自分が昔、彼らに抱いていたものは。


 あふれんばかりの憧憬と、ほんの少しの嫉妬。




うつろい





「……ひと雨来るんじゃねぇかな……」
 ひとりごとともつかぬ、つぶやき。
 思い思いの速さでぞろぞろと街道を歩いていた一行は、最後尾に陣取っていた青年のちいさなそれにいっせいに振り返った。
「あーめ、ふるか?」
 愛らしい声で疑問形の相槌を返し、少女が空を仰ぐ。高くふたつに結い上げた髪が陽の光を透かして輝いた。
 ぴょこぴょこと、彼女が跳ねるたびまるで紫水晶のようにきらめく髪がまぶしい。先頭を歩いていた少女――ファラは、はしばみ色の目を細めてそのさまに見入りながら首をかしげた。
 今日はいい天気だ。理由もなく顔がほころんでしまうほど。
 太陽はさんさんと惜しみなく地上に温かさをもたらし、風はあくまで優しく頬を髪をなでて過ぎる。木立では鳥がさえずり、少し耳をすませば一生懸命に木の実を集める栗鼠がたてるカサコソいう音まで聞こえる。
 厳しさの前の小休止。生き物たちが冬支度をするために、神さまが与えてくれた束の間の穏やかな時間。
 このまま放っておけば世界は消えてなくなってしまうだなんて、誰がそんなことを考えるだろう。そう思うくらいなのに。
「降る、かなあ? おひさまだってこーんなに明るいのに」
 リッドの勘違いじゃないの?
 そう続けようとした言葉は、けれど横合いから飛んできた別の声に遮られた。
「いや。雨になるかもしれないぞ。見ろ、雨雲が近づいてきてる」
 指差す方向につられて目を向ければ、確かに黒く重たげな雲が空にかかっているのが見えた。しかしたった今自分が見上げた空は青く、どこまでも澄み渡っていたはずで――
 少し考えてから、ファラは難しい顔でテントを張るべきか否かを相談し始めた幼なじみたちを軽くつついた。
「……ねえ。雲があるの、北西だよ? このまま進んでも大丈夫なんじゃないかなあ」
「ダメだって。周りみてみろよ」
 静かになった雰囲気につられてのことだろうか、リッドが声をひそめて手のひらを振る。ふと気がつくと、今の今まである意味では賑やかだった森の中はいつのまにやらしんと静まり返っていた。
 どうやら彼らは一足先にねぐらに避難したらしい。
「あれ……?」
「どうやら本格的に来そうだな。キール、柱たてんぞ」
「ああ」
 二人がてきぱきと荷解きを始めたのを見て、ファラはどちらにしても従うのが得策なのだろうと思うことにした。青い獣を抱き上げ、急速に暗くなり始めた空を見上げたままの少女を手招きする。

 ほどなく世界は蒼く塗りかえられた。






 しとしとと、しずくが枝を打つ音が聞こえる。
 思いのほか強かった雨の中、けれど迅速な判断のおかげで彼らは少しも濡れることなく円座になってランプの光を眺めていた。
 座る地面は乾いている。以前通った旅人が焚き火の跡を埋めでもしたのだろう、森の中にかすかに小高く盛りあがった場所を首尾良く見つけることができたのだ。おかげでテントの中に水が流れ込んでくることはない。
「なあ」
 テントの中を支配する静けさに痺れを切らしたのか、最年少の少女が遠慮がちにきりだした。
「リッドもキールもー、雨がふるよくわかったな? メルディ全然わかんなかったよぅ」
「簡単なことだ」
 キールが低く答える。てっきりリッドから反応が返ってくると思いこんでいたメルディは、緊張でかすかに笑顔を強張らせた。
 もちろん嫌いなどではないのだ。仲間だと言ったあの言葉に嘘偽りはまったく存在しない。けれど未だにこの胸は、拒絶されていたころの痛みを勝手に再生しては自分の笑顔を硬くする。メルディは自分自身を叱咤しながら膝をのりだした。
 気づいているのかいないのか、キールは淡々と続ける。
「風が吹いてくる方向にいかにもな雲があれば、誰だって雨が降るんじゃないかぐらい考えるだろう。ちょうど天候の変わりやすい季節でもあるし……」
「ちょっと待って、キール……」
「ついでに説明するなら、ラシュアンでは雲は南西から流れてくるものだったからな。ファラが大丈夫だと思うのも無理はない。まあそのへんは単なる地域差だ」
 口を挟もうとしたファラをも遮り一息で説明を終わらせると、彼は嘆息してそのまま黙り込んだ。
 なんだかいつもと少し違う。メルディはうとうとし始めたクィッキーの毛並みをなでてやりながら、こっそり首をかしげた。
 それがいいのか悪いのかは別として、こういうときのキールはたいてい得意げに延々と理論の説明を始める。こういう場合ならまずは風の流れ、それから大気の構造に話が進み、果てはそれらに影響を及ぼす晶霊の動きに発展してそれから自分で勝手に疑問をみつけてその中に沈みこんでいくはずなのに。
 今日はなんだかいつもと違う。
 身体の調子でも悪いのだろうかと思ったが、それを口に出すのはやめておいた。



 いつもそうだ。
 いつも、そうなのだ。
 彼は目の前に垂れ下がる前髪を無意識に払いのけながら、内心だけでため息をついた。他の三人の楽しげな雑談が耳の端をかすめるが、意識はそちらに走らない。おそらく自分のこころは今、雨降りとまではいかないまでもどんより曇って光などまったく差していないに違いない。
 数刻前、これから訪れる変化の気配を誰よりも、森に暮らす動物たちよりも早く嗅ぎ取ったのはリッド。彼はおそらく雲など見ていなかっただろう。ただ、流れる風の重さ、空気の帯びるほんの少しの湿り気を敏感に感じ取り、それを経験に直結させただけなのだろう。
 その後順序だてて変化の予兆を感じた理由を説明したキールに、少女二人は素直に感嘆のこもったまなざしを向けてきた。それはわかった。
 いつもなら小気味いいその視線。けれど今回はそうはいかず、そしてそう感じることも初めてではない。
 ずっと忘れていた感覚だった。
 いかに多くの知識を得ているか、いかに難解な理論を駆使できるかが重視されていた大学では決して感じ得なかったこと。
 日ごろ幼なじみの青年を無知だとこき下ろしてばかりいる彼だが、ときどき思うことがある。無知は自分のほうなのではないかと。
 ふと、さきほどのメルディの強張った笑顔が脳裏によみがえった。あの瞬間たとえ作ったものでもいいから笑顔を浮かべることができたなら、きっと彼女も違う顔を見せてくれたに違いないのだ。
 けれど、できなかった。そもそもそのときは思いつきもしなかった。
 リッドは知っている。ファラも、知っている。何もかもをそのまま感じることを。
 何もかもを曇りのない瞳で捉え、そのまま受け入れる。そこに躊躇いなど存在しない。
 だからこそ――……


 はあ、と大きく息をついてキールは額に手を当てた。いつのまにか汗がにじんでいたそこは、じっとりと湿って嫌な手触りがする。
「……きーる?」
 呼びかける声に気づいて顔を上げると、メルディがすぐ隣に座っていた。そういえば、テントの中にリッドとファラの姿がない。
「二人は?」
「あめがやんだからって、外いったよ。今日はもうおそいから野宿するんだって……」
「……そうか」
 その表情がなんとなく不安げに翳っているように感じられて、キールは穏やかに返すだけにとどめた。そうなの、とうなずく頬から少し硬さが取れたような気がする。
 もうやめだ。
 口の中だけでつぶやいて彼はかぶりを振った。
 忘れることができずに、消し去ることもできずに、十年抱えつづけた想い。
 けれど。








 薄暗がりの中わずかに輪郭の浮かび上がる横顔をじっと見つめる。
 視線に気づいたのか、ふわりと紫水晶の瞳が細められた。



 これもいつかはどこかへと昇華されていくものなのかもしれないと、思った。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
…っていうか、『あふれんばかりの憧憬』はいいとして、『ほんの少しの嫉妬』って。
”ほんの少し”かなあ〜〜?(笑)
時期はファロース山前。火晶霊の谷は…クリアしてるかなあ? そのくらい。
キールがメルディを全面的に信用はしないまでもそれなりに対等に扱い始めてる頃ですね。
えーと、ちっともキルメルじゃありませんでしたキール君のコンプレックスにちょほいと触れた話〜。
ちょっと、です。表現したかったことのうち、たぶんこれだと…3割くらいしか表現できてない、かな。
頭の中では結構ちゃんと整理したつもりだったんですが、それでも言葉にするのは難しかったなあ。
単純にいちゃついてる話書くほうがラクですね。
題の「うつろい」は、『移ろい』と『虚ろ』と両方…無理やり入れといてください(笑)
↑でちっともキルメルじゃないとか言ってますが、私の中では「そこはかとなくキルメル」です。
いやさ、だってメルディはキールの成長の鍵だもの。
そんでもって、彼はその頃『虚ろさ』も抱えていたんだと思われます。特に天文台の件とかあったしね。
んーで成長させると同時にその『虚ろさ』もメルディが埋めてくのよー…(夢見てろ)
あ、でも個人的にはキールはけっこう中身詰まってそうな感じです(笑)。
リッド、キール、ファラ、メルディの順に…なんとなく。