暗闇は怖い。
 そばにいるはずのひとの顔が、見えなくなるから。
 決してひとりぼっちではないはずなのに、それを忘れてしまいそうになるから。




手を、つなごう





 陽の傾きかけた、晩秋の川辺。
 夏ならば涼しげに感じる水音が、冷たくなりはじめた風の色とあいまって寒々しい調べを奏でている。
 ふたつに結い上げた髪が大気になぶられるにまかせたまま、メルディはぼんやりとせせらぎの表面を眺めていた。
 とうとうと流れゆく水。魚がいるのか、ときおり岸辺に近いところでぱしゃん、ぱしゃんと水が跳ねる。上流から流れてきた紅葉が岩にひっかかって、色鮮やかな堰をつくっている。
 なんて穏やかな風景。滅びまであと数日しか残されていないのだなどと、いったい誰が信じるだろう。木々も魚たちも、今頭上を飛んでゆく鳥たちでさえ、訪れる冬のための支度を当たり前のように急いでいて。
 メルディはほうっと息をついて、いつのまにか髪にからまっていた落ち葉を指先ではずした。軸を持ってくるくる、と回してから放物線を描くように腕を回す。手から離れた葉っぱが吹いてきた風にあおられ、川の向こうに飛んでゆく。
 誰にも何も告げずに出てきてしまったけれど、出発は明日ということになっている。夜までに村に帰ればなんの問題もないだろう。一刻の猶予もならないと、それはみな痛いほどにわかっているのだけれど、だからこそ気ばかりはやらせてことを仕損じては元も子もないから。いま少し、父の故郷の美しい姿を目に焼きつけておく時間が欲しかった。
 紅く紅く輝く夕日が見ていてもわかるほどの速度で山の端に近づいてゆく。こんなにも鮮やかな赤はインフェリアに来るまで見たことがなかった。
 きれい。
 とても、きれい。
 目頭が熱くなる。
 でも、涙は流れない。
 今生で見られる、最後かもしれない夕焼け。太陽は明日もまた昇ってくるけれど、そしてこの世界がある限り日は巡るのだけれど、自分にそれは許されていない。
 メルディは陽が完全に沈むまで、身じろぎもせずに空をみつめていた。隠れる。隠れる。名残のように山の向こう側から洩れていた光も完全に消えた。
 途端にあたりが暗くなる。そろそろ戻らなければ。
 彼女は踵を返そうとして見なれた姿をみとめ、ふっと微笑んだ。
 夜目にもはっきりとわかる、真っ白なガウン。そのくせそれをまとうひとの髪はいつでも夜空を映している。
「キール」
 メルディは小走りに青年のそばに駆け寄った。
「……ここにいたのか」
 責める響きはない。けれどなんとはなしに彼が自分を探して村中を駆けずり回ったのだということが察せられて、メルディはかすかにうなずいてから謝った。
「ん。ごめんな」
「いい。……もう、帰るだろう?」
「はいな」
 帰る。どこに? 仲間たちのところに。故郷を失ってから彼女の帰るところは"場所"ではなくなった。"仲間のいるところ"になった。ここでは異邦人であるはずの自分が、けれど孤独を感じることなくいられるのは彼らのおかげだ。
 ひときわ強い風が吹く。冷気に首筋をなでられて、メルディは身震いするとちいさくくしゃみをした。気遣わしげな視線が注がれる。
「寒いのか?」
「へいき。早く帰ろな、キール」
 ことさらに明るく笑ってみせてから、村へと続く小道に至る。こんなときにまで強がることはないだろうに。キールはため息をついて華奢な背中を追った。
 と。
 レース織りのタイツに包まれた足が、ぴたりと止まる。
「? メルディ?」
 どうかしたのか、と続けようとした言葉は途中で消えた。しゃがみこむ。いやいやとでも言いたげに首をふる姿はまるで幼い子供。横に膝をついて顔をのぞきこむと、暗がりでもはっきりとわかるほどに青ざめたメルディの横顔が見えた。
「メルディ? どうした?」
「……や……」
 耳元でささやく声もろくに聞こえない。メルディは震える身体をどうにかしようと腕で自らを抱きかかえたが、どうにもならなかった。
 ざわざわと葉ずれの音が聞こえる。うるさいはずなのに、音はしているはずなのに、木々の枝は風でたわんでいるはずなのに。森の動物の声さえも吸いこんでしんとした静寂が目の前に広がっている。

 深淵の闇の中、導かれるごとくに続いている道。

 怖い。怖い、怖い、怖い――――!!
 メルディは頭を抱えた。レグルスの丘の奥で、あの封印の土地で、破壊神の息吹に触れたときの記憶が鮮明によみがえる。
 川原にいたときは怖くなかったのに。あたりがゆっくりと闇に染め抜かれてゆくさまを、ひどく穏やかな気持ちで眺めることができたのに。
「メル……」
「メルディ、戻る!」
 メルディはキールをさえぎって大声で宣言すると、さっと立ちあがって川のほうへ駆け戻ろうとした。
「メルディ!?」
 驚いたキールが追いすがってくる。あっというまに追いつかれ、腕を取られる。
「おい!」
「メルディ、今夜は川にいる! 朝になったら戻るから、だからキール、先に帰っててな!」
 インフェリアの夜は闇夜ではない。川辺なら、またたく星がきらきらとふりまく光を受け止めて反射して、まったくの暗闇ではないはず。さっきまでいた、あそこなら。
 だが青年はメルディの必死の願いに柳眉を逆立てた。
「何言ってる。今の時期、テントもなしに野宿なんて馬鹿なこと……だいたいおまえ、自分がふらふらだってこと自覚してるのか!」
 認められるはずがないだろう!
 強い力でずるずるとひきずられる。
 わかってる、わかってるそのくらい。メルディはこみあげてきた涙をこらえてめちゃくちゃにかぶりをふった。反発するセイファートのフィブリルを何度も浴びたせいで、自分の今の健康状態は決して芳しいものとは言えないのだ。どれだけ食べてもどれだけ寝ても全体的なだるさは取れないし、微熱だって続いている。
 けれど身体的な苦痛よりも闇への本能的な恐怖のほうが勝った。
 ざり、とふんばった靴の下で砂が削れる音がした。キールが戸惑ったような表情をしてこちらを見ている。
「…………どうして帰りたくない?」
 聞こえてきた問いに、メルディははっとして顔を上げた。
 大きな紫水晶の瞳が濡れて輝いているのに気づいた彼が、目線を合わせるためだろうか少しばかり上体をかがめる。
「……暗い。から、こわい」
 少女は叱られた子供のようにうなだれた。ふわふわ髪が滝のように流れ落ちてその肩を覆う。
「この道……ネレイドの、おなかのなかに、つづいてるような、……気がする」
 まっくらなのだ。のばした手の先も見えないようなこの暗い空間を抜けさえすれば、あたたかな光が灯ったラシュアン村。でもこの闇のむこうに、そんな、日常のありふれた風景が待っているだなんてにわかには信じられない。
 知っているのに、そう思えない。
 それどころか、いつまでも終わらない真っ暗闇の中を歩きつづけた挙句、ネレイドに囚われてしまいそうな錯覚さえ起こる。

 だから。

 帰りたくない。

 しゃくりあげはじめたメルディのかたわらで、キールは息をついて彼女の頭をなでた。
 やはり迎えに来て正解だった。メルディを探して村中を駆け回っているとき、何度も投げかけられた言葉。もう子供ではないのだから、ちゃんと一人で戻ってこられるだろうと。
 戻ってこられる? とんでもない。自分が来なければ、この少女は闇におびえて一歩も動けなかっただろう。そして自分は、やきもきしながらやはり夜通し彼女を探し回ることになっていたのだろう。夜の森に進んで入るほど馬鹿ではないから、みつけられずに、メルディは体調を崩すことになっていたかもしれない。
 彼は浮かんだ想像を首を振ることで打ち消した。どちらにせよメルディを村まで連れて帰ることができなければ同じだ。そしてそれができるのは、この場にいる彼だけ。
 キールは着ていたガウンを脱いで彼女の肩に着せ掛けた。問いかけるような視線に微笑を返して、そっと両手でちいさな手を包みこむ。
「きー……?」
「メルディ。目を閉じろ」
「え」
 揺れる瞳はしばらく不安げに彼を見上げていたが、やがてメルディはおとなしくまぶたを閉じた。
 視界が閉ざされると、ほかの感覚が鋭くなる。着せられたガウンからじんわりとあたたかさが染みこみ、思いのほか身体が冷えていたことに初めて気づく。やさしくやさしくにぎられた手は、赤ん坊をあやすようにゆっくりと揺られている。
「……いいか、メルディ」
 言い聞かせる声もどこか甘い響きをおびている気がして。
「おまえは目を閉じている。だから何も見えない」
「うん……」
 彼女は目を閉じたままこくりとうなずいた。
「暗いからじゃない。何も見えないのは、目を閉じてるからだ。わかるな?」
「うん」
 そろそろと歩き出す気配がする。手を引かれて、メルディの足も自然に動き出す。
 肩に何かの重みを感じた。おそらくは、キールの腕。


 暗い。
 けれど、すぐ近くで聞こえるのはキールの息遣い。
 ときおり何かにつまづいてまろびそうになると、添えられた指がぐっと肩をつかむ。
 絡まる指先は、絶えず勇気づけるように力がこもっている。

 暗いのに。
 何も見えないのに。

 キールがいることが、わかる。
 見失わない。
 決して。






「……到着」
 耳元で安堵したような声がして、メルディはぱちりとまぶたを開いた。
 そこここに灯る橙色の光。アイメンとは違う、しかし間違いなく日々の営みがそこにあるのだと教えてくれる、あたたかな光。
 振りかえると今まで抜けてきた道が見えた。
 やはり暗闇に続いていて、まるでぱっくりと開かれた巨大な動物のあぎとのようにも見えるけれど。
 けれど、そこを抜けてきたのだ。たった今。
「…………」
「メルディ?」
 黙ってしまったメルディを訝しんだのか、キールがささやきかけてきた。これ以上はないというほどに目を大きく大きく見開いて、みつめる。みつめて、そして、笑う。
 つられて笑い返して、彼はつないでいた指先を解いた。寂しかったけれど、とりあえずは我慢して隣に並ぶ。
「……また、手つないでな」
 ちいさな声でつぶやいてみたら、ぽんぽんと頭をたたかれた。

 ”また”があるのかどうかは、確信できなかったけれど。
 ないほうが、いいのかもしれないけど。
 それでも。






 暗闇は、怖い。
 そばにいるはずのひとを、見失いそうになるから。

 だから暗闇で、あなたを見失いそうになったら。
 そうしたら、また手をつないでほしい。
 そうしたら。
 きっと大丈夫、だから。







--END.




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あとがき。
キリ番50000Hit、つくねさまのリクエストでした。
Disc3あたりということで、レグルスの丘直後にしてみました〜。

長さの割には短時間で仕上がったお話。
いや、なんかこう寂しげ〜な風景書いてるの楽しかったです(笑)
虚無感っていうのか…その中に灯火をみつけるのじゃ。

「目を閉じてるから見えないのであって、暗いから見えないわけではないんだ」
この台詞をキールさんに言わせたかっただけなんです、ハイ。
屁理屈こねてるんじゃねえよ〜って感じだけど、メルディにとっては救いともとれるのでは。
言いくるめて納得させる辺りキールさんぽいと思いませんか(笑)