それは、春霞に遠くの山並みがかすむ穏やかな朝のことだった。




芽生え育ち、そして…





「……う〜ん」
「どうしたの、メルディ?」
 春爛漫、今が盛りと花咲き乱れる学問の街ミンツの宿の一室。洗面所からさっぱりした顔で出てきたファラは、鏡の前でひとつ年下の少女がうんうんうなっているのを見咎めて不思議そうな声をあげた。
「あ、ふぁら」
 確か自分が洗面所に入ったときはまだ寝ていたはず。いつのまにやら起きだして、身支度を始めていたらしいのだが。
 いつもなら起きて最初に処置されているはずの淡紫の髪は、未だ櫛を通されることもなく背中に流されたままだ。
「どうかした?」
 使われていない櫛を取り上げて自らの髪を梳きながら問うファラに、メルディはとりあえずうなることはやめてくるりと椅子の上で身体を回転させて彼女を見上げた。
「……髪がな〜……」
「うん」
「髪がどうすればいいのかわからないよ」
「うん?」
 どうやら髪形について悩んでいるらしい。
「……? どうすればっていつもどおりにすればいいんじゃないの?」
 くるりと巻いた毛先を指でつまんで眉根を寄せるメルディに、ファラは首を傾げた。
 メルディはいつも髪の毛をふたつに分け、頭の横の高い位置で結んでいる。さながらうさぎの耳のようにふわりふわりと舞う髪は、綿菓子のような彼女の容姿と踊るような身ごなしにとてもよく似合って可愛らしいと常々ファラは思っていた。迷うほどのことではなかろうと目で問うも、メルディはぷるぷると頭を揺らす。
「……これじゃあダメよ……メルディもうじゅうはちなんだから、ちゃんとそう見えるようにしたいのにぃ……」
「ああ、そういうこと」
 ファラは姉のような微笑を浮かべてうなずいた。メルディが、以前から自分が幼く見えるためにあの蒼い髪の青年に子供扱いされてつまらないと感じていたことは知っている。妹や幼い少女としてではなく、彼女は対等な立場に立った『女性』として彼に見つめて欲しいのだろう。
 ぷく、と頬を膨らませたその表情は女性と呼ぶにはあどけないが、嫌われているのではないかと泣いていたあの頃からは確実に変化したその感情の存在に、ファラは嬉しくなってぎゅっと華奢な身体を抱きしめた。
「ふぁ、ファラ?」
 メルディが苦しそうにじたばたする。力を込めすぎていたことに今更ながら気づいて、ファラは軽く舌を出してメルディから離れた。
「よーし! どうすればいいかわたしも一緒に考えるよ。キールとリッドをおどかしてやろー!」
「やろー!」
 元気良く重なった叫びを合図に、彼女たちの「格闘」は始まった。






「……おせえな」
「……遅いな」
 香草茶の入ったカップがふたつ乗ったテーブルを目の前に、女性陣が支度を整え降りてくるのを待っていた青年二人は同時にぼそりとつぶやいた。
 すでに彼らが食堂に降りてきて半刻以上経つ。いくら女性の身支度は男性に比べれば手間がかかるものなのだということを理解していても――さすがに今朝は、遅すぎる。
「クィッキーはとっくにおりてきたのにな……寝坊か?」
 それはないだろうと思いながら蒼いほうの青年――キールは、二階へと続く階段のほうを見やった。
 寝坊をする確率が高いのは、どちらかといえば男性陣のほうだ。ファラとメルディは早寝早起き、これでもかというほどの健康生活型。ぼんやりすごしたがるリッドや、睡眠時間を削って研究に終始し、結果寝すごしてしまうキールとは違う。
 だからこれは珍しいことなのだ。
「お、オレもう我慢できねえ……腹と背中くっつく……」
 リッドは短く刈った赤毛をテーブルにこすりつけてうめいた。今の今までお茶で舌を湿らせて空腹をしのいでいたのだが、三杯目、四杯目になると今度は腹の中がたぽたぽしてくる。本当に死んでしまいそうなその様子にキールが軽く唇を歪めた。
「先に食べていたらどうだ? まだあの二人がおりてくるまで時間はありそうだし……」
「で、できねえよ!」
 それなりに良い提案のつもりで訊ねたのに、恐怖すらにじませてぶんぶん首を振るリッド。テーブルの上でカップに鼻をよせ、くんくんと香草茶の匂いをかいでいたクィッキーがふと顔を上げて彼を見た。
「別にかまわないだろう、どうせ一番最後に食べ終わるのはおまえだろうしな」
「できねえって!」
 リッドはがたんと音をたてて立ちあがり、うろうろと歩き出し始めた。どうも空腹の限界にまで来ているらしい。何もせずにただ話すだけでは、無限胃袋がもたないと判断しての行動だ。
「あいつら待たずにメシなんか食ってみろ、メルディはともかくファラ! ファラの鉄拳お見舞いされるのは確実だろうが!」
「"リッドー! それはみんなで一緒に食べるぶんだって言ってたでしょー!"……か」
 旅をしていた頃、リッドが食糧をつまみ食いするたびに何度も繰り返されていたやり取りだ。殺気立ったファラに散々追いかけ回されてかえって腹を空かせるだけだというのに一向に改善される気配もなく、最初はおろおろと仲裁に入ろうとしたメルディも、最後にはあれが二人のコミュニケーションなのだということにして(無理やり思いこんで)傍観していた。ただ、それはいつ補給できるのかわからない旅の日々でのこと。街中の、一人一人別々の皿を出される宿の料理において今もその法則が適用されるのかどうかはキールにはわからなかったが……何も藪をつついて蛇を出すことはなかろう。
 そう判断して彼が我知らずふせていたまぶたを開けると、リッドは今度は歩く力さえなくなったのか椅子に戻ってぐったり背もたれにもたれかかっていた。
「お、おい」
 肩を揺さぶるも反応は鈍い。
「おお……キール……あとは任せた……」
(何を『任せる』んだーッ!?)
 何やら背後にきらきらとしたものをまとわりつかせながらやけに清らかな笑顔を向けてくる幼なじみに、彼は心の中で一声絶叫してから勢い良く立ちあがった。
 正直に、正直に述べてしまえば『バカじゃないか』と言いたいのだが。
 ……言いたいのだが。
「……はあ。ちょっと待ってろ……」
 ため息をついて階段を上がっていくキールの後姿を、クィッキーがふさふさの尻尾を「がんばってね〜」とでもいうように揺らして見送った。






「ふぁ、ファラ〜おでこつっぱる、つっぱるよぅ!」
「あ、ごめん!」
 きゃあきゃあと騒ぎながら紫色に透ける髪の毛を結ったりほどいたりしていた二人は、自分たちの声が途切れたわずかな合間に聞こえたノックの音にぎくりと動きを止めた。
「……あ。そういえばあさごはんまだだっけ……?」
 しまったとばかりにファラが口許に手を当てる。
「ファラ……メルディ? もう起きてるのか?」
「起きてるよー」
 キールの声だ。櫛を置いて扉に向かったファラの背中にメルディは顔の皮膚が突っ張るのも忘れて無我夢中で飛びついた。
「ダメー! 開けちゃダメー!」
「え、えメルディ? なんで?」
 ちいさな手が一生懸命ノブを押さえる。うろたえて見下ろせばすぐにその理由は知れた。
 あちこちいじったせいで、ぐちゃぐちゃに乱れた髪。そういえば顔はまだ洗っていなくて、頬にはうっすらと――もう消えかけてはいるが――シーツの皺のあとが残っている。
 いくらなんでも、好きな相手に見せたい姿ではないだろう。
 ファラの表情を見て取って、メルディはかすかに頬を染め手の力を抜いてうつむいた。
「ちょっと待ってねー」
 叫んでおいてから、ファラは手早く淡紫の髪についているリボンやらヘアピンやらを抜き取って櫛を動かし始めた。その間にメルディ自身も脇においてあった濡れタオルで顔を拭う。



「……何やってるんだ?」
 とりあえずは見られても大丈夫、と思える程度の格好になったところに部屋に招き入れられたキールは、未だにふわふわと髪を背中に流したままのメルディを見て首を傾げた。
「それがね……」
「ファラ!」
 非難めいた声にファラはきゅっと首を縮めた。
「……あ。ごめんな」
「ううん、わたしこそ! ……そうだ、キール。メルディに似合う髪形考えて!」
 いきなり水を向けられてキールが切れ長の目を見開く。
「はっ? なんだよいきなり」
「いーいーのー! ともかくホラ!」
 ずるずるとひきずられて鏡台の後ろの椅子に座らせられ、櫛とリボンを持たされる。目の前には見慣れたちいさな頭。メルディは彼の姿を鏡ごしにちらりと伺った。思ったとおり困惑げな表情をして、無意識にか指先でくるくるとリボンを弄んでいる。そのさらに後ろではファラがにこにこしながら腰に手を当ててその様子を見守っている。
 ふ、と息をついて、キールはメルディの髪を片手で軽く持ち上げた。
「いつものじゃ駄目なのか?」
「ダメ。できればなー、オトナっぽいのがいいなあ」
 できればではなく、それこそが狙いなのだが。
「……じゃあ、そのまま何もしないとか……は、駄目か」
 彼はがりがりと櫛の柄で頭を掻いた。メルディの髪の毛は、細くふわふわしている。こういう髪質の場合本人は周りが思うよりも大変らしいのだ。少しの風で乱れて絡まり、ぐしゃぐしゃになってしまう。結っていても風に流されて木の枝に絡まる、などということが旅の間にはしょっちゅうあったのだから、何もせず放っておこうものなら――それで彼女が部屋の中でおとなしくしているような性格ならまだいいが、それはあり得ないので――どうなってしまうかわからない。
「それなら……」
 キールはふと思いついて櫛を動かし始めた。彼女は別段手のかかるものを望んでいるわけではないのだろうから、それなら。
 ときおり軽く後ろに引っ張られながら、メルディはぼんやりと鏡に映った二人の表情を眺めた。なんだか楽しそう、と思う。優しげな手つきも何やらふわふわと心地よい。
「……できた」
「わあ、いいねえこれ!」
 たいして時間をかけるでもなく作業は完了してしまったらしい。少し残念な気もしながらあらためて鏡を見て、彼女はこっそり首をひねった。
 前から見た限りではただおろしているときとそう変わりはない。ということは、変化は後ろから見なければわからないということだろうか。一生懸命首をひねるメルディに苦笑して、キールはファラの手鏡を持って合わせ鏡の角度を調整して背中が見えるようにしてやった。
「……はぁ〜……」
 ふわふわとある意味おさまりの悪い髪は、肩甲骨のあたりまではそのままに、途中からきつすぎずゆるすぎず三つ編みの形になっている。――まとめられた毛先では、淡い黄色のリボンが可愛らしく揺れていた。
「これなら動いてもそう簡単にはほどけないし……でも前から見たらおろしてるみたいだろ?」
「ん。ありがとな、ふたりとも」
「そっか、こうすればよかったんだ! やっぱりキールに考えてもらって良かったねえ」
 歓声をあげるファラに苦笑してみせてから、キールはたった今まで忘れていたことを思い出してざっと青くなった。
「……忘れてた! ファラ、今すぐ下に降りてくれ! リッドが死んでるかもしれない!」
 大げさなのだが大げさではない。おそらく今頃リッドは階下の食堂で半死半生状態になっているに違いないのだから。
 一食抜くくらい日常茶飯事のキールにとって、少し食事の時間が遅れたからといってあそこまでぐったりしてしまうのはにわかには信じがたいことだが、実際そうなのだから仕方がない。



 うなずいて大急ぎで部屋を出ていったファラの背中を見送って、キールはなんとはなしに寝台に腰掛けた。メルディがたった今結った髪を揺らしながら、散らばったピンやリボンを片付けている。
(髪型だのなんだのにこだわるなんて、やっぱりこいつも女の子なんだよな……)
 ふと頭の中をよぎった思考に、彼はわずかに温度の上がった手を組んだ。
 そういえば。
「……そういえばさ」
「んん? なにか?」
 せわしなく手を動かしながらも思考をよそに向ける余裕はあるらしい。機嫌のよさそうな返事が返ってくる。
「なんでいきなり髪型変えようなんて思ったんだ?」
 ぼとぼとと、手から今しがた拾い集めたものが落ちた。
 至極素朴な疑問のつもりだったのに思わぬ動揺をみせつけられてキールはきょとんと彼女を見返した。
 メルディはなぜか顔を真っ赤にしてこちらを向いたまま、硬直している。
「あ、あう、髪型か?」
「ああ」
「あー、うー、あのなー……」
 言わなきゃ駄目? と潤んだ瞳で上目遣いに問われて彼はかぶりを振りかけたが、すんでのところで思いとどまった。『理由』があるなら知りたい、そう思うのが当然だし、時間を割いた見返りだってやっぱり欲しい。
 観念したのかメルディが顔色もそのままにとてとてと近寄ってきて、耳に唇を寄せた。
 ふわりと空気が動く。

 吐息と共に耳朶をくすぐった言葉の甘さに、キールは全身を真っ赤に染め上げて腕いっぱいに彼女を抱きしめた。







 かみがた変えておとなっぽくなったら、ちゃんとキールとコイビト同士に見えるか、思ったよ。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
…イタ! アイタ!(笑)
いろんな意味で大ダメージ。
…リハビリ代わりに書いたのですよこれー…
当初予定していた長さの二倍になりました。これだから自分。
「求める未来」のすぐ後の話です。次の日かも。
まあこういうこだわりは…あるかなあと思って。
単に最後の台詞を言わせたかっただけですハイ。