結果というものに対しては、得てして過程ときっかけがあるものだ。
 傍目にはおよそ常識にはとらわれることがないように見える彼にも、どうやらそれはあてはまることらしい。




中空の薮蛇





    ……ガタン…………ゴト……
 真っ青に晴れ渡った空の、てっぺんにごく近い場所。鈍い機械音が単調な旋律を繰り返す。動く速度も、ごくゆっくり。スピード感や浮遊感をウリにする絶叫マシーン等とくらべればいささか退屈なのではなかろうかと思える、それでも何故かどこにでも、必ずある乗り物。
 深悠は、恋人――珪との、すでに何度目なのかも忘れてしまった逢瀬をのどかな観覧車の中で迎えていた。
 会話は、ない。差し向かいの青年はどこを見ているとも知れぬぼんやりとした目つきで黙り込んでいる。ときおりかくん、かくん、と頭がかたむくのが、窓の外に向けた彼女の視界の端に映る。
「……ふふ」
 顔の向きはそのままに、深悠はくすくすと忍び笑いを洩らした。すでにつきあいは長いから、これが彼なりの安らぎの形なのだということはちゃんとわかっている。わかっているからこそ平然と笑ってすませていられるのだけれど、二人っきりの観覧車、といういかにもな状況の中で同乗している恋人が居眠りをするなどと、普通ではあまり考えられないことだ。もしかしたらそのまま喧嘩別れしてしまうカップルもあるかもしれない。珪の独特な思考に慣れていなかった初めのうちは、自分といてもおもしろくないから眠って時間をつぶそうとしているのだろうかと考えてしまったが、今ここで睡魔に襲われながらもなんとかまっすぐな姿勢を保って座っている彼を見ると、それはなんとも見当違いな心配だったのだと実感する。
 別に寝てしまってもいいのに。
 実を言うと、それが深悠の正直な気持ちだった。高校生の頃から続けていたモデルのバイトをずいぶん減らしたとはいっても、珪の睡眠時間はむしろ以前よりも削られている。余暇は銀製のアクセサリー作成に費やされているのだ。もちろん多数の人間が関わる撮影などとは違ってある程度時間の自由は利くし、だからこそ連れ立ってでかける機会も増えたわけだが、彼は昼間深悠とすごしては夜間デザイン画を描くということを毎日繰り返しているらしい。以前など、明け方近くにメールが入っていておどろいたことがある。
 自分と会うために無理なんてして欲しくない。そう訴えても、珪はいつもはぴんと張っている頬をあたたかな色にゆるませて首を振るだけだった。
『……俺、今すごく幸せだから』
 そう言って。
 昼間恋人と過ごす。夜は、ただひたすら好きなことに没頭する。いつか氷室にたずねられたとおり"眠ければ寝る"というのが彼の信条だが、ときにそれを忘れてしまうほどに、いろいろなものに縛られていた高校時代よりもはるかに自由で充実しているのだと。
 真顔で言いきるものだから、反論の余地がない。
 彼のそんな生活と内心を知っているからこそ、深悠にとっては逆に珪が自分のそばで休息をとっている姿を見ると安心できるのだけれど。
 深悠は横目でこっそり珪の様子を窺った。
 ……だいぶ眠そうだ。
 先ほどからこいでいた舟がぴたりと止まった。どうやらいいあんばいに頭を安定させられる位置をみつけてしまったらしい。
 こうなるともう駄目だ。いくら本人が寝たくないと思っていても、身体が勝手に睡眠へと移行する。
 かすかに震えていたまつげが、ついにぴたりと閉ざされた。
(ようっし!)
 心の中で喝采を叫び、深悠は窓の外に向けていた顔を正面に、珪のほうに戻した。心もち姿勢を低めにして、上半身だけ乗り出す。ごく近くまで、顔を近づける。
「……はぁ……」
 思わずため息が洩れた。
 なまじ端正な顔立ちをしているせいで、珪は人をよせつけない、冷たい印象に見られがちだ。それは多数の視線にさらされることが好きではないにも関わらず、状況のほうが逃げることを許してくれなかった経緯も原因にあるのかもしれないけれど。
 眠っているときだけはすべての緊張から解放されてただ無垢な素顔をさらす。そんな顔が見られるから、たとえ話はできなくても一緒にいるだけで満足だと思ってしまうのだ。
 深悠はそろそろと珪の隣に移動すると、やんわりと彼の肩を抱きこんで自分のほうに引き寄せた。無意識にか珪のほうも慣れたもので、ごくすんなり膝に頭を預けてくる。色素の薄い髪がやわらかくこぼれて光を弾き、彼女はこみあげる笑みが笑い声に変わってしまわないように気を付けながら、なんの気なしに顔をあげた。
 次の瞬間。
 深悠は、ぱっと口許を抑えてあげたばかりの顔を下に向けた。
(……なに……今の……?)
 あまりに突然な事態に、頬に血が昇ってくるのがわかる。みるみるうちに顔全体が熱くなる。
 先をゆくゴンドラ。ちょうど正面になったそれは、顔をあげた拍子に中の様子がはっきりと見える角度で揺れていた。先客は男女の二人連れ。年は自分たちとそう変わらないように見える。ぴたりと寄り添って、周りのほうが恥ずかしくなるような熱烈な抱擁を交わす、その姿が。
 一気に彼女を混乱の淵へと叩き落した。
 見られていることに気づいているのか、いないのか。
 こっ、こんな、誰が見てるかわからない場所で……!
 深悠はいるはずのないギャラリーを気にしてあたふたとあたりを見まわした。もちろん彼女が慌てたところで何もならないのだが、おとなしく座っているだけなんて到底できそうにない。
 動揺がダイレクトに伝わったのか、膝の上にある珪の頭がもそもそと動いた。まずい、と思う間もなくむくりと起きあがる体躯。
「……深悠? どうした?」
 いつのまにか自分が膝枕されていたということは気にもしていないらしい。寝起きのぼんやりとした瞳が純粋な疑問の色を浮かべて揺れている。
「……っと、……っ、あぅ……」
 深悠は意味もなく両の手をにぎりしめた。珪の会話のテンポは独特だ。いつも返答を急がせることはない。しかし、顔を赤くしたり青くしたりしながらただただちいさなこぶしを震わせることしかできない深悠に、彼は聞いても無駄だと悟ったようだ。
 そらしたくてもそらせない、釘づけの視線を追って振り返る。
「……なるほど」
 そうして彼は、得心がいったようにうなずいた。これは彼女には少々刺激が強いかもしれないなどと思いながら。
 一方の深悠は、今すぐゴンドラの床に穴を掘って隠れてしまいたい衝動に駆られて、反対側の座席でちいさくなっていた。これでは出歯亀だ。いたたまれない。そんな彼女の思いも知らず、珪は眉ひとつ動かさずに再びカップルをちらりと一瞥し、「ふうん……」と一声つぶやいて無感動な瞳で彼女を見返した。
「あ、あのっ、ね! 見たくて見たわけじゃないのっ! ほんとだよっ!?」
 無駄なのはわかっているが、一応主張してみる。珪はあっさり首肯した。
「ああ、わかってる」
「じゃあなんで笑ってるのーっ!?」
 くつくつと引きつったような声まで洩らして。深悠は耳まで真っ赤になって眼前で肩を震わせる青年をにらみつけた。
 そう、これは笑いをこらえているとき独特の声だ。初めて聞いたときは笑ってくれたのが嬉しくて仕方がなかったということを覚えているけれど、今はひたすら恥ずかしい。ぷっと頬をふくらませると、珪はなだめるように深悠の肩をたたいて彼女のほうに身を乗り出した。
 ふっと目の前が暗くなる。
「…………いや。こういう使い方もあったな、って……」
「つつつ使い方!?」
 何やら不敵な笑みを浮かべつつ迫りくる一対の緑柱石。深悠はぐちゃぐちゃの思考をたてなおそうと必死に首を振った。
 だいたい使い方ってなんなの観覧車っていうのは乗り物だよねだから使うってんじゃなくて乗るって言うべきでいやそんな細かい表現どうでもいいのかもしれないいやまあそれはいいんだけどだいたいなんでこんなことになってるの珪くん眠いんじゃなかったのああでもこの顔はもうすっかり目が覚めてるししかもなんだかすごく生き生きしてるのはどうしてなんだろう楽しいのもしかしてそう楽しいんだねそれはわたしもうれしいけどとてつもない危機感を感じるのはどうしてなんだろうわたしの錯覚いやそんなことないたぶんこの状況はやばいよねだって
「……深悠……」
 耳元で吐息混じりにささやかれ、深悠はぞくりと背筋を震わせた。瞳をそらすことができない。深く深く、こころの奥底をも絡めとるかのようなまなざし。
 嫌じゃないけれど。けれど、自分には刺激が強すぎる。耳から、頬に。頬から、唇に。風が移動する。
「……んっ……!」
 移動してきた風は案の定唇の中に入りこんできて、その甘い味に酔いしれる。目を閉じているのにちかちかする視界がなんだか奇妙で不思議で、一瞬だけそちらに気を取られかけたけれど。
 ここは、れっきとした公共の場だ。そのことを思い出して、深悠は必死で覆い被さってくる胸を押し返した。
「ん、ちょっ、珪く……!」
「暴れたら、ゴンドラ落ちるかもな」
 瞬時にぴたりと固まる細身の身体。もちろん方便だけれど、説得力皆無だとも思わない。実際観覧車の骨組とゴンドラをつないでいるのは数本の鉄骨だけだ。「落ちないよね?」とでも言わんばかりにおそるおそる自分のほうをうかがう深悠が可愛らしくて、珪はのどを鳴らして笑い、彼女のやわらかな髪をかきわけて肩口に顔をうずめた。
「……だから、おとなしくしといたほうがいいと思う」
 首筋に、鼻先がこすりつけられる。同時に得体の知れない感覚が全身を走って。
「やっ……!」
 くすぐったさを訴えて身をよじっても、がっちりと回された腕ははずれてくれない。
 二人がいるのは臨海公園が誇る大観覧車のゴンドラの中。地表はまだまだ、はるかに遠い。
 この天国のような地獄のような、奇妙な時間はどれだけ続くのだろうか。






 十数分後。
 無表情ながらやけに満足そうな気配をまとった青年と、真っ赤になった手を彼にひかれながらまろぶように出てきた少女と。
 観覧車係員は、そんな二人の背中に勘ぐるでもなくただ愛想よく見送りの言葉をかけた。
 ……よくあること、らしい。
 どうやら。






 いつもどおりならば、うとうとしてそれで終わりだったはずの時間なのに。
 あのカップルさえいなければと、きっかけさえなければと、深悠はよく回らない頭でそればかり考えていたのだった。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
書きながら思っていたこと。
「ゴンドラの床に穴掘ったら落ちるだろ」
……いえ。まあ。

どっちの観覧車だったかは忘れましたが、デートのときの選択肢に「後ろのカップルすごかったね」
ってのがあるじゃないですか。
趣味悪いってたしなめられて終わりだけど…見るつもりなくても視界に入ってくることはあるわけで。
まあラッブラブ〜v状態になれば、王子は主人公ちゃんが何言っても好意的な解釈しそうですが(笑)
で、触発されるのでした。薮蛇って使い方が違うけど、でもなんとなくこんな題名。
「要らんわ!」みたいなトコが似てるかもと思って。
ちゃんちゃん。