なまえ





「あ、深悠ばいばーい!」
「うんまたね!」
「菅原さん、廊下を走ると危ないわ」
「見逃して〜! 急いでるの!」
「深悠ちゃん! 部活は?」
「後で行く〜!」
 放課後。
 気づかないうちにいつのまにか姿が見えなくなっていた人物を探して、菅原深悠はぱたぱたと廊下を走っていた。
 探し人はクラスメイトの葉月珪。彼は気まぐれでマイペースだ。テストの真っ最中に居眠りをかましていたかと思うと、休み時間にはふらりとどこかへ消えていたりする。友人たちに言わせれば、そんな訳のわからない男は放っておくに限る――らしいのだが、深悠は何故か珪になついてよく彼にまとわりついていた。屈託のない彼女の笑顔を、いかにもにぎやかなことが苦手な風情の珪が一体いつまで受け入れていられるのかが一時期密かな話題になっていたこともあったけれど。そして、珪のあまりの無愛想さに深悠がいつ音をあげるのかが取り沙汰されていたこともあったけれど。そんな周囲の思惑など関係なく、二人は至極順調に友情を育んでいた。
 そんなこんなで、今では深悠が珪を探して走り回る姿は特に珍しくもない日常風景として受け入れられている。
「いーなーいーなあ……」
 校舎をあらかた探し終えて、体育館へ続く渡り廊下の中ほどまで来た深悠に、ちょうど休憩に出てきた鈴鹿和馬が声をかけた。
「菅原。葉月探してるんだろ?」
「あ、うん」
「たぶんあいつ体育館の裏だと思うぜ。行ってみ」
 特につきあいがなかったとはいえ、中学から珪と一緒だった和馬にはおおよその見当はつくのだろう。こともなげにあげられた穴場に深悠は一瞬きょとんとして首を傾げ、それから笑顔になってうなずいた。
「うん、わかった。行ってみるね。ありがとう鈴鹿くん!」
「おー」
 和馬はぱたぱたと駆けてゆく深悠の後姿を微笑ましそうに一瞥してから、何事かと顔をのぞかせた珠美の肩をぽん、と叩いた。






 和馬に教えられた体育館裏。彼の言葉どおり、珪はそこにいた。角を回りこんだ途端に色素の薄い髪が陽の光を反射して深悠の目を射る。
 深悠は口を開きかけたが、ふと話し声が聞こえたような気がしてそろそろと歩をゆるめ、立ち止まった。木立が邪魔になって、珪のいる場所からはこちらは見えない。そうっとのぞきこむ。
「……こら。深悠」
「…………っ!?」
 笑い混じりのささやきが聞こえてびくりと身体が跳ねた。
 深悠、と言った?
 確かに珪の声だった。低くて、耳に心地よい。まるで恋人にささやきかけるような優しげな響きに知らず顔に血がのぼってくる。けれど、おそるおそる見やった彼の瞳はこちらを向いてはいなかった。ほう……と長い息をついて、深悠はどきどきする胸に手を当てて深呼吸した。
(し、心臓飛び出るかと思っちゃった……)
 おそらくは聞き間違いだったのだろう。だいたい、深悠は珪に名前で呼ばれたことなどない。それは彼女のほうも同様で、二人は『菅原』『葉月くん』と呼び合う仲だ。これから少しずつ近づいていければいいなと思っているのは事実なのだけれど、急ぐこともない、と思う。そうそう、用があって彼を探していたのだった。
「葉月くん」
「!?」
 呼びかけると、珪が弾かれたように顔をあげた。にこりと微笑みかけると、彼はばつが悪そうにあさっての方向に視線をそらし――そのままぼそぼそ、と口を動かした。
「…………菅原。いたのか」
「うん」
 そこで会話が途切れる。なんとなく糸口をつかめずにもじもじと黙っていると、珪は膝の上にいた仔猫を両手で目の位置まで抱き上げてみせた。
「……こいつ。ミユウっていう」
「え、あそうなの?」
 見れば、彼が抱き上げているもの以外にも、数匹の猫がミルクをなめたり寝転がったりしている。仔猫が青い目をくりくりと動かして、小さな声でみゃあ、と鳴いた。
 つまり、さきほど聞こえた「深悠」という呼びかけは、この仔猫にたいしてのものだったのだ。それがわかった今でも、まるで自分が呼びかけられたようでどきどきする。内心の動揺を押し隠して深悠は疑問に思ったことをたずねた。
「……わたしと、同じ名前なの?」
「似てるから。…………マイペースで、トロいとこ」
「あ、ひっどい! 葉月くんだって充分マイペースじゃない!」
 唇を尖らせて詰め寄る。にらんでやると、彼は珍しく勝ち誇ったような表情で深悠を見上げた。
「トロくないし、俺」
「う」
 そう言われると何も言い返せない。うーうー、とうなることしかできない彼女を面白そうにみつめながら、すっかり自分のペースを取り戻した珪は『ミユウ』を下におろした。とてとてと母親のほうに歩いてゆく仔猫。
「用……あったんじゃないのか?」
 わざわざ探しに来たのだから。言外にそう匂わされたのを感じとって、深悠はぱっと顔を上げた。そう、すっかり忘れていた。今まで大切に抱えていた数冊の本を彼の目の前に広げて、一気にまくしたてる。
「そう、探してたの! 聞きたいことがあって。あのね、葉月くんはどれがいい?」
「……?」
 緑柱石の瞳が訝しげにまたたく。それにもかまわずにばさばさと手早くページをめくる。手芸作品の見本が可愛らしく並んでいるカラー口絵がずらっと並び、珪はそれを物珍しそうにのぞきこんだ。
「今までぬいぐるみばっかり作ってたんだけど……それにも飽きてきちゃって。葉月くん、この中で何か欲しいものないかなあ?」
 人にプレゼントすると思って作るほうが楽しいでしょう?
 にこにこする深悠に見惚れ、一瞬呆けてから珪ははっと我に返った。目だけで彼女のほうを窺い、気づいた様子がないのを見てとってほっとする。
「……俺の誕生日、十月だけど……」
「誕生日じゃなくてもね。したいと思ったときにすればいいんだよ」
 照れ隠しが混じっているため、いつも以上にぶっきらぼうな対応になってしまう彼にもめげず、深悠は笑顔できっぱり言いきった。
「そ、か」
 こいつが言うならそうなんだろう、とおよそ他人が知れば卒倒するに違いないようなことを素で考えて、珪が口絵を見つめる。ぱらぱらとページをめくっていた彼の長い指が、ある箇所で止まった。
「……これ」
「ん?」
「これがいい」
 言って指差したのは猫をかたどったアイピロー。目の上に乗せるためだろう、やけに胴長に作ってあって、ちょうど今そばでのへんと身体を伸ばして寝ている仔猫にそっくりだ。
「あー……これ」
 深悠も同じことを考えたらしく、笑いをこらえながら本と猫の間に視線を行ったり来たりさせている。
「うん、わかった」
 用件は本当にそれだけだったのだろう。あっさり立ちあがってしまった深悠に一抹の寂しさを覚えて、珪は彼女を見上げた。
「……俺、昼はだいたいここにいるから」
 言ってしまってから自分でおどろく。ここはお気に入りの場所。中学のときから自分と猫たちだけで過ごして、他の人間が来ることがあっても一睨みして追い返していたのに。
 けれどそんな驚きよりも先に、ぱっと花が咲くように笑った深悠の嬉しそうな顔に、自分も嬉しくなる。言ってみて、よかったと思う。
「うん、わかった! じゃあまた明日ね、葉月くん!」
「あ」
 ばいばい、と手を振って翻した制服の腕を、珪はとっさにつかまえて引き寄せた。ふわりと鼻先を甘い香りがかすめる。白い耳元に唇をよせて、彼は低くささやいた。

「……深悠。…………また明日」

 ばさばさと本の束が落ちた。あわあわとそれらを拾い集め、深悠は振りかえりもせず駆け去っていったけれど。
 髪の間から見えた耳は真っ赤に染まっていて、珪はしばらくその場で一人笑いをかみ殺していたのだった。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
攻め王子。
うわーーーい(何)。
意味はありません。まったくありません(笑)。時期は、たぶん二年生の春くらい。

一周目、初めてファーストネームを呼ばれたのが、仔猫のイベントでした。
いーや、びびったびびった! ついでに腰も砕けた!(爆笑)
で、んだもんだからタイミング的に、「仔猫なら名前で呼べるのに本人を呼ぶ勇気が出ない…」
とかいう妄想が(ありがち)
で、「仔猫でバレちゃったから開き直って呼んでみる。照れる主人公ちゃんが見られてご満悦」
とかいう妄想も(超ありがち)