神さま、どうしてこんなことになっているのでしょう。
背中に冷たいコンクリートの壁を、正面には熱い吐息を。
あまりに落差のありすぎるふたつのものに挟まれて、考えられることといったらそれだけ。
交換条件
たぶん、発端は二週間くらい前のやりとりだったんだと思う。
二月二十三日、受験の日。雪こそ降ってなかったけれど、底冷えして風の冷たい日だった。空はきれいに晴れ渡って、白い息を吐きながらぞくぞく集まってくるひとたちはみんな緊張して頬を紅潮させていて。
普段物静かな友達もみんな、やるぞって顔してて、冬に不釣合いな熱気がそこを中心に立ち昇っているような気さえしたの。
そんな中、同じ大学を受けるからって朝待ち合わせして、一緒に歩いてきた一番の友達――葉月珪くんは、いつもと同じようなぼんやりした顔してたものだから。
急に心配になったんだ。
だって、受験だよ? もちろんこの結果次第で人生まで決まってしまうなんて、そこまでは思ってないけど、それでもそれと同等くらいの気合で臨んできてるひとはたくさんいる。それなのに、珪くんたらちっともそんな雰囲気じゃないんだもの。
いつもと同じ、眠そうに何度もしぱしぱ瞬きしていて。おおきなおおきなあくびまでしてた。
まさか高校で受けてるいつもの定期テストと同じような気構えでいるんじゃないだろうかって、そう思ったってちっとも不思議じゃないよね?
珪くんは本人いわく"超能力"で一度見たことは忘れないそうだし――まあ、実際全然勉強してないのにいつも主席だったことを考えれば、疑う余地もないんだけどね。だから、ちっともプレッシャーを感じてないとしても、それは当たり前。でもいつもはそれでいいけど、今回だけはそうはいかない。
もちろん珪くんは受かるだろう。
…………試験中に、寝さえしなければ。
たったひとつ、それだけがものすごく心配だった。
だから言ったんだ。
「試験中に寝たらダメだからね」
って。
そりゃあ珪くんが試験中に寝ようが、もしこの学校に受からずに他のところに行こうが、それは珪くんの自由なんだけど。
でも、離れたくないって、大学でもまた一緒にいたいって、わたしはそう思ってずっと努力してきた。わたし個人の勝手なきもちにすぎなくても、それでも、心の中だけでそっと思ってることが忠告になって外に出てきても、それくらいなら許されるよね?
そんなことを考えながら、きっとあやふやな答えしか帰ってこないんだろうなってそう思ってたわたしに、だけど珪くんは予想していたのとは全然違うことを言ってきた。
「……寝なかったら、何してくれる? おまえ」
「うん?」
言われた瞬間は理解できなかったんだけど、ぱっと見上げた顔はなんだか楽しそうで、わたしは面食らった。
「寝なかったらなにしてくれるんだ?」
もう一度。
べつに交換条件で釣るつもりがあったわけじゃなかったんだけど、珪くんはそう解釈したらしい。ううん、無理やりそういうことにしちゃったのかな。
わたしは少し考え込んだ。
珪くんの喜ぶこと……三年間ずっと一緒にいたから、好きなものとか好きなこととかは知ってるけど。わたしがしてあげられることで、嬉しいと思えること?
思いつかないなあ。
正直に伝えることにした。
「……うーん。急に言われても思い浮かばないよ」
「そうか」
「うん。……そうだな、わたしのできることだったらなんでもいいよ」
ひとつうなずいて、わたしはそう言った。
珪くんの望むことでわたしができることなら、べつに交換条件とかそういうのがなくてもなんでもしてあげたいと思うし。よくわたしをからかって遊ぶけど、それは単に親愛の情を表してるだけで。本気で嫌だと思うようなこととか、無理なことを言ってきたことはないし。
優しいのわかってて甘えてるんだろうって気もするけど、でもこれはこれでいいと思うの。
確認するみたいに首をかしげてこっちを見てる珪くんに、わたしはにこっと笑ってみせた。
「わかった。……じゃあ、寝ない」
「ほんと? 約束ね!」
「おまえこそ、受かれよ」
「…………はい、ガンバリマス……」
確かに寝ないと決めた珪くんは無敵だ。そうなると合格が危ういのはむしろわたしのほうなわけで。
……うう、十位以内に入れたこと、数えるくらいしかないしなあ……
黙りこんでしまったわたしに珪くんは訝しげに目を細めたけど、すぐに優しく頭をたたいてくれた。
「大丈夫、おまえがんばったから。……受かるよ」
「うん」
現金だけど、それだけでもう何もかも解決したような気分になったんだ。
そして今日。
合格発表の日に、わたしたちは連れ立って一流大学までやってきた。
あのときと違うのは、もうわたしたちは高校生ではないということ。
それから、……わたしの薬指には、珪くんにもらった指輪がはまっているということ。
もっとも、手袋をしているからそれが人目に触れることはない。三月になってずいぶん寒さがやわらいできたとはいえ、それでも太陽が出なければ気温はずいぶん低い。
三年間の結果が出るんだって、緊張して身体が震えたのを覚えてる。これから四年間、珪くんと一緒に学校に通えるのかどうか――その、運命の分かれ目。
結果は、二人とも合格だった。
もちろんね、一緒に受験した志穂も守村くんも合格。
四人で手を取り合って喜んで(もっぱら騒いでたのはわたしだけだったけど)、志穂に抱きついて、さあ高校に凱旋しなきゃ! となった。今日は近場の大学の発表がいっせいに行われるだけあって、すでに進路が決まってる友達も学校に来るって言ってたんだよね。三年間ずっと担任で、厳しかったけどものすごく親身になっていろいろ世話してくれた氷室先生にも、やっぱり早く報告したいし。
電話でかあさんと尽に合格したことを伝えて、それからさあ行こうか、とわたしたちは人ごみから離れた。
そうしたら、珪くんが突然言い出したんだ。「そういえば受験のときの約束を果たしてもらってない」って。
正直わたしはすっかり忘れてたんだけど、でも合格したということは寝てないってことだものね。いくら珪くんが頭が良くたって、さすがに一教科まるまる落として合格できるほど一流大学は甘くない。
わたしは軽い気持ちでどうすればいいのって聞いた。その場で答えてくれると思ったのに、珪くんはわたしの手を引っぱって――志穂と守村くんは、苦笑して先に行っちゃった。待ってって言っても笑ってこっちに手を振るだけ。志穂の口が動いて、「がんばりなさい」って形を作ったのがわかったけど、……なにをがんばるの?
そのときはちっとも、予想すらつかなかったんだ。
そして今。
人気のない校舎裏で、わたしは壁を背に、珪くんの腕の中に閉じ込められている。
嫌じゃないんだけど、嫌なわけないんだけど、でも、だめ。
足から、力が、抜ける――……
ひとしきりぎゅうっとして満足したんだろうか、珪くんはわたしの肩をそっとつかんで校舎によりかからせてくれた。ほっとしてため息をつく。
珪くんがしてほしかったことって、これだったんだろうか。なんだかずいぶん簡単なんだけど……
ようやく力が戻ってきて、わたしは自分の足で立って珪くんを見上げた。
「珪、くん?」
「…………キスして」
「へ?」
耳を疑う。次の瞬間、まるで火山が噴火したみたいに顔が熱くなった。突然何を言い出すのかと思えば、何を考えてるの?
卒業式の日、はじめて唇を重ねてからまだ一週間も経ってない。でも、それこそキスは何回もした。珪くんたら気が向いたら場所もなんにも考えないで顔を近づけてくるんだもの。下手に拒絶したら傷つけちゃうし、だからって人前でそういうことするのはやっぱり恥ずかしいしで、ずいぶん困った。
「……キスなら何回もした、じゃない」
ああ、我ながら蚊の鳴くような声。だいたいわたしは色恋沙汰には慣れてないんだから、いきなりそういうこと言われてもそつなく対応なんかできないよう。
わたしが動かないのを見て、珪くんはむっとしたように少しだけ唇をとがらせた。
「……深悠から、してくれたこと。ない」
「…………それはそうだけど」
だからそれは、そういう経験がないからであって……嫌とかいうわけじゃない。……ん、だけど。
わかってないんだろうなあ。
すねた子供みたいな目をしてじっとみつめてくる。根負けして、わたしは熱い頬を自覚しながらなんとかうなずいた。
「……わかった」
「ん」
途端に嬉しそうにほころんだ笑顔に、こっちまで嬉しくなってしまう。かなわないな、ほんとに。
肩に手を置いて。少しずつ、少しずつ顔を近づける。少しずつ。
…………。
「珪くん」
「ん?」
緑色の瞳がくるんと動いてわたしを射抜いた。どきん、と心臓が跳ねる。
「……目。瞑ってほしいんだけどな」
「どうして?」
「どうしてって……」
普通に見るだけでどきどきしてくるのに、キスの直前まで視線を合わせてなくちゃいけないなんて、一種の拷問だよ。
「目、開けてたらキスしないよ」
まさかこのまましろなんて言わないよね?
実はそういうことまで考えてなかったみたいで――珪くんはぐっと言葉に詰まってから、素直にまぶたを閉じてくれた。
……ほんと、きれいな顔してる。まつげは長いし、肌はすべすべしてる。女の子よりもきれいだなんてなんだか憎たらしい。
ずっと眺めていたい気もするんだけど――うう、まぶたぴくぴくしてるよ珪くん。待ってるってことだよねえ……
ええい、ままよ!
ぎゅっと目をつぶって押しつけた唇は、狙いどおりちゃんと珪くんのそこにたどりついたみたい。覚えのある感覚が思考を支配する。
「……はあ」
すぐに離れて息をつく。べつにずっと呼吸を止めてたわけじゃないんだけど、なにせ心臓がものすごい勢いで波打ってるから。息苦しくて、たまらない。
珪くんがゆっくり目を開けて微笑んだ。なんとか約束を果たせたってことで、わたしもつられて笑う。
だけど次の瞬間、笑顔はそのまま凍りついた。
「あと十七回、な」
「…………。え?」
じゅうなな、かい?
「十八だから、俺」
そういう理屈なの……?
問いかけようとして開きかけた唇はふさがれる。
「んっ……ん、ん〜?」
やだ、なんかへん……
熱い。
何か、流れこんでくる。
がくりとくずおれたわたしを軽々と支えて、珪くんがまた笑う。すごく嬉しそうに笑うから、怒る気にもなれなくて。
とにかく息を継ぐ。
「……あと、十六回ね」
そういうと首を振った。
「今のは俺からだから。あと、十七回」
「……冗談だよね?」
「本気」
言いながら、改めて顔を近づけてくる。
それから、数十分は経ってるはずなんだけど。
頭の芯がじんじんしてきて、視界も白く霞がかかって。
もう何が何やら。
これは通算十二回目……だったかなあ?
でも、ノルマはあと十四回も残ってる。
神さま、わたしはいつになったらこの熱と冷気のサンドイッチから脱け出せるのでしょう?
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
ヲトメ回路全開(爆笑)
いーい具合に頭腐れてきたみたいです。
二時間しかかからなかったもんなあ…
ノリノリですか。
一流大学はたぶん国立ですよね?(実際そんな名前の大学ないけど)
カレンダー見てたら受験日国公立の前期と同じだったもんなあ。
なので合格発表が三月の六日だか七日だかその辺と考えていいでしょう。
卒業一週間前の受験日と、一週間後の合格発表日。
うむ(何)。
なんかこの話書いてて、彼氏と同じ大学に行くのだといっしょけんめ勉強してた子を思い出しました。
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