目下の懸案事項は長期休みに入る前に解決できた。
 穏やかな気持ちで新学期を迎えて、それから数日経ったある日のお話。




予防線





「はよ、葉月」
「……はよ……」
 教室を入ったところで端の席に座っていた生徒に声をかけられ、珪はちいさいながらもしっかりした声で挨拶を返した。
 相変わらずの無愛想にも以前のように怯むことなく、声をかけた生徒は軽く笑ってかたわらの友人と雑談を再開する。それからも数人と挨拶だけをかわしながら、自分の席へと向かう。背負っていたナップザックをどさりと下ろして、彼は肩の力を抜いてふっと一息ついた。すぐ後ろではボイラーが暖かな空気を吐き出しながらも地響きのような音をたてている。
 珪は朝のさわさわとしたざわめきを不快に思うでもなく、ごく近くに感じながら椅子に腰を下ろした。なんだかくすぐったいような不思議な気分だ。さきほどのやり取りも他の人間にとってはなんでもない日常の瑣末事だが、彼にとってはそうではない。高等部にあがったときには今の自分の姿など想像すらできなかったものだ。何の変化もなく始まった高校生活のはずが、いつからか周りの視線は少しずつ好意的になり始めていたのがなんとなくわかる。
 もちろん、原因は単純明快。春からなにかと彼にまとわりついている、菅原深悠の影響だった。
 人懐こい笑顔で、ときにはうるさいと形容してしまってもいいほどに無邪気であけすけな彼女の振る舞いを、級友たちははらはらしながら見守っていた。いつ珪の堪忍袋の尾が切れるのかと、ひそかに賭けまで行われていた始末だったというのに。
 戸惑いながらも邪険にできず、たどたどしく少女の相手をするさまは微笑ましく映ったらしい。未だ挨拶以上のことを彼に望むものはいないが、それでも珪は以前とは比べものにならないほど自然に『学校』という場に溶け込めつつあった。
 不思議なものだ。
 彼の心も、周囲からの受け取られかたも、ありとあらゆる変化のすべてを、彼女が連れてやってきた。
 そこまで考えて、珪はふと顔を上げた。そういえば、今朝はまだ深悠の声を聞いていない。いつもなら教室に入って最初に聞くのは彼女のそれであるはずなのだけれど。
 見まわすまでもなく深悠の姿はすぐにみつかった。窓際の席で、例によって数人の友人と一緒にかたまっている。女というやつはどうして群れたがるのだろう。永遠の謎だ。けれど、あれだけの人数が集まっているというのにやけに静かな気もする。女三人寄ればかしましいとはよく言ったもので、それは彼女たちにも当てはまることだというのに。人垣の間から垣間見える頭をじっと凝視していると、やがて一人が珪に気づいてわずかに眉を険しくし、それからちょいちょいと手招きをした。
 こちらに来い、と言っているのだろうか。
 なんとはなしに足音をたてないように近づくと、囲まれていても深悠の顔は難なく見えた。少女たちの身長などたかが知れたもの。頭ひとつぶん大きな珪の視界を遮ることのできるものなど存在しない。
「……菅原?」
 上からのぞきこむようにして降ってきた声に、深悠は過敏に反応してにぎりしめていた手を机にぶつけた。
「あいたっ!」
「…………バカ……」
 つぶやきかけてから、目を見開く。意識の端に赤いものがひっかかった。彼の変化を目ざとく見て取った深悠が慌てて机の下に手を引っ込めようとしたが、珪のほうが一瞬早かった。
 あてがわれていた淡い空色の布――おそらくハンカチのなれの果てだろう、要所要所の柄は汚れて見えなくなってしまっている。それを無理やり奪い取ると、木製の机に赤黒い血液がぼたぼたと落ちた。
「……っ!」
「なんだ、これ……」
 知られてしまったゆえか痛みゆえか、どちらなのかはわからなかったが、深悠が顔を歪める。細い指が無残に切り裂かれたさまに、珪の胸までずきずきと痛んだ。自分のハンカチも取り出して、もう一度注意深く彼女の手を包みこむ。
「……どうしてだ?」
 いつもよりも数段低い、まるで地を這うような声に今更ながら深い怒りを自覚する。じわじわと、どす黒いものが心を支配していくのがわかった。そもそもここまで深い切り傷を負ってしまった原因は何なのか。ちらりと見ただけだったが、間違いなく刃物でできた傷だ。調理実習や美術の時間だったというならともかく、朝の、登校直後の教室でこんな事態などあり得ることなのだろうか。そうであれば理由はおそらくひとつきり。確信を伴って促すようにみつめても、彼女は唇をかみしめてうつむいたまま何も言わない。
 珪は痺れを切らして周囲で黙している少女たちを見まわした。にらむような鋭い目つきは彼女たちを萎縮させてしまうだけだということはわかっていたが、この状況で表情など作れようはずもない。そんな中、一人だけ臆する様子もなく肩をすくめたものもいた。やかましくておせっかいで、そのくせ度胸だけはやけにあるらしい深悠の友人。奈津実だ。
 目だけで問いかけると、奈津実は瞳に剣呑な光を宿して手に持った封筒をひらひら振ってみせた。彼女も腹に据えかねているらしい。深悠の咎めるような視線も無視してそのまま伸ばされた手に封筒を手渡す。
 カサ、という音とともに赤いしみのついた便箋が滑り出てきた。
「……これ」
「剃刀入り、ってね」
 刃はもう捨てたけどね。
 そう言うと、奈津実はそのまま動かなくなった珪から血染めの便箋を取り返して封筒に入れなおした。妙なところで律儀なものだ。
「っんとに、インケンなんだから! こんなことしたってなんになるわけでもないのにさ」
 腹立たしげにうなる奈津実に友人たちも仏頂面でうなずく。珠美などわずかに青ざめた頬をしていて、まるで彼女自身が悪意を受けたかのような顔だ。
 さすがにからりと笑い飛ばすことはできないのだろう。けれど、深悠は弱々しくもあくまで微笑んでみせた。
「だいじょうぶだよ……騒ぐから、むこうもむきになるんだと思う。無視してればそのうちなくなるよ」
「そう言ってもう半年経つでしょうがーッ!」
 きいきいとわめきたてる奈津実の声はいつにも増してすさまじい音量だ。けれど、彼女が深悠のために怒っているのだと思うと不思議とわずらわしくは感じられなかった。むしろ、ここまであからさまな嫌がらせをされておいて笑っていられる深悠のほうがわからない。
 どうして笑っていられる? 心の中で舌打ちをする。いくら案じてくれる相手がいるからとはいっても、見えないところからぶつけられる悪意は相当恐ろしいもののはずだ。誰になんと思われようとかまわないなどとうそぶいて、その通り心を波立たせることを忘れてしまっていた自分とは異なり、憎まれることなど慣れていないはずのこの少女が。
 珪は苛ついて乱暴に彼女の腕を取った。
「は、葉月くん?」
「……保健室。行くぞ」
 そのままひっぱって無理やり立ちあがらせ、教室の戸口に向かって歩き出す。抵抗するように反対側に働く力は彼の歩みを止められるほどのものではない。
「あの、葉月くん……予鈴、なっちゃったし。押さえてれば血は止まるだろうし……」
 おどおどと言いかけた台詞は、背後から飛んできた声に遮られた。
「だーいじょーぶ、センセにはアタシたちが言っといてあげるから! 葉月!」
 無言で振りかえる珪に、奈津実がひらひらと手を振る。
 用があるなら早くしろとでも言いたげな彼に、彼女はおもしろがっているような目をして口の端をあげた。
「学食のBランチ! ……で、ど?」
「な、奈津実?」
 深悠はうろたえて二人の顔を見比べた。
 奈津実の要求の意図が見えない。珪とて同じだろう。無視して踵を返すものだとばかり思っていたのに、次の瞬間彼が薄い笑みとともに発した台詞はさらに訳のわからないものだった。
「……プリン、つける」
「……葉月くん?」
 探るような深悠の言葉尻に、さらに奈津実のそれが重なる。
「おおっ、太っ腹じゃないダンナー! まかせて、いい感じに脚色しとくからねーっ」
 脚色って何!?
 内心で絶叫した深悠をよそに、珪はすたすたと歩き始める。ひっぱられれば、足を動かすしかない。始業ぎりぎりで走るように廊下をゆく生徒たちの怪訝そうな視線が痛かったが、それよりなによりさきほどの二人のやりとりのほうが気になった。
「あ、あの……葉月くん……」
 呼びかけても、無視されるばかり。
 いったいこれから、何が起こるというのだろうか。
 二人のことだから悪いようにはしないのだろうが、何故だか不安な気持ちがむくむくと育ってゆくのを抑えることができなかった。






 結局珪手ずからの念入りな手当てのおかげで、教室に戻ることができたのは二限目の直前だった。まるまる半刻ほど帰ってこなかった二人が無責任な憶測の的になることは、珪と奈津実にはわかっていたのだろう。
 それから数日後。学園内には珪が深悠が傷つけられたことに激怒した、という噂がまことしやかに流れていた。表面上はどうあれ、彼が心底から腹を立てたのは事実で。奈津実やその他友人によって適度に脚色された噂話は、それからも少しずつ拡大解釈されながら広まっていくことになる。
 そのおかげか嫌がらせの頻度はずいぶん低くなり、その点ではストレスの原因はなくなったと言えたのだろうけれど。
 同時に深悠の名は学園に知れ渡ってしまうことになって。
 安心していいのやら逆に恐ろしいと思えばいいのやら、つまりは自分でもどちらととればよいのかわかったものではない――なんとも複雑な気分でもって、彼女は一年次最後の学期をすごすことになったのだった。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
王子の鞄は黒いナップザック希望。あの、ちょっと値段高めのでかくてごてごてロープやらメッシュやらついてるやつ…(だから何)

「近づく」の後日談、でした。
最初はこれだけ書くつもりだったんだけど、どうにもそれだと心理描写とかできんだろうなーと思って。
思ったとおり、この話にはそっちのほうの描写はほとんど入れられませんでした。
つか淡々としすぎ…(笑) 盛り上がりも何もあったもんじゃないですなあ。
「近づく」の一話目で奈津実ちゃんが深悠に来た手紙を開封してたのはこういう訳です。
前にもこういうことがあって、それ以来とろい深悠に代わって周りが気をつけてあげてたのだけど(世話焼けるやつだなオイ)
休み明けっちうことで深悠が油断してたんですねー(笑)

王子はアイドル様(つかまさに偶像…)なので、嫌がらせは絶対されるだろなーとか考えててできた話。
噂が予防線になり得なくて逆に煽ることになるかもしれないなーとも思うんですけど…
「バレなきゃいいのよ」的考えの人もいるだろうし、微妙っちゃ微妙ですな。
要はね、策略王子と奈津実ちゃんが書きたかったのだ…決して仲良しではないだろうに(笑)
アレでしょ、言わば「俺のもの宣言」なわけで。
予防線であると同時に男への牽制でもあるのだらう…こうしてじわじわと確実に手に入れてゆくのだよ。
策略王子。…つーか姑息?(笑)