日々口にする言葉の、支配力は意外に強いもの。
 その助けを借りられるならば、それに越したことはない。
 目論見の半分はすでに成功しているけれど、残りの半分をどうしたものかと。

 無表情の仮面の下で、半分寝ているのだろうと言われながらも、実はあれこれ考えていたのだ。




すりこみ





「はー、づき、くんっ!」
 弾んだ声で呼びかけられ、珪は急いでいた足どりをゆるめて振り向いた。
 長期休暇をひかえて夏まっさかりの今日この頃。すでに時刻は黄昏どきに近づいているというのに、うだるような暑さがやわらぐ気配は微塵も感じられない。
 ぱたぱたと軽い足音を引き連れて駆けよってきた少女――深悠は、珪の真正面で急停止して、息を弾ませながらにっこりと微笑んだ。鼻の頭にはうっすら汗が浮かんでいる。どうやら昇降口から全速力で走ってきたらしい。
「ね、一緒にかえろ!」
「いいけど……」
 珪は迷うことなく即答し、それからふと思いついて問い返した。
「おまえ、部活は?」
 深悠の所属している手芸部は運動部とは異なり、合宿以外の活動に参加するかどうかは自由だ。それでもやはり基本的なスケジュールは決めていたほうが動きやすいといって、火・水・木の三曜日を部活動の日にすることにしたのだとは、いつだったか彼女自身の口から聞いたことのはずだったのだけれど。
 確か今日は水曜日。いつもならば被服室で針と糸を相手に格闘しているころではないのだろうか。軽く首をかしげると、深悠はうなずいてから校舎のほうを一瞥した。視線の先にあるのは渡り廊下でつながれた別館。被服室はその一階に位置している。
「今日は、三年生の人たちだけでミーティングなんだ。文化祭のファッションショーのお題決め。ほら、去年……わたしたちも二年生もジーンズ系で統一してたけど、三年生だけ浴衣着てたでしょう?」
「……そうだったのか?」
 珪は眉を寄せて視線を斜め上にあげた。
「あれ、葉月くんファッションショー来てたよね?」
 すでに歩き始めていた長身の横あいから、ちいさな顔がひょいと前に回る。やわらかな茶色はすぐさま元の位置に返ったが、彼はふとその残像を追いかけてしまい――かぶりを振って正面に向き直った。
「……いや。おまえの見て、すぐクラス展に戻ったから……」
「そうなの? 見ればよかったのに、なんでまた」
 それはもちろん、おまえ以外に興味がないから。そう言ってしまえるならばどれだけ楽だろうかとちらりと思う。しかしさすがにまだそこまでふっきれてはいない珪は、曖昧に口元を緩めるだけにとどめた。
「時間、ギリギリだったし」
「あ、そっか。まあそれはいいや。それでね、話戻るけど」
「ああ」
「二年生までは二学期になってからテーマ決めするんだけど、三年生は今の時期にもう話し合って決めちゃうの。難しいものに挑戦するからっていうのもあるし……あと、受験控えてる人も多いからね。夏休みに気分転換がてらやりましょうーってことらしいよ」
 夏休みの直前から被服室のちょうど真中に位置する防火扉が閉められるのだという。本来の使用目的からかけ離れているような気がしないでもないが、それはともかくとして。中をのぞくことはご法度で、その期間だけは広い教室の半分が最上級生の秘密の空間となるのだ。
 去年なんか先輩たちが浴衣つくってるって、当日まで後輩は誰も知らなかったんだよ。
 そう言って、楽しげに肩を揺らす。知らず穏やかな表情を浮かべながら、珪は懸命にしゃべりつづける深悠の横顔を眺めた。
 二人の会話は、いつもこうだ。話題を提供したり笑ったり怒ったり、忙しく話すのはもっぱら深悠のほうで、珪は質問にこたえたり相槌を打ったりするだけ。ときおりうるさくはないかなどと思いもよらないことをたずねてくることもあるのだが、彼にしてみれば深悠の声は小鳥がさえずっているようなものだ。他ならぬ彼女が雛のようにまとわりついてくるのには多少のくすぐったさを感じることこそあれど、わずらわしいとは思わない。
 話をさえぎることもせず、かといって反応を見せないわけでもなく。乗りに乗った手芸部談義はしばらく続行していたわけなのだが、珪は続く台詞にふと足を止めた。
「それでね、去年色サマが着てたドレスも何年か前の先輩がつくって演劇部に寄贈したものなんだって。演劇部の衣装ってけっこうそういうのも多いんだよ」
 ひとつばかりの単語がひっかかって、眉をひそめる。聞き間違いではなかった。
 やけに何気ない言いようだったから、あやうくそのまま流してしまうところだったけれど。
「葉月くん?」
 深悠は鋭く彼の変化をかぎとった。つられて立ち止まる。
「……………………………………色サマ?」
「え、……うん」
 きょとんとした表情。自分がどういう意図をもって問いを発したのか、きっとわかっていないのだろう。大きな瞳をくりくりと動かしてこちらをうかがう彼女を、珪は探るような目つきで見下ろした。
「……色サマ?」
 もう一度繰り返す。ようやく察したらしい深悠がああ、と両手を打ち合わせた。
「うん、色サマ。えとね、瑞希ちゃまがいつも色サマ色サマって言うから。つられちゃっていつのまにかね」
 それにけっこう色サマって呼んでる人、多いんだよ。
「……へえ」
 そういえば、二年生になってから増えた深悠の友人の中に、あの三原色もいたのだったか。たった今説明されたとおり、しょっちゅうそばで連呼されていたのであれば早々に呼び方が変わったのはうなずけないでもない。しかし、彼らが知り合ってからは確か一ヶ月かその程度しか経っていないはずで――――たったそれだけの時間で、これか。
 気に入らない。
 珪は一瞬で結論を出すと、ほえほえとのんきな笑顔のままの深悠の進路をふさぐように正面にまわった。少し、身をかがめてみる。両頬に手をそえて、のぞきこむようにして視線を合わせてみる。
「……え、と……?」
 彼女は戸惑いを隠せない様子で目の前の青年を見上げた。緑柱石の瞳は細められ、薄い唇の端には不敵な笑み。珪は不穏なものを抑えることもせず全身からたち昇らせている。
 深悠は何度も瞬きを繰り返した。
 遅れて危険信号が点滅しはじめる。逃げようとした足の動きは、首から上をがっちり固定することでもって阻まれて。
 徐々に近づいてくる、その端正な容貌から目を離すことができない。
「あ、の。……はづき、くん……?」
「珪、だろ? ……深悠」
「ははははいっ!?」
 まさに噴火する、という形容がふさわしいほどの速度と鮮やかさでもって、深悠の顔が真っ赤に染まった。
 ただ呼ばれるだけのことにも未だ慣れていないというのに、今唇をくすぐって過ぎた風は、よもや彼の吐息ではなかったか。
「あの……」
 いつもよく回る口は、饒舌ではないはずの青年の一言であっさりとその回転を封じられた。
「俺と三原、おまえと仲良しなのはどっちだ?」
「……へっ……?」
 仲良しなんて、葉月くんもずいぶんかわいらしい表現を使うんだな。
 ちらとそう思わなかったこともないのだが。




    ――――カナカナカナカナ……




 唐突に蜩の鳴き声が耳をついて、深悠はここが校庭だということを思い出した。
「はづ……はな、して。みんな、みてるよ……っ」
「べつに、かまわないだろ。……で?」
 かまわなくないです――!!
 深悠は内心で絶叫した。
 そら恐ろしいほどに魅力的な笑顔が、ぐいと近づいてきたのは気のせいだろうか。いや、違う。下校のピークをすぎて人の姿はずいぶん少なくなったとはいえ、このままでは公衆の面前で口と口をくっつけるはめになってしまう。それだけは、なんとしても避けたい。
 深悠は必死で足に力をこめた。自分でも立っていられるのが不思議なくらいにくらくらしているのに。余裕の笑顔が憎たらしい。
 四苦八苦の末なんとか搾り出せたのは、他人のもののような涙声だった。
「〜〜〜っ、はづ……き、くん、ですぅ……」
「……だよな?」
 それでもう解放してくれるかと思ったのに、瞳の距離は変わらない。緑色の鏡に、頬を真っ赤に染めて口を半開きにした、間抜けそのものの自分が映って揺れている。
 しばらくぎりぎりまで近づいていた唇は、やがて離れていった。もしかしたら一瞬だったのかもしれないけれど。狂いに狂った感覚などあてになるはずもない。
 ほっとしたのもつかの間、耳に再び風を感じて、彼女はぞくりと背筋を震わせた。
「あいつを名前で呼べるんなら……深悠」
「は……はひっ」
 力が抜けきっているくせに、直立不動になるのがおもしろい。散る朱と緊張具合に大きな満足感をおぼえて、珪は低くのどを鳴らして笑った。
「これからは、俺のことも名前で呼ぶよな?」
「……呼ぶっ! よぶからっ、はなして、くださいぃ……」
「……よし」
 彼は薄く笑うと、深悠の頬にそえていたてのひらをそっと離した。途端、がくりと操り糸が切れたかのように華奢な身体がくずおれる。座り込んでしまったのに合わせてその場に膝を折ると、深悠は両腕で自身を抱きしめて大きく息をついた。
「……もう。はづ……じゃない、けい、くん、急にどうしちゃったの?」
「べつに」
 先ほどのやりとりの中で手がかりは十分与えてやったはずなのだが、どうやら気づいていないらしい。聡いのだか鈍いのだかよくわからない少女だ。
 珪は深悠の手をひっぱって立たせてやった。ぱんぱんとスカートの土ぼこりを払うのを待って、何事もなかったかのようにくるりと校門のほうに向き直る。
「帰るぞ。……深悠」
 強調するように、最後にもう一度名前を呼んでおいてから歩き出す。
「あ、待ってよけ……い、くん」
 ぱたぱたと追いすがってくる背後の気配に意識を凝らすと、練習のつもりなのか「珪くん、珪くん、珪くん……」とぶつぶつ口の中で繰り返しているのがかすかに聞こえてきた。
 素直なものだとなかば感心しながら、けれど並んで歩く彼もやはりこみあげてくる笑いを必死でかみ殺すことに忙しくて。

 下校時偶然に彼らを目撃してしまった数人の生徒は、上機嫌な葉月珪に驚くよりもまず戦慄を覚えたとかそうでなかったとか。






 日々口にする言葉の、支配力というやつは意外に強いもの。
 ことあるごとに名前を呼んで、名前を呼ばせ。

 そうすることで、日ごと彼女の心を自分で埋め尽くしていくことができればと。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
昇降口から校門への直線上でやらかしてるわけです。
…なんてはた迷惑な!(笑)

えー、と。
ネタ的にはなんてことない、ていうか氾濫しまくりーのちっともひねりなさすぎーのお話でございました。
読んで「なーんだ」って思った人多いと思うよ…

人の呼び方ってけっこう重要です。
あだ名とかで呼ぶと仲良さそうに聞こえるし、実際そんな気がしてきて仲良くなるの早くなりますよね。
…え、そうだよね?(笑)
もう何年もつきあってる友達で未だに苗字さん付けとかもありますが、まあそれはひとえに一緒にいる時間が長いからであって。
手っ取り早く…となると、名前は有効な手段であります。
色サマと深悠がさっさと仲良くなったのも名前効果なのであります(笑)
べつに色サマは深悠さんをねらってるわけではないんですが、王子にしてみれば自分がやろうと思ってた刷り込み作業を期せずして先越されてやがったよー! みたいな?

しかしこんなことされても両思いだとまでは思えないらしい深悠さん。
王子も好かれてることには気づいてるけど、両思いだとはイマイチ自信がもてないご様子。
…いや、「どこが?」って感じだけどねえ。バカップルだなあ。
あ、普通「どっちが好きか?」じゃないのかと言われそうですが。
「どっちが仲良しか?」と聞かせたかったのです。「好きか」と聞かせるのはくっついてからに限る。
「仲良し」って…なーんかいい響きなんだよネ…(笑)