理由を聞かれても、すぐには答えられない。
芽を出していたかどうかすら知らなかった感情の、兆しではあったのだろうけど。
強いて言うなら"なんとなく"だと、曖昧な物言いをして笑ってみせるしかなかった。
みつけた
日本の夏は、暑いという。
夏が暑いのは当たり前だろうと、たいていの人にはその一言で切り捨てられてしまうのだけれど、つきあい始めて半年と経たない友人は大真面目な顔でうなずいてくれた。
「なんつーかさ、暑さの質ってヤツが違うんだよね」
ゆらめく熱気。草木からたち昇る濃密な緑の香り。ときおり申し訳程度に吹く風さえも、湿気を含んで涼を取る役にはたってくれない。
渇きは感じない。しかし、じわじわと侵食してくるかのような暑さには内側から茹でられているような錯覚さえ覚える。
「ほんと、この湿気さえどうにかなればねえ…」
だからって砂漠に行くのはごめんだけどさ。
ぶつぶつぼやき始めた友人――奈津実に、彼女の反対側を並んで歩いていた珠美が苦笑した。
「海辺だもんね。山のほうに行けばまだましかもしれないけど」
本来の気候に加え、今いる場所は人ごみの真っ只中だ。人いきれやら屋台から食欲をそそる香りと一緒に流れてくる煙やら、ジリジリと音をたてながら煌々光を放つ提灯やら。とかく暑苦しさを助長させる要素には事欠かない。
陽が落ちたばかりで、浜の砂からも未だ温かさは抜けきっていないし。
それでも帰途につくことなく、三人は足の向くままに駅からどんどん遠ざかっていった。
不快感をおしても彼女たちがこの場にとどまる理由はひとつ。年に一度だけ行われる、大規模な花火大会を見物するためだ。数万人規模の観客を動員するこの催しはテレビでも中継されることになっているが、やはりブラウン管越しと生とでは迫力が違う。ここぞとばかりに居並ぶ夜店をのぞくのもまた楽しい。
結局のところ、口ではとやかく言いながらも楽しさの勝るこの状況は期待していたとおりのもので。二人の掛け合いを聞きながら、残る一人深悠は、花火きれいなんだろうなあなどと未知の光景を想像して口許をゆるませた。
「……なに、深悠。飴が食べたいの?」
「へっ?」
突然かけられた声に、深悠は面食らって何度か瞬きした。
どうやら表情の変わる瞬間をしっかり見られていたらしい。しかも彼女の顔の向いていた方向は飴細工の屋台で、ちょうどちいさな女の子が兎の形の飴を受け取って歓声をあげたところだった。
「え、そういうわけじゃないよ?」
ぼんやりと視線の焦点を合わせていなかったから、何を見ていたというわけでもない。けれど奈津実は自らの思いつきに満足したようだった。トレードマークのまとめ髪がいそいそと屋台に近づいていき、ほどなくして彼女は可愛らしい動物をかたどった飴の串を三本持って戻ってきた。
「はい、パンダ珠美ね。猫は深悠。そんでもってアタシはライオンー」
「……勇ましいね奈津実ちゃん」
「おうよ」
珠美がつっこみながらもありがとう、と笑顔を浮かべる。一瞬遅れて深悠も慌てて串を受け取った。
「あ、ありがとう。いくらだった?」
「いーのいーの。オゴリってことで」
そういうわけにも、と反論しようとしたが、直後響き渡った音に言葉はかき消された。
どよどよとさざなみのように人の群が移動する。
「ああもう始まっちゃったよ! 浜まで降りられなかったけど……この辺で妥協する?」
もう一人の少女がおっとりとうなずいた。
「あまり遠くに行くと帰るときも大変だから、いいんじゃないかな」
言葉の合間にも、夜空に大輪の花が咲く。腹に響く音は以前も聞いたことがあるはずのものより、ずっと大きくて重かった。大気も大地も、震えている。つぼみが開くときにこれほどの音量を伴う花など、他には存在しまい。これでもかと競い合うように咲き誇る花たちに、しばらく声もなくみとれる。
ぱらぱらと零れ落ちる光の残滓を追って、ふと深悠は緑地帯のほうに視線をやった。
黒々と茂る木々に、もちろん火の粉は届かない。届く前に消えてしまう。けれどそのまま――もし届くとするならば、どのあたりに落ちるだろう。
ゆるやかな放物線を描いて、流星ほど速くもなく、かといって軌跡を迷うようなこともなく――――……
「…………!」
気がついたら、足が勝手に動き出していた。
「深悠ちゃん!?」
「ちょっ、深悠! どこ行くの!」
驚くのも無理はないだろう、追いすがろうとしてくる二人に申し訳ないと思いながらも、説明する時間は惜しかった。無理やり顔だけ振り返って叫ぶ。
「ちょっと野暮用! ごめんね、あとで電話するから!」
納得しかねるといった表情にちくりと良心の呵責を感じたけれど。
視界をかすめた鮮やかな色彩をそのまま見逃したくは、なかった。
人が多い。とにかく、人が多い。
はばたき市は新興都市だ。首都まではそこそこの距離があるが、日帰りできないわけでもない。物質的にも精神的にも豊かな暮らしを送ることのできる環境が整っていて、人口は今も増加の一途をたどっていると聞く。
しかし、今これほどに人ごみが鬱陶しいと思ったことはなかった。
大河の本流のように一方向を目指して流れる塊の中を、縫うように走る。背の高い青年の腕の下をくぐりぬけ、幼い子どもにぶつかりそうになってたたらを踏んで、謝った。
少しずつ人が減ってくるのを横目で確認しながら、弾丸のように走る少女に何事かと目を瞠るカップルの横をすり抜ける。
道をそれて森に飛び込む。伸び放題の枝にかすり傷をいくつか負わされたが、それは無視することにした。人波を抜けるよりもある意味気楽でいい。
そうして目的の場所にたどりつき――彼女は、思い描いていた姿をみつけた。
茂みを抜けた拍子にばさばさと枝がしなり、足を打った。けれど、痛いとは思わなかった。
物音に振り返り、無色だった彼の表情に徐々に驚きが浮かんでくるのを、ただただ小気味いい気持ちで眺めた。
「こんばんは、葉月くん」
言って、ようやく息をつく。今更ながら全力で走ったことへのしわ寄せがやってきた。青草に覆われた地面に座り込んで、けほけほと咳き込む。控えめに背中をさすってくれるのになんとか笑顔で感謝を表して、深悠は最後にひとつ深く深呼吸をした。
「菅原……」
探し人、葉月珪は低く彼女の名を読んだだけで黙り込んでしまった。眉間に軽くしわが寄っている。戸惑っているのがありありとわかって深悠はまた笑い出しそうになってしまったが、急に今まで思い至らなかった可能性を考えついてぴょこんと立ちあがった。
「ご、ごめんね!」
何をしていいかわからず、とりあえず手を合わせてみる。
そうだ。姿をみつけて思わずここまでやってきてしまったものの、彼と自分はそれほど親しいわけではない。クラスメイトという表現が一番違和感なく当てはまるだろう。
話はするし、とりあえず嫌われていないということはなんとなくわかっているのだが、どこまで踏み込んでいくべきかまだつかみきれていないのも確かで。
誰にも知られたくない場所だったかもしれない。
おそらくその予想は正しい。来てみて気づいたが、ここには人がまったくいない。少しばかり遠いが、花火見物には絶好の場所。にも関わらず人気がないということは、知られていないということだ。あまり他人を寄せつけたがらない珪のお気に入りであるだろうことは容易に察せられた。
言わば深悠は侵入者だ。
みつけられたことについついはしゃいでしまったけれど。
現れたときとは正反対にしょんぼり肩を落とした深悠に、彼はかすかに首をかしげた。
「……どうかしたのか?」
「どうかしたって」
ついつい声が暗くなる。
「だって……ここ、葉月くんのお気に入りの場所でしょう?」
「ああ」
「お気に入りの場所でのーんびりいい気分できれいなもの見てるときにさ、いきなり他のひとが騒がしく現れたら……やっぱり嫌じゃない」
「まあ……」
「ほらやっぱりー!」
ああやっぱりわたしってばなんてことしてるのいくらなんでも浮かれすぎだってば。
頭を抱えて一人ぶつぶつごちる。いつのまにか低くなっていた視界の中、すぐそばに珪の腕があることに気づいて、彼女は今度はのけぞった。
「ととっ!?」
「……百面相」
ちいさな笑い声が聞こえる。そこに怒りは感じ取れない。恐る恐るたずねてみる。
「………………怒って、ないの?」
べつに、と軽く返されて、深悠は思わず安堵の息をついた。
「よくみつけられたなとは思ったけどな」
抱いて当然の疑問をぶつけられて、けれど答えに窮して自身も首をかしげる。
「そういえばそうだよね」
浜のほうから姿を見たとき、珪だと確信した。夜目のうえ遠目で、よくもまあ一瞬でわかったものだと我ながら驚きだが、そのうえ迷うことなく居場所を探し当てたのだ。べつに方向音痴ではないが、だからといってそういった感覚に長けているという自覚もない。
強いて言うならば。
「……なんとなく、かなあ?」
「なんとなく?」
「うん」
うなずく。
「ほら、わたしいつも葉月くんにつきまとってるでしょ? いつのまにか鼻がきくようになったのかも」
「犬?」
「違います」
間髪入れず切り返す。なにやら気恥ずかしさを感じて、深悠は口をつぐんだ。
きっと一月会えなかった相手に会えたのが嬉しいからだ。普段からそれほどたくさんの会話を交わしていないというのに、もっといろいろなことを話したいと思っているのに、夏期休暇のためままならなかった。突然与えられた機会は嬉しいけれど、どうしていいかわからない。きっとそうだ。
再開された花火に見入る横顔を、気づかれないように盗み見る。
つかず離れずの距離で、隣にちょこんと陣取って。
「……ここで一緒に見てていい?」
承諾の返事は、打ち上げの音にまぎれずにちゃんと耳に届いた。
曖昧な物言いに深く切り込んでこなかったのは、性分だったのか優しさだったのか。
いずれにしても、本人さえ知らなかったその芽を育てるのに一役かった出来事では、あったのかもしれない。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
この後電話で奈津美さん珠美さんに謝り倒します(笑)
そんでもって成り行きで王子に送ってもらい、尽にあきれられながら擦り傷の手当てしてもらいます(笑)
書ききれなかったけどこの日の深悠さんの服装はキャミとジーンズ、スニーカーでした。
だから全力疾走できたのだな。
仲良くないときの、ちょっとおずおずって感じの距離感話も考えるのは楽しい。
傍目からはあっけらかんと近づいてってるように見えても、実は本人けっこうびくびくものだったりねー。
王子も積極的ではありません。傷つけないように、とかは考えてるだろうけどその程度。
個人的にはこの頃の彼は喜楽だけでなく怒哀も親しい人間にしか見せないんじゃないかなって思ったり。
(よっぽど腹たったときは別だろうが)
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