日常の、ささやかな…





 朝。
 心を許した相手の隣で迎える心地よいまどろみのとき。
 伝わる暖かさに、もう少し、もう少しと言い訳しながら惰眠を貪っていたキールは、ふと見やった時計の文字盤が示す数字に驚いて、がばっと勢いよく起きあがった。
「……もう昼か」
 寝起きでぼさぼさでありながらも、あくまでまっすぐな前髪を片手でかき上げる。
 すでに陽は高く昇り、外の光は真昼の白さ。角度が変わり陽光が窓から差し込まなくなってずいぶん経つのだろう、朝よりもむしろ薄暗い部屋の中を見まわして、彼は苦笑した。
 かなりの寝坊だが、理由がないこともないのだ。キールは昨夜遅くまで本を読んでいたし、隣で未だ目を覚ます様子のないメルディは最近とみに睡眠を必要としている様子で。
 今日は休日だと、油断していたのも重なった。本当ならこういう日は早起きして、掃除や洗濯などするものなのだけれど。
 キールは自分の寝間着のボタンに絡まった淡紫の髪を丁寧にほどいて、揺らさないように寝床を抜け出した。そろそろと窓のところまで進み、静かにカーテンを開ける。セレスティアには珍しい、青く抜けるような空。光あふれる故郷、インフェリアの空によく似た色。我知らず目を細めて見入っていると、背後で扉の閉まる音がした。
「……メルディ?」
 見れば、先ほどまでぐっすり眠っていたはずのメルディの姿が見えない。急いで廊下に出ると、彼女はちょうど踊り場で手すりに手をかけ、階段を降りようとしているところだった。大きく膨らんだお腹にいかにも重そうに両手を添えて、よたよたと歩いている。
 ……あ。やばいかも……
 そう思って足を踏み出しかけた瞬間、案の定、華奢な身体はぐらりと傾いだ。
 やっぱりそうくるかあああぁッ!!
「メルディ!」
 のばした手はなんとか細い腕を捕まえたが、不安定な姿勢で重心など安定しているはずもなく。
 万有引力にしたがって、すべてのものは上から下へと落ちてゆく。

どたばたた――――――――んっ!!

 ………………二人はもつれあって、見事に一階まで滑り落ちた。
「……………………痛い」
「きっキール!? キール、だいじょぶか!?」
 上から声が降ってくる。痛みを堪えながらもおそるおそる目を開けると、まず大きな紫水晶の瞳が視界に入った。ついで顔にこぼれおちてくるふわふわの髪。
 ちなみにメルディはキールの腕の中にすっぽり包まれていたため、傷一つなかったりする。
 文句のひとつでも言ってやろうと思っていた彼は、メルディの泣きそうな表情を見て、出しかけた言葉を喉の奥に飲みこんだ。
 ……理不尽な気はするが、仕方がない。泣かれるのは痛い思いをするよりもつらい。
 そんな顔されたら怒るに怒れないじゃないか……
 唇を半開きにして震えながら次の言葉を待っている彼女に、苦笑して身を起こす。
「背中、打った」
 そう言うと、メルディはしょんぼりうつむいた。
「……ごめんな。メルディがせ」
「湿布貼ってくれ」
「ふぇ?」
 さえぎられて、メルディは顔を上げてぱちぱち瞬きした。
 まん丸に見開かれた紫色の瞳に映っているのは、あくまで優しい顔だ。怒られるとばかり思っていたのに。ついつい要領を得ない返答をしてしまう。
「しっ……ぷ?」
「背中、手届かないだろ。人にやってもらわないと」
「あ、そーか……」
 二人は同時に立ち上がり、おぼつかない足取りで居間に向かった。




「……なあ、メルディ」
「なにか?」
 キールはソファの背もたれごしに、背中の青あざの位置と範囲を見て湿布薬を切っていたメルディを振り仰いだ。
「ずっと言おうと思ってたんだけど……しばらくの間、一階で寝ないか?」
 キールの背中にできた青あざは一箇所のみ。運動神経は皆無と言ってもいいほどの彼が、その程度ですんだのは、実は、今回が初めてではないからだ。
 メルディの腹が大きくなり始めてからというもの、じっとしているのが苦手な彼女は今までと勝手の違う身体を持て余していた。
 とにかくまあ、こけることこけること。部屋の敷居に足を引っ掛けるわ、階段からは滑り落ちるわ。
 そのたびにキールは冷や冷やして、生きた心地がしない。ついついかばおうと手を出してしまい……しかも、要領が悪いので生傷が絶えなかったりする。
 それを思えば、今日のは上出来なほうだ……たぶん。
 まあそれはともかく、二階に行かなければそのぶん階段に関わる危険は減るわけで。キールとしては名案のつもりだったのだが。
「……やだ」
 一瞬の間を置いて返ってきた答えは否定だった。
「なんでだよ」
 出鼻をくじかれて声が尖りそうになってしまうのを何とか押さえて聞き返すと、今度は何も言ってこない。メルディは服の裾を握り締めてもじもじしている。いまいち何にこだわっているのかわからなくて、キールはいぶかしげに眉根を寄せてすぐそばにある顔を見上げた。
「……一階のベッド、ちーさいし」
「ああ、……小さいけど」
「おなかちっちゃかったときはよかったけど……今、たぶんきっとあのベッドじゃ一緒に寝レレないな」
「寝られない、だ。……別にいいだろ。二つあるんだしさ」
 律儀に訂正してから視線を合わせようと覗きこむも、メルディはぱっと顔をそらしてしまった。よくよく見れば、耳がほのかに紅く染まっている。
「……ヤだよぅ……メルディ、一緒がいい……」
 遠慮がちに耳朶を打った甘い声に、キールはおもわず全身真っ赤にしてへなへなとソファの背もたれにくずおれた。
 そう来るか―――――――!
 絶叫したい気分に駆られるが、しかし簡単に譲れることでもない。なにしろメルディのお腹の中にいるのは――その、彼の子供なのであって、ひとつの命なのだから。いつも万が一の可能性を考えて行動するべきであって。べきであって。
 だから。
「だからな……」
 後ろにいたメルディがソファをまわりこんできた。よたよたと危なっかしく揺れる体にさりげなく手をのばして抱きとめ、隣に座らせてやる。
「そんなこと言ったってさ……この子が出てくるまでまだ時間があるんだぞ? その間に何かあったら……」
 危険の可能性は少しでも減らしておきたいのに。
 ぶちぶちとぼやくキールを一瞥して、メルディはふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「……動いた」
「うぇっ!? えっ、ほんとか!?」
「ほんとだよー。ほら、この子もおトーサンと一緒がいいって言ってるよー」
 いやそれは違うと思うが。どちらかというと危険を感じているのでは……?
 おもわず大きく膨らんだお腹に手を当ててしまったキールはこっそりそんなことを考えた。
 が、あまりに幸せそうな笑顔につられて自分まで口許が緩んできてしまう。
 二十歳になろうかというのに、未だ少女めいて幼く愛らしい風貌。けれどときおり――例えば、まさに今――見せる表情は、まぎれもなく『女性』のもの。
 彼女は旅の間は絶対にこんな顔はしなかった。旅が終わってからもやっぱり幼いままで……けれど、動き出した刻は確実に彼女の上に変化をもたらした。
 止まっていた時間を動かしたのは、自惚れでも何でもなくきっと自分。
 彼女のこんな表情を引き出せるのも、きっと自分だけ。
 誇らしさと喜びとが同時にあふれてきて、キールは目の前の身体をそっと抱き寄せた。立ち昇る甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、ただ吐息だけが漏れ出る。
「……まったく」
「なにか?」
 自らも背中に腕を回して抱擁に応えながら、メルディは小さく身じろぎしてキールを見上げた。額にやわらかな感触が落ちてきて、元に戻ったはずの頬がまた熱を帯びてしまう。
 自然こみあげてくる感情は、けれどふわふわしていてこの上もなく心地よい。
 低く、ささやきが滑り込んでくる。
「……わかったよ。ただし、階段を上り下りするときには必ずぼくを呼ぶこと。一人のときは絶対に二階には行くなよ?」
「……はいな」
 メルディは微笑んでキールの胸に頬をこすりつけた。




 結局、それから彼らに初めての子供が生まれるまでのしばらくの間、階段を上り下りする際にはキールがメルディを抱え運ぶのが日課だったとか。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
これも某所に投稿したものです。思ったより長くなった。
新婚編でした。
っていうか何自然にいちゃついてんねん! ほんとにキルメルなのかオイ!
……い、イエあんだけラブ話ばっかり書いておいてこんなこという資格はないのかもしれないですが。
なんというか……もう夫婦やね。勝手にやってろって感じ。
思いついたきっかけは……なんだったかな?(笑)
んん、たぶんやばくない新婚キルメルが書きたかったんだと思われます……

日常の中の些細な幸せ。
誰にでも与えられて当然な、誰でも享受できて当然な幸せの形ですが。
キールはともかく、メルディは子供時代が痛い痛い。
……んで、ついつい幸せ話ばっかり書いちゃうんだな。
当然なんだけど当然じゃない。
そのことをいやってほどわかってるからこそ、きっと今ある幸せを大事に大事に生きていくことができるのですよ〜。
もとからのほほん暮らしの私なんぞにはその有難さの半分も理解できてないでしょーがね。
ま、とにかく愛してるよ、うん。幸せになってくれい。