「キールのばかぁっ!」
 一声叫んで、メルディは宿を飛び出した。




黄昏





 事の発端は些細なことだった。いや、ごく日常的というべきか。
 少し疲れ気味だったメルディを気遣い、一行はその日宿をとった。チェックインした早々メルディは部屋の寝台に倒れこみ眠り込んでしまったのだ。まだ昼間と言っても差し支えない時間帯だったため、他の者たちは思い思いに暇をつぶすことにした。
 数刻してから目覚めた彼女は、空腹を感じて階下の食堂に降りていった。
 リッドとファラは隅でなにやら楽しげに話をしていた。キールは部屋の反対側に離れて本を読んでいた。フォッグはソファに大の字になって大いびきをかいていた。今まで寝ていた部屋の隣からはチャットのわめく声が聞こえる。どうやらクィッキーと一緒にいるようだ。わめいたり泣き叫んだり、くるくる変わる表情が面白くてたまらないらしく、最近クィッキーはよくチャットをかまっている。

 ふとさっき感じた空腹が彼方に飛んでいってしまったような気がした。少し思案してからキールのそばにより、後ろから本を覗き込む。
「キール……」
「なんだ?」
 顔を上げもせずに彼は返事をした。
「あのな、あのな」
「だからなんだ?」
 何と聞かれてもメルディは答えを持っていない。別段用があったわけではない。ただなんとなく声をかけてみただけだ。
「あのな……」
「だからなんだと言っている」
 キールは今度は顔を上げ、眉をひそめてメルディを見た。
「……」
 黙りこんでしまった彼女にため息をつき、彼は再び本に目を落としていらだたしげにいった。
「用がないなら話しかけるな。ぼくは急がしいんだ」
「……なんだよ」
 いつもとは違う、彼女にしては低い声音に離れて座っていたリッドとファラも話を中断して彼女を注視する。
「メルディ?」
 ファラが恐る恐る名を呼ぶ。
「なんだよっなんだよぅ! キールのばかぁっ! だいっきらい!!」
 叫んで、メルディは宿を飛び出していった。
 その目はかすかに潤んでいた。






「……なんだっていうんだ、あいつ」
 キールは本を開いたまま呆然とメルディが出ていった扉を眺めた。
 読書の最中のキールにメルディがまとわりつき、邪険に追い払われるのは珍しいことでもなんでもない。いつものことだ。
 だから彼はメルディは口を尖らせながらもあっさり引き下がり、さっさと他のことをはじめるものとばかり思っていた。
 リッドとファラもまさか彼女があれほどの剣幕で怒鳴るとは思わなかったのだろう、キールと同じような表情で同じ方を見ている。
 一気にしんとした食堂で、最初に口を開いたのはリッドだった。
「キール、連れ戻して来い」
 なんでぼくが、と言おうとして思いとどまる。いつもと様子が違ったとはいえ、確かに原因としては自分以外に思いつかない。
「……わかったよ」
 ため息をついてキールが出ていってしまうと、ファラが首をかしげた。
「メルディ、どうしたんだろうね。キールが読書にかまけるのはいつものことじゃない」
「誰だって不安定なときってのはあるもんさ。気づけなかったキールが悪い」
 リッドは鼻を鳴らしてそばのカップに手をのばした。
「メルディを泣かせた罰だ。町じゅう駆けまわってくりゃいい」
 彼の口調にファラはおもわず微笑んだ。リッドはなんだかんだいいながら、メルディのことをひどく可愛がっている。幼く見える外見と口調が、妹のように思えて仕方ないらしい。
「ま、大丈夫でしょ」
 ファラはそうつぶやいて、自分もカップを手にとった。








 衝動のままに叫び声を上げて飛び出しては来たものの、我に返ってみれば少しばかり情けないような気がして、メルディは植え込みのそばに腰を下ろした。
 どうしてあんなに心が乱れたのか、自分でもよくわからない。だって、読書中のキールに追い払われるなんて、いつものことだ。慣れきっている。
 なのに。
 どうしてだろう、あとからあとから涙があふれて止まらないのは。
 ぐしぐしいいながら涙をぬぐっていると、ふと見下ろしていた地面に影が落ちた。
「……メルディ」
 あの後すぐに追いかけてきたのだろう、キールが目の前に立っている。
 まだ顔を合わせる気にはなれない。メルディはすばやく立ち上がって踵を返そうとした。けれど、すんでのところで腕を捕まえられる。振りほどこうとしてもできない。持久力はともかくとして、純粋な腕力でかなうはずがない。彼女が暴れるものだから、キールはつい手に力をこめてしまった。
「痛!」
 思わずあげた悲鳴にキールがぎくりとして力を緩める。
 その一瞬の隙を突き、メルディはまた駆け出した。
「あ、メルディ!」
 キールの制止の言葉が聞こえたが、応じるつもりはさらさらない。
 一方キールはキールで、メルディが振り返りざま見せた顔に、頭が真っ白になってしばらく思考が止まってしまった。

 泣いていた。
 大きな紫水晶の瞳は真っ赤に腫れあがり、彼を睨みつける瞬間にもまた新たなしずくが頬をつたっていた。
「なんで泣くんだよ……」
 自分はそんなにひどいことを言っただろうか。
 もやもやした気持ちが胸に広がる。
 メルディは走りつづけ、もうすぐ角を曲がろうとしている。
 このままでは見失ってしまう。キールは表情を引き締めると、走り出した。






「待てよメルディ!」
 振り返りもせずにひたすら走りつづける自分の後を追いながら、名前を呼ぶキールの声がだんだん近づいてくる。旅をはじめたばかりの頃は少し歩いただけでへばっていたくせに、どうして今はこんなにも……

 びたん!

 メルディは石畳の縁に足をひっかけて転んでしまった。膝は汚れただけですんだが、とっさについた左手が無残にすりむける。
 道の真ん中でこけるなんて。キールじゃあるまいし。
 およそ普段の彼女とは縁遠い皮肉な感情が身をもたげる。
 けれど転んだおかげなのか、それとも走ったからなのか、さっきはわからなかった自分自身の心が見えたような気がした。
 あのとき。
 たったひとり、とり残されたような気がした。
 みんなだけが暖かい家の中にいて、自分だけがそれを木枯らしの吹く外から窓越しに眺めている。誰も気づかない。
 ひとりぼっちで。
 孤独に震える。
「メルディ!」
 ぐい、と肩をつかまれた。
「離して!」
 感情的に叫んで身をよじっても、今度は力も緩まない。睨みつける視界は涙に曇り、まともに彼の顔も見えない。
 通行人のひとりが見かねたのか、近寄ってきた。
「ちょっと兄ちゃん。嫌がってる女の子に乱暴な真似は……」
「余計なお世話だ」
 キールは冷たく言い放った。親切のつもりなのだろうが、鬱陶しいだけだ。
「ぼくらはれっきとした知り合いだ。部外者の出る幕じゃない」
 そのまま無視して膝をつき、メルディの両肩に手を置いて正面から覗き込むように彼女の顔を見上げた。
「なあ、メルディ。悪気はなかったんだ。あんなの、いつものことだろう? 謝るから、宿に帰ろう。リッド達も心配してる」
「ふ……」
 メルディは立ち尽くしたまましゃくりあげ始めた。だいたい事情が飲み込めたのだろう、集まりかけていた人垣がぱらぱらと散っていく。去り際にさっき声をかけてきた男が「なんだ、痴話げんかか……」とぼやくのが聞こえたが、知らぬふりをする。
 とりあえず通行の邪魔だからと、近くの公園のベンチにメルディを座らせて、キール自身は彼女の正面にしゃがみこんだ。
「いったいどうしたんだよ。ぼくの性格はもうわかってるだろ? いつもだったら……」
「寒かった」
 ぽつりと漏れでた声は小さかったが、キールはそれを耳ざとく聞きつけた。
「寒かった……? 部屋が? それとも食堂か?」
 メルディは力なく首を振る。
「みんなあったかそうだった。でもメルディは、寒かった。寒かったよぅ……!」
「メル……」
「一人は寒いよ。メルディは、ひとりぼっち。一人は寒い。一人にしないで。ひとりにしないで……!」
 感極まったのか、メルディは再び泣き出した。
 キールは自分の浅はかさに舌打ちしたい気分になっていた。
 メルディがどうして大袈裟とも言えるほどの反応を示したのか。いままでずっと一緒にいて、そんな理由など簡単に推し量れたはずなのに。
 ただでさえ色々なことがあって参っている彼女を追い詰めるようなまねをしてしまった。
「一人になんかしない」
 ゆっくりと背中に手を回して引き寄せる。震える身体は少し力をこめただけでたやすく折れてしまいそうで、キールはなんだか切なくなった。
 この細い肩で、メルディはあんなにもつらい思い出を背負っているのだ。いままでも、これからも。
「キール?」
 淡紫の髪を手で梳いて、彼はメルディにいいきかせた。
「一人になんかしない。セイファート庭園でも言っただろう? ぼくたちは、仲間なんだから。みんな一緒にいる。もちろんぼくだってだ。みんなメルディが大好きなんだから、ひとりぼっちだなんていったら悲しむぞ」
 ま、ぼくの場合みんなとは種類が少し違うかもしれないけど。
 口には出さずに心の中でつぶやいて、キールはいったん身体を離してメルディをみつめた。
 自分でも不思議なほど自然に微笑んで頭をなでてやると、彼女は再び顔をゆがめて涙をあふれさせた。
「……ふっ……ふええぇえん! キール! キールうぅ!」
 大声をあげて胸にすがりつく少女を優しく抱きしめて、キールは空を見上げた。
 黄昏どきが、近づいていた。








 しゃくりあげるペースがだんだんゆっくりになってきたのを見計らって、キールは用心深くメルディを見下ろした。
「……メルディ? 大丈夫か……そろそろ帰ろう」
 うなずいてメルディが身体を離す。手をひいてやろうとして、キールは思わず目を見張ってメルディの左手をつかんだ。
「どうしたんだこれ!? ……気づかなかった、大丈夫か?」
「……ん。ちょっとイタイ」
 傷の見た目のひどさとは裏腹に、メルディはたいして痛がる様子もなくえへへ、と笑った。
「でもヘーキ。寒いよりいい」
「あのなあ……ちょっと待ってろ。今治してやるから……って、あぁしまった」
 急いで出てきたので、クレーメルケイジは宿に置き忘れてきてしまった。かといって放っておくのも何だ。メルディは平気そうにしているが、見ただけでこちらまで痛くなってきそうなほどひどい。
 宿に戻ればすぐに治せるが、このまま歩かせるのも気の毒な気がして、とりあえず応急手当だけでもと傷口に顔を寄せる。
「キ……」
 メルディは無事だった右手をもじもじと動かした。
 じんじん痛んでいた手のひらが、別の意味で熱を持ち始めてうずく。
 乾きかけていた血汚れまで綺麗に舐めとってから、キールは隠しからハンカチを取り出してメルディの手のひらにあてがった。
 顔を上げる。
「……メルディ? どうかした……」
 やけにおとなしい彼女を訝しげな表情で覗き込み、絶句する。
 真っ赤だった。
 同時に自分がたった今した行為が、はたから見ればどう映るかにも思い至って、彼もまた耳まで一気にゆであがる。
「あ、えと……」
 しどろもどろになっていい言い訳はないかと考えるが、そもそもその余地があるのかどうか。
「……キールまっかー」
「こっこれは夕日のせいだよ! おまえだって……」
 苦し紛れのキールの言葉にメルディは彼の背後の空に目をやった。
 おりしも陽が沈みかけ、紅く紅く光る太陽が世界の全てを燃えるような色彩に染め上げている。
 インフェリアの夕暮れは美しい。生まれ育ったセレスティアのものも捨てがたいけれど、こんなにも鮮やかな赤を見られるのはこちらだけだ。
 メルディはふわりと微笑んだ。
「メルディもそだもん。お陽様がせい」
 そう、赤くなんてなってない。二人とも夕日に照らされているせいだ。
 そういうことにしておこう。
「……なら、問題ないな。ほら帰るぞ」
 照れ隠しか、メルディの怪我をしていないほうの手を乱暴にひいて、キールは足早に歩き始めた。
 ひきずられるように歩きながらぼうっと手に巻かれたハンカチを眺める。
 真っ白なそれの隅にはちいさくスミレの花とキールの名前が縫い取りされていた。
「キールがおカーサンのやったのか?」
「ん? ああ、その刺繍か。いや、ぼくだ。大学に入ってから何枚もなくしたんで、ためしにやってみた」
「……よごれたな」
 ハンカチごと手を握り締めてメルディがうなだれると、キールはつないだ手をぶんぶん振った。
「べつにいいさ。そういうものは役に立ってこそだろう? 一枚きりしか持ってないわけでもなし」
「ほかにどんなのがあるか」
「そうだな。桜とかタンポポとか。ほかにもいろいろ。なんかそうやっておくとどこかに置き忘れても誰かが届けてくれるから、減らなくなった」
 それはそうだろう。こんなに綺麗に刺繍がしてあったら、たとえ見ず知らずの相手にでも、届けてやらねばという気持ちになる。
「メルディもやろかな」
「やるなら教えてやる。まあ、時間があるときになるだろうがね」
「ほんとか? 約束な!」
「ああ」
 少し前までの絶望的なほどの孤独感はどこへやら、メルディは弾むような足取りでキールの後ろから隣に並んだ。
 陽がすっかり沈んでしまってあたりが暗くなっても、気分はどこまでも明るかった。





 宿についたメルディは、たいしたことがないからと言い張って、結局キールの晶霊術もファラの治癒功も受けつけなかった。
 その結果、彼女の手には数日の間キールのハンカチが巻かれたままになっており――――そのままメルディはうやむやのうちにそのハンカチを自分のものにしてしまったのだった。







--END.




|| INDEX ||


古賀ともみさまより挿絵をいただきましたv→

あとがき。
あははははー(恥) とりあえずいい訳兼説明をば。
タイミングとしては、セイファートのふたつ目の試練がおわった直後になります。
だからインフェリアにいるんだな。でもってリッドが妙に物分りいい風情なのもそのせい。
どこの町かは特に決めてないですけど。
インフェリアって水道ないですよね?たぶん。
池だの海だので傷口を洗うなんてもってのほかですから、まあその……舐めちゃうのが手っ取り早いわけですわ。
なんか今までのに輪をかけてはんずかしーシロモノを書いてしまった(笑)
書く前に決めてたテーマは「痴話ゲンカ」だったんですが、書いてるうちにメルディがどろどろ暗くなっちゃって……明るくいきたいのに。
ハンカチうんぬんの元ネタはキャンプスキットから(こればっか)
キールってしょっちゅう自分のズボン繕ったりしてるらしいじゃないですか。
んなら絶対ハンカチにも刺繍とかしてるだろうな、とか思ったりして。