「珪くん! あなたとわたしは、今日から敵!」
「…………は?」
目が点になるとは、今のような状況のことを言うのだろうか。
ぱたぱたと遠ざかっていく足音を耳の端に捉えながら、彼はしばらく呆然と立ちつくしていた。
傍迷惑な宣戦布告
窓の外では、鮮やかさを増した緑が風を受けてさわさわと音をたてている。
空は高く高く晴れ渡り、綿菓子をこまかくちぎったような雲がゆっくり流れゆくさまが見える。
数日後に衣替えをひかえて、徐々に輝きの強くなってきた陽光が窓辺にもたらすものはあたたかな陽だまり。ただし、現在授業中。
通常ならば教師が話をはじめて数分で眠りにつくはずの彼――葉月珪は、授業開始から三十分が経過した今でも、少々うつむき加減ではあるものの、まっすぐな姿勢を保ったままでいた。
友人の友人、『真面目』を絵に描いたような長身の少女が見れば、「ようやく受験生の自覚が出てきたのかしら」とでも言いそうな光景だが、彼を知る他のものが聞けばすかさず首を振って否定するに違いない。そして、否定したその数名の判断は正しい。
表情にこそ出してはいなかったが、珪は今現在、非常に悩んでいた。
そもそも彼は周囲の思惑などあまり気にしない。もちろん他人の迷惑や心の内を省みないという意味ではなく、自らの行動によってうまれるはずの利益を慮ることを普段から忘れているようなふしがある。だからこそ、そこが自宅であろうが教室であろうが道端であろうが眠いと思えば寝る。即刻、寝る。
欲求を自覚すれば素直に従うであろう珪が眠りに落ちてしまわなかったのは、つまりは単純な事情だった。眠気を、感じていないから。理由はこれただひとつ。眠ることより何よりも、目下彼にはとてもとてつもなく重要な懸案事項が存在していたのである。
そう、今日は別に何があったというわけでもないはずだ。昨日も然り。いつもどおりに目覚ましの音で無理やり起床して、あくびをかみ殺しながらも学生の義務を果たすためと機械的に足を動かしていた。校庭を半分ほど行ったところで後ろからぱたぱたと軽い足音が近づいてきて――その持ち主が誰なのかはとっくにわかっていたのだけれど、声をかけられるまでは振り向かなかった。
「珪くん珪くん! おはよう!」
狙い過たず正確に彼の隣で急停止すると、足音の持ち主――深悠は太陽のように明るい笑顔を向けてきた。対してこちらはせいぜい口許をゆるませるくらいでしか応えてやれないのに、目ざとい彼女は珪のわずかな表情の変化を敏感に察して、それはそれは嬉しそうに笑うのだ。
そのまま並んで他愛もない話をしながら教室に向かうのが彼らの日常だったはずなのだが、なぜか今朝は、違った。
「……じゃあ、そういうわけでね」
何がそういうわけなのかわからないが、話を聞いているという意思表示がわりにちらりと視線をくれてやる。深悠は歩調を速めると、珪の真正面にまわって彼の鼻先にびしりと指をつきつけた。
「珪くん! あなたとわたしは、今日から敵!」
「…………は?」
とっさに言葉が出なかったからといって、誰が彼を責められるだろう。そのまま何も言えずに黙っていると、彼女は満足げに腰に手を当てて一人うなずくと、くるりと踵を返して駆け去っていった。
かくて、不幸にも偶然その場に居合わせて深悠の意味不明な宣戦布告を聞きつけてしまった生徒と、つきつけられた張本人葉月珪は、しばらくの間思考を働かせることさえおぼつかなかったのだった。
他人にどう思われようと気にしない――気にならないと臆面もなく断言する珪だが、その彼にも泣き所というものは存在する。
その最たるものが今朝がた無邪気に『敵宣言』をしてくれた菅原深悠だ。彼女が突拍子もないことを言い出すのは日常茶飯事だし、すでにそれに慣れきっているものと思い込んでいたのだが、どうやら彼はまだまだ甘かったらしい。動揺している証拠に、すでに四時限目の日本史の授業が始まっているにもかかわらず、机の上に広がっているのは一時限目の英語の教科書だったりする。休み時間も飛び越えて、学園中に鳴り響いて時刻を知らせるチャイムの音にも気づかずに、珪はただただ延々と悩みつづけていた。
そもそも敵とはなんなのか。挨拶してきたときの笑顔には敵意などかけらもなく、また、当の宣言の最中にさえ彼女の瞳の中に躍っていたのは楽しげな光だけで、その根拠がわからない。
冷静になって原因を探ろうと思ってみても、何も浮かばないのは言わずもがな。深悠のことに関してだけは、客観的な判断力をもつことができていないのは重々承知している。だが、承知できているだけで結局それは現状の解決にはなんらつながっていないということだ。
だいたい、彼女はどうして――――――……
「……くん? 珪くんてば」
不思議そうな声に導かれて、珪は唐突に現実に引き戻された。
顔をあげれば、大きな瞳をきょとんと見開いた深悠が目に入る。机の縁に両の手のひらを重ね、そのうえにあごをちょこんと乗せた体勢だ。ついで教科書のわきに置かれた布包みからかすかに香ばしい匂いが漂ってきて、彼は太陽が中天にきていることにようやくのことで気づいた。
「…………深悠?」
「うん」
おそるおそるたずねれば、何をいまさらとでも言いたげな返答。よもや今朝のあのやりとりは夢かなにかだったのだろうかと疑いたくなった瞬間、深悠は跳びはねるように立ちあがって手を振った。
「それじゃあね! お弁当箱は机の横にかけといてね。後で取りに来るから」
「あ」
見慣れた背中が廊下に吸い込まれて消える。珪の会話のテンポは遅い。それを見越していたのだろう、言いたいことを言葉にして外に出す前に彼女はさっさと行ってしまった。同級の友人たちが物問いたげな顔で戸口と自分を見比べているのを感じたが、いちいち相手をする気にはなれない。たっぷり十秒間、まぶたを閉じてから机の上の巾着袋に目を落とす。
天気の良い日は体育館裏に行き、猫の親子と戯れながら二人でゆっくり昼食を取る。すでに習慣となっているそれが実行されないためには雨が降っている、という自然条件が必要となるのだが、今日は誰もが認めるであろう正真正銘の晴天だ。季節も初夏、風は新緑の香りを孕み、外で昼食を摂るのに絶好の天候だと言える。
「…………敵だから、か?」
珪は首をかしげて一人ごちた。朝の挨拶はあちらから、わざわざ弁当を作ってきたことといい、嫌われたわけではないというのはわかるのだけれど。
「……敵……」
この言葉にいったいどんな意味があるのだろうと、それだけを考えていたらその日はやけに早く終わった。
「アンタ、いったいどうしちゃったの?」
夏服になった日の放課後。程よく冷房の効いた喫茶店で、彼女たちは各々の好物をフォークでつついていた。
食べることとしゃべることは別。の、はずなのに、弾丸のような速さで進む会話とともにグラスに盛られたパフェもまた順調な勢いで減っていく。
「どうって……べつに、どうもしないよ?」
向かいに座った奈津実の突き出したスプーンをみつめながら、深悠はぱくりとシフォンケーキの一切れを口に含んだ。生クリームの甘さとケーキの舌触りの心地よさに、桜色の唇がふにゃらとしまりなく笑み崩れる。
緊張感のかけらもない表情に、隣の瑞希がやれやれと肩をすくめた。本来彼女は寄り道などというものははしたないものだと言い聞かされて育ったのだが、深悠やその他友人たちとのつきあいの中でいろいろと思うところがあったらしい。今では誘えばなんの抵抗もなく応じてくれる。
とはいってもさすがに教育の行き届いたお嬢様、他の少女たちのように食べながら話すということはしない。瑞希はフォークを皿のふちに置いてから、テーブルに頬杖をついた。
「どうもしなくて、あの葉月くんがあそこまでおかしくなるかしら? あの人、ここ何日か授業中まったく寝ていないのよ」
「え、うそ」
「うそなんかつくわけないでしょう?」
この場にいる中で唯一珪と同級である瑞希は、唇をとがらせて少女たちを見回した。彼女は同じ教室にいるぶん、そこで交わされる珪と深悠のやりとりをつぶさに眺めている。昼休みにともに食事するのは二人の習慣であるはずなのに、弁当だけ置いてすぐさま帰ってしまうここ数日の友人の行動は奇異としか思えないものだ。
「普通にしてるけど、あれは絶対に落ち込んでるわね。ミズキにはたれさがった尻尾と耳が見えるようよ」
「あっははは、シッポ! あ〜わかるわかる、叱られた犬みたいなんだよね。きゅい〜ん……って鳴き声聞こえるカンジ」
「そう、まさにそれだわ。藤井さんたら意外としっかり観察しているじゃないの」
「や、だって深悠絡みの王子ってばおかしくておかしくて。観察せずにはいられないんだもーん」
はじめて意見が合ったわね! と、なにやら興奮して手を取り合っている二人を尻目に、深悠は再びケーキをほおばる。あまりにのんきなその様子に、みかねた残りの一人が手を出して彼女のフォークを奪い取ってしまった。
「あ! 花蓮、なにするのー!」
取り返そうとのばした指先はむなしく空を切る。
「おあずけ。……あんたはなんにも考えてないんだろうけど、不機嫌になった葉月ってのは周りの心臓にものすっごい負担かけるんだからね? 管理はきちんとしてもらわなきゃ、こっちが困るんだってば」
花蓮と呼ばれた少女はもっともらしく鼻を鳴らして深悠を見返した。言うに事欠いて管理とはなんともひどい。彼女は反論しようと腰を浮かせたが、「ほら、あんたらも落ち着きなさいって」と真面目なのだか不真面目なのだか判別のつき難い台詞とともに別の方向を向いてしまった花蓮の背中に一気にやる気が削がれてしまう。夢中になっていた二人も、やがて本来の話題を思い出したのか座りなおして深悠のほうを向いた。
「で、何があったわけ?」
三人ぶんの問いと顔がずずいと押し寄せてくる。深悠は膝の上で手を握り締め――それから、あきらめたように息を吐き出した。
「……べつに、どうもしないよ。ただ体育祭が近いから――わたしたち敵同士だよって宣言しただけなんだけど」
まあ、と瑞希が頬に手を当てる。花蓮はため息をついてかぶりを振り、奈津実は額をぺしりとたたいて背もたれに倒れこんだ。
「……アンタ、バカでしょ」
すぱりと一刀両断されて、言葉に詰まる。こういうときに一番興奮しやすい奈津実は、案の定叫び声こそあげなかったものの大げさに身悶えした。他の二人も、何を言っていいのやらわからないらしく黙ったまま微妙な視線を交わしあっている。手持ち無沙汰になった深悠はぬるくなった紅茶を一口含んだ。
「だいたいさあ……アンタのその理屈でいったら、花蓮以外アタシもお嬢も敵じゃん。悠長にお茶なんかしてていいわけ?」
お嬢って呼ぶのやめなさいよ、とわめきはじめた瑞希をおしのけて、奈津実が身を乗り出す。
確かに謎は解けた。体育祭は学級を基礎単位にして縦割り方式でチームを編成する。深悠と珪は一年と二年のときは同じクラスだったから体育祭もともに戦う、いわば同志だったのだが、分かれた今年はそうはいかない。つまりはそれが、彼女の言いたかったことなのだ。
それでわざわざ接する機会まで徹底的に減らしてしまうあたり、やりすぎの感がないでもないが。
あきれ果てた、といった風情の友人連をちらと見回してから、深悠はちいさな身体をいっそう縮こませた。
「だ、だって……なんか、あらためて宣言しとかないと応援しちゃいそうなんだもん……」
それでなくとも、珪の姿を見かけるだけで顔が笑ってしまうのだ。他の相手ならともかく、彼に関しての自制心の効力というものがきわめてちいさいことは経験済みだった。ちゃんと対抗する相手なのだと認識しておかなければ、自分のクラスの選手が負かされても喜んでしまうかもしれない。さすがにそんな事態は避けたい。
「……まあ、ともかく」
花蓮が未だ微妙な表情をしながらフォークを返してくれた。
「惚気くらいならいつでも聞いてあげるから、葉月にはちゃんと説明しておきなさい」
「惚気じゃなーいっ!!」
思わず叫んだが、もちろん取り合ってくれない。
「ノロケじゃん」
「惚気よ、ねえ」
うんうんとうなずく友人たちに対してできることといえば、ぶるぶる両のこぶしを震わせることくらいで。
やけくそ気味に口の中につっこんだシフォンケーキも、落ち着きを呼び戻してくれる助けには到底なり得なかった。
その後、理由を説明し納得してもらったはいいが、やはり深悠は極力珪との接触を避けつづけた。
当日も本人にしてみればどれだけ賞賛されても足りないくらいの自制心でもって自分の学級の生徒を応援し――鬱憤がたまりにたまっていた珪を余計にがんばらせた結果、彼が所属するF組チームが総合優勝する一因を作ってしまったのは皮肉な結末だといえるのかもしれない。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
お気楽な話が書きたかったので〜。適当に(笑)
我が家の設定では王子と深悠さんは三年次だけ別クラスなのですよー。
今まではなんにも考えずに当然とばかりに応援していた体育祭、しかし今年は! ってな感じで。
はたから見ればくっだらない、どうでもいいことですが本人には大きな問題なのです、ええ(笑)。
なんか言いそうなんだよ…こういうこと…
そんでもって目の前で別の男応援されたら、いくら無気力王子でも意地になるだろうさ。
オリキャラ出してしまいました。ご、ごめんなさい…(笑)
別の話で必要な役どころの人だったんですが、今回も女の子キャラで深悠と同じクラスの人がいないので急遽出しちゃいました。
まああくまで脇役、名前だけでそんな出張るわけじゃないからよかろうと。
連載にしようかと思ったんですが挫折。うわーい(何)
しかし「傍迷惑」って…この二人っていつでもどこでも傍迷惑だからあらためて言うほどのことでもないよなあ(笑)
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