元気なリッドやファラに付き合って世界中を駆けまわったおかげで、自分でも信じられないほどの体力がついたのは自覚しているが、それでも三晩貫徹はさすがに避けたいところだ。今朝も徹夜したことをメルディに感づかれ、怒っているような悲しんでいるような複雑な瞳で見上げられて困った。身体に悪いということもわかってはいる。
研究で高揚していた気持ちがようやくおさまり、うとうとしかけてきた。こうなると後は早い。気づけば朝になっているはずだ。
ふと閉じかけたまぶたに光が差し込み、彼は手をあげた。逆光で影しか見えないが、誰かはわかる。
「キール……」
「メルディか? どうした……」
とっくに休んだものと思っていたのだが。
「……夢、みた」
そう言って肩を震わせる。頬に光が反射して輝いた。どうやら泣いているらしい。
「怖い夢?」
「うん」
彼女が目の前で母親を失ったのはつい最近のことだ。無理もないと思いつつも最早睡眠へと移行しつつある頭では、うまい慰めの言葉も思いつかない。
ぼんやりした思考のまま、キールはかざしていた手を下げて、メルディを差し招いた。おぼつかない足取りで近寄ってくる彼女に場所を空け、掛け布をめくって寝台をぽんぽんとたたく。
「怖い夢を見るときは誰かと一緒に寝ればいいんだ。ほら、ここにはいれ」
メルディはびっくりしたように微かに目を見開いた。
「いいの?」
「悪かったら言わないが……」
あくまでぼんやりしているキールの表情をしばらく眺めてから、彼女は言われたとおり彼の隣に滑り込んだ。何度かもぞもぞした後、具合のいい姿勢をみつけたらしく、心持ち丸まる。
急速に眠りに落ちながらも髪をなでてやると、くすぐったそうに身をよじって頬を胸によせてくるのがわかった。
気がつくと、涙はすっかり乾いていた。
目覚めてまず視界にとびこんだのは、青い毛玉だった。
(ぼくの髪……? いや、色が少し違うな。クィッキーか……?)
クィッキーが目の前に丸まっていたのだ。
次にとびこんできたのは、淡紫のふわふわした髪の毛。
「っ!?」
寝起きの、夢と現の狭間を漂う心地よい感覚から、一気に引き剥がされる。
なんっでここにメルディがいるんだ―――――!?
絶叫しそうになって、慌てて口を押さえる。
そろそろと抜け出し様子をうかがうが、さも気持ちよさそうにすやすやと眠っている。
ここはぼくの部屋だし……。
ということはメルディがここに来たのだろう。寝台を二分して眠っていたということは、えーと……。
(な、なにもしてないよな?)
どうも昨夜は寝台に入ってからの記憶が曖昧で、よく覚えていない。
「うーん……」
キールが離れたためか、メルディは彼の寝ていたほうに擦り寄ったが、求めていたぬくもりがなかったことに反応して、小さく身震いをして薄く目を開けた。
「あー……。キール、おはような」
目の前の彼はくしゃみをこらえているような表情で、耳を真っ赤に染めていた。
「……なんでメルディがここにいるんだ?」
メルディは首をかしげる。
「なに言ってるか? 一緒に寝よう言ったの、キールよー?」
「そ、そんなこと言ったか?」
「言ったよう。メルディが怖い夢見た言ったら、一緒に寝ればだいじょぶだって」
そういえばそんな気もする。
昔自分もラシュアンでの事件の直後、怖い夢を見て母親に泣きついたことがあったのだ。メルディには口が裂けても言う気はないが。
昨夜自分たちがどんなやりとりをしたのかなんとなく想像してしまい、キールはそっぽを向いた。熱くなる顔を悟られないように間髪いれずに話をふる。
「……よく眠れたか?」
「はいな! ぐっすり、すやすやよー。あったかくてキモチ良かった」
「そ、そうか」
振り返ると彼女は心底嬉しそうにニコニコしていた。なんとなく毒気を抜かれたような気になって、彼女を追い出しにかかる。
「ほら、ぼくは着替えるから。おまえも着替えてこい。そのカッコじゃ風邪ひくぞ」
「はいな。クィッキー、おいで」
廊下に出たところでメルディが振り向いた。
「キールぅ、怖い夢見たらまた一緒に寝よなー。キールが怖い夢見たときはメルディは一緒に寝てあげるから」
「ゲホゲホッ!! お、おまえそういうことをあっけらかんと言うな!」
「えー? なんでー?」
変わらずニコニコしているメルディを邪険にすることもできず、照れ隠しに思いきり彼女の淡紫の頭に手を突っ込んでかきまわす。
乱暴に髪をなでられたにもかかわらず、頭に感じる大きな手のひらが嬉しくて、頬を染め声をあげて笑いながら、メルディはするりと彼の手から抜け出した。
「朝ごはん、つくるよー。今日はちゃんと食べる、な?」
「わかってるよ。すぐおりるから」
メルディが弾むような足取りで階下の自室に消えてしまうと、キールは長い息を吐いた。
「昨日は良かったものの……またって、ぼくが男だってこと、わかってるのか……?」
忙しいけれど、平和でありふれた朝が始まる。
--END.
|| INDEX ||
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あとがき。
初書きがコレか、おい!ってな感じですか。いちゃついてるだけやん。
この二人は私の「HPたちあげたいなでもよくわかんないし〜」といういい加減な気持ちを見事に刺激する決定打になってくれました。
やる前はほとんど興味なかったのにこいつら可愛すぎ。
この二人のテーマは「抱っこ」と「頭なでなで」にあると思っております。
リッドファラよりいちゃつきの度合いは高し。なんでかなんて聞かないでください。
で、このあとキールたちの奮闘にもかかわらずバンエルティアでリッドファラチャット到着(笑)
今度はキールメルディはインフェリアとセレスティアを行き来しながらバンエルティアを研究し、
ふたつの星の間に定期航路を確立して人と物の移動を活発にしようと頑張る……
ってのが私の願望というか希望というか(笑)
第一弾はありがちネタで攻めてみました。ちゃんちゃん。
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