うららかな、日差し。
 薄紅の花弁が舞い散るその下を、軽やかな足取りで駆ける少女。
 淡い紫の髪は陽に透けて、ふわふわと踊る。
 楽しげな笑顔は陽だまりを連想させて。
 人はそんな彼女を見て、春のような少女だと言うのだろうか。
 その胸の中には、未だ溶けきらぬ氷塊もまた確かに存在するのだけれど――……




雪解け





「おい、メルディ!」
 青いちいさな獣と共にふわふわ髪をなびかせて楽しげに先を行く少女に、彼は制止の意図をこめて呼びかけた。
 数ヶ月ぶりに戻ってきたインフェリア。暖かい日差しもぬけるように青い空も、穏やかに吹きすぎる風もすべてが記憶どおりの。
 ミンツの街は今春が盛りだ。セレスティアはインフェリアほど季節ごとの違いがはっきりしていないから、なんだか不思議な気分がする。
 自分は確かに、ほんの一年程前までこの街を生活の拠点としていたはずだったのに。
 珍しく感慨にふけっていたキールを、いつのまにかそばまで来ていたメルディが下から覗き込むようにして見上げた。
 リッドとファラは、もうラシュアンに戻ってしまった。今はキールと二人きり。それでもたいして寂しくないと思えるのは、彼らにはまた会えるのだからという希望からかそれとも自分の心の中でキールの存在が占める割合が知らず大きくなっているからなのか。
 間近で見上げた蒼い髪も青紫の瞳も相変わらず綺麗で、陽の光を浴びても自分のように透けることはなく、ますます深い色合いになっている。メルディはしばらくぼんやり彼に見とれていたが、ふとその視線を追ってかすかに表情を曇らせた。
 桜並木が長く続くミンツの坂。春の空気は景色をかすませる。たいして遠くもない大学の校舎がかすんで見える。
 今、キールの瞳に映っているものは。
 彼が、もといた場所。
 なんだか胸が苦しくなって、メルディは白いガウンに隠された腕をつかんだ。
「……キール!」
「…………あ? ああ、悪い。呼んでおいて……」
 キールは彼女を見下ろして微笑んだ。細められた瞳に自分が映っているのを確認して、メルディがこっそり安堵の息を漏らす。
 ……だいじょぶ。キールの中にはちゃんと、メルディの居場所がある。
「でも、おまえにできるのか?」
 唐突に質問され、彼女は目をぱちぱちさせて、それから頬をまん丸に膨らませた。
「できるよー! メルディにだって、引越しのお手伝いくらいできる! これでもてきわはいいんだからぁ!」
 役にたてると言っているのに。いつもいつも、子供扱いしてくれるのだから。
「手際、だろうが。これだから不安なんだ……まあ、大丈夫か。本と服しかないしな」
 キールは軽く息をついてメルディの髪をくしゃくしゃとかきまわし、引っぱられるままに歩き出した。
 王国から重罪人として指名手配まで受けておきながら、実は彼の籍は未だ大学にある。手配が回ってきたときは休学処分中だったために、大学側は特に何の措置もせずキールのことを放っておいたのだった。休学処分をくらい、その勢いで岩山の観測所へと篭ってしまったキールの荷物は大学の寮に置いてあるまま。グランドフォールの後もセレスティアにいたために彼の部屋は開かずの間と化していた。
 今回チャットのおかげでなんとかインフェリアには戻ってこられたわけだが、よくよく考えてみれば大学に在籍しつづける必要はない。だいたいが、もうとっくに卒業してしまっているのだから。
 学士号を取った後も大学に残り研究を続けてさらに上の学位を目指す学生もいるにはいる――キールもその一人だった――が、彼の一番の望みはあの頃とはもはや変わってしまっている。
 元の生活に戻ることにたいした意味を見出せない上、各地を飛び回りバンエルティアの研究をするにあたってミンツに長期滞在することはほとんどないといってもいいのだ。つまり寮にこのまま荷物を置いていては無駄なだけでなく、新たに入学してくる学生の住処を一箇所、奪ってしまうことにもなる。キールは寮を引き払うべく、手伝いをすると申し出たメルディをつれて見慣れた坂を登っていた。
 そういえば、書きかけの論文もそのままだった。読みかけの本も確かあったはず。一日二日ではできそうもないが、人一人の荷物、量としてはたいしたことはないだろう。メルディの手を煩わせずとも自分ひとりでも何とかなる。


 ……その予想は、おおいに的はずれだった。






 ……埃っぽい。
 覚悟はしていたが、これほどとは。
 閉めきっていたのだからもう少し埃が少なくても良さそうなものなのに、さすがといったところだろうか。
「……すごいな〜」
 ひんやりして少しかび臭い空気の中で、メルディは部屋を見回して腕組みをした。本棚に跳び乗ったクィッキーがもうもうと舞い上がる埃に可愛らしくくしゃみをする。
 キールは渋い顔でがりがりと頭を掻いた。
 もともと研究に夢中になると食事も忘れてしまう彼だ。定期的に掃除はしていたのだが、カーライル学部長との確執で気が立っていたためか、掃除などすっかり忘れて観測所に行ってしまったらしい。窓を閉めていたとはいってもセレスティアの住宅ほど密閉性の高くない建物、外の風が入る隙などいくらでもある。
「う〜ん、窓開けるか?」
 ぴょこぴょこと窓に近づいたメルディは鍵に手をのばした。
 ……が、届かない。
 たった一つの窓の前には大きな机がでんと置かれていて、小柄な彼女にはその上にでも乗らなければ鍵に触れることは到底不可能だった。
「……何やってんだ」
 うんうんうなりながらめいっぱい手を伸ばすメルディを押しのけてキールが窓を開ける。
 その拍子に肩に彼の胸が触れふっと暖かくなって、メルディはすぐ上で窓の外を見回しているキールの顔を見上げてにこっとした。
 当たり前だけれど、こうして並ぶと背の高さの違いがはっきりわかる。
 間近にあるすっきりした横顔に、胸の中が甘くうずく。
「キールぅ♪」
「うわっ!?」

 どすん、ばたん! どさどさっ……

 なんとなく気が向いたので抱きついてみたら、よっぽどびっくりしたのか彼は素っ頓狂な声をあげて後ずさろうとし、床に積み重なっていた本につまずいてメルディごとひっくり返った。
 どこかで打ったのか頭を押さえてうめく。
「い、いつつ……」
「だぁいじょーぶかぁ?」
 キールがクッション代わりになりほとんどダメージを受けなかったメルディは、腹の上に乗っかったままのんきな声で上から彼の顔を覗き込んだ。
「かかか顔を近づけるな!」
 薄紫のふわふわ髪が首筋をくすぐる。きらきら楽しげに光る大きな瞳が視界を占領する。
 一瞬で真っ赤になった顔を見られまいとじたばた暴れるなどという無駄な努力をしながらキールはわめいた。
「だいたいっ……! いきなり抱きつくやつがあるか! 人間の行動というものにはだな、すべて理由が存在してしかるべきであってそこのところをおまえはいったい……」
 動揺しているなりに舌だけはよく回る。とりあえず言われたとおり顔だけは(本当に顔だけ)離して、メルディは人差し指でぽりぽり頬を掻いた。
「んん〜? べつに理由はないな〜……あ! ううん、理由あるな!」
「……なんだよ」
 首だけ曲げてかなり無理な体勢から切り込んでくる青い瞳とまっすぐ視線を合わせる。幼い子供がする挙手のように、彼女はびしっと右手をまっすぐ上にあげた。
「なんか急にくっつきたくなったよ!」
「くっつ……」
 首の後ろが痛くなったのと脱力とが重なってキールはごちん、と床に頭を戻した。
 くっつきたくなったって別に何したわけでもないだろだいたいなんでいちいち抱きついてくる必要があるんだよこっちの身にもなってくれいやしかしこいつは本能で動いているのであって何も考えてないんだから慌てるだけ無駄だっていうのはわかってるんだけどそれでもこうなんというかもう少し年頃の女の子だっていう自覚とかなんとかかんとかうんぬんかんぬん
「ああ〜まったく!!」
「ほえっ?」
 キールは怒鳴り、勢い良く起き上がった。はずみでメルディが(まだ乗っかっていた)ころん、と転がり落ちる。彼女は器用に床の上を転がってあっさり体勢を立て直し、跳び降りてきたクィッキーを抱きとめた。
「ああもうこんなことしてる場合じゃないんだ。本! 本をまとめてくれ、メルディ。同じ大きさのを十冊ずつまとめて――紐で縛って入り口に並べて」
 両手でそれぞれの場所を同時に指差す。
「はいな〜。キールは何するか?」
 機嫌よく立ち上がったメルディは今しがた散らばった本を手早くかき集めながら振り向いた。
「ぼくはシーツを洗ってくる。……埃っぽいし……なんか一日で終わりそうにないから寝床も確保しなきゃいけないし」
 しわ一筋ないそれを剥がしにかかる。埃の匂いで鼻がむずむずするのを我慢しながら、キールは何とか大判のシーツを床に引きずらないように抱えた。足元ではクィッキーが「へくちん! へくちん!」とおよそ普段の鳴き声とはかけ離れたくしゃみを連発していたりする。自分がふさふさのくせに埃には弱いらしい。どうでもいいことだが。
「インフェリア、セレスティアと違ってお日様ぽかぽかだからセンタクモノ乾くの早いな。いいな〜」
 メルディは床に座り込み、にこにこして窓のほうを見やった。白いちぎれ雲が空を流れていく。いい天気。
 洗って陽に干した敷布のにおいは格別だ。セレスティアはたまにしか太陽が顔を出さないから、実をいうと彼女がそれを覚えたのはインフェリアに来てからの話。どうにも理解できなくていらいらすることもあったけれど、おもしろいこと、幸せなこともやっぱりたくさんあった。
「まあ……一長一短だろう。セレスティアの建物なら閉めきっておけばここまで埃だらけにはならないしな」
「だな〜」
 そんな会話を交わして白い布の塊を抱えたキールの背中が見えなくなってから、メルディは本棚を見上げた。
 すっごいたくさん、いっぱいの本だな〜。キール、ほんとにおべんきょ好きなんだなぁ。
 感心していると、行ってしまったキールが戻ってきて、
「本で遊ぶなよ」
 釘をさして、廊下の向こうに消えた。






「……なんとか、一段落ってところか」
 腕まくりした袖を元に戻しながら、キールはふうっと息をついた。
 すでに部屋の中は薄暗い。開け放した扉から廊下の窓を通して差し込む西日も徐々に勢いを失いつつある。セレスティアとは違い、インフェリアには電灯が普及していないため、夜に大掛かりな作業をすることはできない。大きなかがり火でも焚けば別だが、ランプの光では限度がある。
 今日は、もう無理だろう。
「メルディ、夕飯食べに行こう……メルディ?」
 キールはベッドに突っ伏したまま動かないメルディの肩をそっと揺すった。干したシーツから香る陽の匂いが気持ちいいと言って、彼女は先ほどからずっと寝台に顔をうずめていたのだが。
 ……どうも反応が鈍い。まさか。
「おい、おいメルディ……寝るなら宿に戻ってからにしてくれよ。部屋とってあるから……」
「んん……メルディ、ここで寝る〜……」
 メルディはごそごそ首を振って寝台によじ登り、丸くなってしまった。クィッキーまでもが枕の上に落ち着いてしまう。
「メルディ〜……」
 キールは途方にくれて淡紫の髪を軽く引っぱった。そもそもここは男子学生寮である。夜間の女性の入室は禁じられているのだ。別に一室一室いちいち中を改めにくるわけではないが、律儀な彼は規則を破ることにはあまり乗り気ではなかった。
「じゃあ、宿までおぶってってやるから……ちょっとだけ、我慢しろ、な?」
 しゃがみこんで優しく言い聞かせるように囁いても、かんばしい答えは返ってこない。キールはあきらめて立ち上がった。
 この部屋で彼が寝て、メルディは宿に泊まらせるつもりだったのだが動かないなら仕方がない。
(寝床を逆にすればすむ話だし、まあいいか)
 机の上のランプを吹き消すと、濃い群青色が広がった。
「……じゃあ、鍵かけていくから。明日の朝来るから、誰に何言われても返事しないでじっと寝てろよ?」
 言って歩き出そうとした彼は、しかしつん、と逆方向に働いた力に引きとめられた。


 おもわず振り向くとメルディが半身を起こしてこちらを見上げていた。彼女が引っ張ったのはキールのガウンの裾。部屋に落ちる暗がりの中、紫色の瞳だけが猫のそれのように光を放っている。
 よく見れば、光って見えるのは濡れているからで。
 キールはメルディに正面から向き直り、目線を合わせるようにもう一度しゃがんだ。
 間違いない。泣いている……
 急にどうしたのだろう。そう思ったが、問い詰めるまでもなく彼女はあっさりその理由を教えてくれた。
「……昨日な」
 声が震えている。
「昨日な、久しぶりにゆめ見た」
「……そうか」
 なんと言っていいのかわからずに、キールはただうなずいた。
「暗くなるとな、思い出すよ……昨日はファラがいてくれたけど」
 暗闇は、いつも心の奥底に潜んでいる恐怖を顕著に呼び覚ます。過去のことと割り切ってしまうには、まだ時間が足りない。人生の大半をかけて刻み込まれた恐れは、もう取り除くことなどできないのかもしれなくて。
 怖い夢ばかり、見るのだ。
 ひとりぼっちで取り残された幼い自分が、ずっとずっと泣きつづける。そして、どこからかあの大破壊の場面につながっていく。
 昨日まではファラがいた。
 押し殺したメルディの泣き声を耳ざとく聞きつけ、一晩中優しく抱きしめていてくれた。
 けれど。
 ファラは今朝早く、リッドと共にラシュアンに戻ってしまった。
 今そばにいるのはキールだけ。よりどころは、彼一人。
 アイメンの、ひとつ屋根の下で眠っているならば、夢を見てからでも遅くはない。キールの部屋の戸をたたき、彼に泣きつけば解決する。
 けれど、少しでも物理的な距離が離れていたら。そう、例えば違う建物の中にいたら。
 想いだけではどうにもならないことだってあるのだ。一度知ってしまったぬくもりをいつもそばに置いておきたいと思うのはひとの常で。
「たぶんきっとひとりでいたら見るよ……あのゆめ」
 こわい。
 華奢な肩を小刻みに震わせる。未だ重圧にあえぐちいさな身体は、今にも押しつぶされそうに見えた。いや事実、放っておいたらきっとそのとおりになるのだろう。
 キールはもう幾度となく自らに言い聞かせ、課した役目をもう一度頭の中で反芻した。それははっきりした言葉にはなっていなくて、形もぼんやりしていて、でもとても強固なもの。
 暖かいもの。

 キールは口許に手を当ててなにやら思案している。黙ったままの彼を、メルディは懇願するように見上げた。湿って重くなったまつげをしばたたかせると、ぽろりと一粒涙がこぼれた。
 ひととき逡巡の気配がし、それからぎし、と床が鳴った。ふわりと毛布が被さってくる。
 目の前にキールの手が白く浮かび上がり、結ったままの淡紫の髪をほどいた。手櫛でもって髪がふわふわとシーツの上に広げられ、そのまま回された腕が肩に心地よい重みをもたらす。
 星明りがさえぎられ、視界に落ちた影は濃いけれど、それは冷たい闇ではないから。
 頭のてっぺんからつまさきまで、暖かさが全身を満たす。
「寝付くまでこうしててやる……早く寝ろ」
 吐息が前髪を揺らした。子供をあやすように毛布の上から肩を叩かれ一瞬抗議したくなるが、そんな気持ちもすぐに流れて消えてしまった。
 手探りでキールの指を探し出し、ぎゅっと握る。細く見えるのに、意外に節くれだって太い指。一本だけ握るのが、ちょうどいいくらい。
「……寝付くまでじゃナイ。ずっと、ずーっとよ」
「……約束する」
 広がる蒼い色。
 急速にかすんでいく意識の中確かにその言葉を聞いて、メルディは我知らず微笑みながら眠りに落ちていった。




 弱さを見せるのが、怖かった。
 すべてを見せたら嫌われるのではないかと思った。
 今は、信じられる。
 このひとは、すべてを受け止めてくれる。



 隠そうとする様が、歯がゆかった。
 見せたくないと願っているのはわかっていたけれど、それでも見えてしまった。
 今は、見せてくれる。
 どんな形をしていても、それが彼女であるならばそれでいい。




 自分たちはなんてちっぽけな存在なのか。
 思い知らされるたび泣いて、落ち込んで、だけど癒してくれる人がいる。
 少しずつ、少しずつ前へ進んでいこう。
 氷雪に閉ざされた胸も、光さえあたるのならば、きっといつかは雪解けの季節を迎える。
 それとも、もう――――……




 翌日。
 二人は昼まで熟睡し、その後は後でじゃれあってみたり怒鳴りあってみたり――結局キールのお引越しは当初考えていた倍の日数かかったとかかからなかったとか。







--END.




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あとがき。
なんか後半ネタ的に一作目とかぶってますな…まあ、文章違うのでよしとしましょう。
いつかどっかに入れたいと思っていた引越しネタなんですが、奇しくも実際の引越しをはさんで書くことになるとは思いもよりませんでしたがな。
実体験入ってるあたりネタ切れなのを露呈しているようでアレですが(汗)
桜並木の坂、というのも実は私の通っていた高校は…以下略。ダメダメじゃん。
どうにも最近春のお話ばっかり思いつくのは実際春だからなのか…四季の変化があるっていいネv
ちなみに添い寝しているわけではありません。寮のベッドは小さいのさ(笑)
枕元に座り込んで、頭を抱え込んでやってるような感じですかね。
右手を肩にまわして、左手はたぶんメルディに握られております。
どうにも本文で説明しきれなかったけど。

キリ番7777Hitはせさまのリクエストでした。
「ほのぼの可愛いキルメル」とのリクでしたが…んが!
これは可愛いというのでしょうか? ぼのはぼの…にもなってない!?(ぐふぅ)