牛歩
久しぶりに訪れたポートロザリアは相も変わらず潮の香りが濃く漂い、それなりに穏やかに、平和そうに見えた。
いや、事実平和なのだろう。海鳥が暢気に上空を舞い、子どもたちは歓声をあげて走りまわる。市で話しこむ主婦たちの口の端に昇るのは他愛ない世間話の域を出ず、黒ずんだ煙突から吐き出されているのは食事の支度以外の何ものをも連想させることのないかぐわしい香りだ。
ラクウェルは広場の高台から、懐かしい気持ちで辺りを見渡した。
初めてこの街に来た時は一人だった。次に訪れたときは総勢四名、にぎやかな道行だった。
今は二人。どういう運命の悪戯か、第一印象では一番にいけ好かないと思ったはずの青年と意気投合し、ともに在る。
感慨深いのは彼も同じなのだろう。広場の端、木の柵にこしかけて、言葉もなく視線を遠くに向けている。少し頭を傾ければ水平線に接した太陽が見えた。目を焼くような、それでいてひどく美しい紅い光を放ちながら沈んでゆく。日の出や日没のとき、太陽は目視で確認できるほど急いで動くのだ。完全に隠れてしまってもしばらくは暗くならない。闇の帳が橙を染め替えるにはいま少しの時間が必要になるのだろう。
「アルノー、そろそろ行かねば」
ラクウェルはもたれていた柵から身を起こして隣を振り仰いだ。もう夕食どきだ、さすがに宿に向かわねばならない。つい先ほど到着して目的もなく歩き回り、思い出に浸ってみたりもしたけれど。ハリムを出てきて以来野営続きだったから、そろそろやわらかな寝床が恋しくなってきているのだ。旅の埃を落とす手段が海水だったというのもなかなかに厳しかった。そも水すら満足に手に入らない環境があり得ることを思えば贅沢なのかもしれないが。腹も心も満たされた上で清潔なシーツの中に埋もれる。これ以上の幸せはない。
「そうだな」
うなずいて身軽に飛び降りたアルノーが、柵に手をかけて下をのぞきこむ。彼はラクウェルを振り返ると、親指で階下の扉を示してみせた。
「もうそこでいいよな?」
「ああ。最初からそのつもりだったのだろう」
港町の潮風亭は、料理の評判はともかくとして立地がよく、料金も手ごろだ。顔なじみがいるという気安さもある。訪れた回数こそ少ないものの、傍若無人な輩から救い出してくれたということで従業員の少女はしっかりと一行の顔を記憶していた。さすがに割引までは期待できないかもしれないが――安かろう早かろうで、アルノーの驚異的な胃袋を満たしてくれる要素にも事欠かない。
まったくどちらかといえば細身に分類されるのだろうに、あの食欲はどこから出てくるのだろう。一般的に魔術を行使する人間はエネルギー消費が激しいと聞く。アルノー以外の魔術師と長い間一緒にいたことはないから比べようはないのだが、それにしても常人離れしすぎているのではないか。広義では同類に分類されるパラディエンヌの術を操っていたユウリィも、食べる量はごく普通の少女と変わらなかったような気がする。内実旅の資金に困った経験はない。だが、節約するに越したことはないわけで、そうなるとやはり野営でなくとも食事だけは自炊したほうがいいのか。いやしかし、いくら美味しくいただいてくれるとはいえでたらめな調味料の使い方をした料理をそうそう頻繁に食べさせて身体にいいとも思えないし――しかし指南役がいない時点で自分の料理の腕前が向上する速度は非常に遅くなるであろうことは疑いようがないわけで、ああ。
危なげない足取りで階段を下りる。見つめているのは地面だが、不自由があるわけでもない。顔の横を流れる潮風に髪が踊っても、それはなんら特別なことではないのだ。
ラクウェルが手を引かれていたことに気づいたのは、簡素な二人部屋の扉が閉まった瞬間だった。
「……む?」
「へ? なに?」
ごく自然な動作で手を離し、アルノーが南向きの窓を開け放つ。見回すと、人ひとり間に入れるくらいのスペースを置いて寝台がふたつ、配置されていた。壁にはちいさな鏡がひとつ。主の気遣いか、可愛らしい黄色の花が描かれた絵もかけられていた。戦争で著しく荒廃してしまったファルガイアには花が少ない。森深いハリムや、密林の広がっていたギャラボベーロ周辺はともかくとして、ポートロザリアで見られる植物といえばせいぜいが芝とススキくらいのものだ。図鑑ではなく実物の花を、間近でたくさん見られた自分は幸せなのだろう……って、そうではなくて。
「あ、相部屋か?」
考えに沈んでいたせいで、実際案内されるまでまったく気がつかなかった。
「一応聞いたし、おまえもうなずいたんだが……上の空だったか」
アルノーが苦笑して肩をすくめる。
顔を見てしまうともう駄目だ。ラクウェルは頬が熱くなるのを自覚しながら、他になすすべもなくうつむいた。
そういえば二人きりで宿に入るのは初めてだったか。野営のときは魔獣の襲撃を警戒するばかりでそちらのほうにはとんと思考が向かわなかった。だから半ば忘れていたのだ。
四人のときは全員で一部屋とるか、男女分かれて相部屋になれば済んだ。だが、今この状況でそれぞれに部屋を取るのは確かにナンセンスなのかもしれない――なにせ料金が倍近くに跳ね上がる。宿としては、ひとつの部屋に何人を押し込めるかが儲けを取る鍵のひとつになるのであるからして。そう思ったからこそ、アルノーも一部屋にするにとどめたのだろうからして。
大丈夫、この鈍感男にやましい考えなどあろうはずもない。本当に隠したいことは巧く煙に巻いてしまう男だが、嘘がうまいということではないのだ。いや、しかし、そういえばこいつにとって『それ』はやましいものに分類されているのか? そうでなければ態度が変わらないのもうなずけようというもの。朗らかにあけっぴろげに好意を表現し、さして悩む素振りも見せず触れてくるのは果たして――
「……やっぱ別々にするか」
言って踵を返しかけた彼の袖を、ラクウェルは半ば反射的に捕まえた。
「ちょっ……待て! 余計な出費をするつもりか!」
「いや、でもよ。宿ってのはゆっくり休めるのが利点だろ? そんな赤くなったり青くなったりして、かえって寝不足になったらどうするんだおまえ」
「しかし」
「顔に書いてあるぞ。“襲われたらどうしよう”って」
「……ッ……!」
なんとも直接的な表現だ。絶句した気配が伝わったのだろう。それでも、返ってきたのはあくまで優しげな苦笑だった。軽く押し戻されて、逆にすがりつく。誤解だけはされたくなかった。
本当に、ほんとうにすきなのだ。自分の中で押しとどめるものがある。そのしがらみを破れたなら、どんなにか幸せだろうと思う。けれど。
ふっ、と吐息が耳を掠めた。笑ったのか、それともため息だったのか。
「ラクウェル」
「? アルノ……っ」
確かめる間もなく翠緑の瞳が迫る。まぶたを閉じるしかなかった。引き結んだ唇を促すようにちょんちょんと触れる柔らかな感触は、誘惑以外の何ものでもない。根負けして力を抜けば、しっとりと熱いものがすべりこんできた。今では正体を知っている。最初はただただ混乱して、されるがままだったけれど。いや、今でもされるがままなのは変わらないのだけれど。
「…………っ、ふ……」
絡めとられ、探られて、吸い上げられる。執拗な口づけに意識ごとさらわれそうになる。角度を変えて貪るように与えられるそれは、長いこと続いた。吹き込まれる呼気で、かろうじて息を繋ぐ。湿った物音がやけに遠くで聞こえる。銀の糸が伸びるのもかまわずに、彼は華奢な肩口に顔をうずめた。
ちりり、と甘い痛みが走った。
「っ……!」
ラクウェルは身をよじった。
本能が警告を送ってくる。このままでは神経が焼き切れてしまう。しかしアルノーが止まる気配もない。他人を気遣うのが得意なはずの青年が我を忘れて没頭してくれるのは泣きたくなるほど嬉しいけれど、このままでは。
駄目だ。
駄目だ、駄目だ。
彼女は身体を離すことをあきらめ、逆に力いっぱいアルノーに抱きついた。純粋に力比べをしたことはないが、腕力には自信がある。動きをさまたげることはできるはずだった。そうでなくとも、彼を正気づかせる程度には。
白いジャケットをひっかけた肩が、傍目にもわかるほどびくりと震えた。
「……あ……?」
「大丈夫か?」
下からのぞきこむようにして顔を近づける。澄んだ緑の瞳が、まだ頬を染めたままのラクウェルを映して頼りなく揺れていた。歪んで、細められ――崩れ落ちるように座り込むのを追って、彼女もまた腰を折った。
「アルノー。大丈夫か?」
重ねて問うても返事は返ってこなかった。ただ彼はうなずきかけ、ゆるく首を振り、もう一度うなずいてから深く深く長い息をついた。
「すまん」
「……いや」
謝罪に短く否定の言葉を送る。べつに謝られる筋合いはないのだ。あの長いような短いような時間ラクウェルを包んでいたのは、戸惑いと比して大きすぎるほどの幸福感だった。一応のこと気持ちも通じ合っているのだし、すでに自身のことに責任の持てる年齢になっている二人なのだ、問題があるわけではない。
あるとすればただひとつ、そこを踏み越えるだけの踏ん切りがついているかどうかということだけであって。
アルノーは途方に暮れたような表情で笑った。
「怖がらせるつもりはなかった」
「ああ」
「無理強いするつもりもなかった」
「わかっている」
「……途中で、やめるつもりだったんだ。ほんとうだぞ」
「疑ってなどいないさ」
軽く肩をたたく。長身がちんまりと床に座り込んでいる光景は、滑稽なものに見えるのかもしれなかった。おまけに二人して余韻冷めやらず、微妙に赤面している。
「やっぱり別にしてもらおう、な? 俺自信なくなってきた」
「…………だから待てと言っている」
のろのろと動いていた手はあっさり捕まった。反動を利用して立ち上がり、ラクウェルは視界に落ちかかってきた髪をかきあげようとして、やめた。まともに顔を見ることはできない。こちらのほうが都合がいい。
アルノーに触れられるのを厭わしいなどと感じたことはない。そんな最低限のことさえ伝わっているかどうかわからないのが、なんとも歯がゆかった。
恥ずかしい。未だ慣れない。そして何より、すべてを暴かれることによって自分が彼の中に何をもたらすのかが恐ろしい。
「……兎にも角にも、今は猶予が欲しい。それだけなのだ」
不安はいつの日にか払拭されるのかもしれない。そうでないのかもしれない。時間さえおけば解決するような類の問題ではないのかもしれない。
受け入れて欲しい。けれど今はまだ、何もかもをさらけ出すことはできない。
触れて欲しい。けれどおそらく、今の自分では彼の望むものすべてを返すことはできない。
できない尽くしで、だけど離れるのは嫌だ――――
ひどい我侭だ。誰かに甘えるなど永遠にないと思っていたのに、いつのまにこれほど欲張りになってしまったのか。
「……それじゃ」
ふわりとやわらかく抱き寄せられて、ラクウェルは瞳を閉じた。じんわりと伝わってくるぬくもりが心地よい。熱情ではなく、もっと単純な。胸に頬を摺り寄せると、背中に腕がまわされる。閉じこめるような力強さはない。あるのは、包み込まれるような安心感だけ。なんだかんだで、やっぱり触れ合えるのは嬉しいのだ。
「こういうのは?」
「……嬉しい」
たまには素直にうなずいてみるのもいいだろう。
「そうか。なら……しばらくは添い寝が続くわけだ」
「何故そうなる」
容赦なく突っ込んでやったのに、アルノーは悪びれもせず答えた。
「だって慣れないことにはなあ。要するにそういうことだろ?」
背中にまわした手で菜の花色のマフラーを引っぱる。彼は初めのうちこそ力に逆らわず首をのけぞらせていたが、やがて余裕もなくなってきて両の手をじたばたさせ始めた。
「痛い痛い痛い、ラクウェルさん痛い」
「なんだ、強情を張るからもっと耐えられるのかと思ってしまったではないか」
「いや我慢大会じゃないから」
声に笑みが混じってしまうのはいつものことだ。気配を察してか、たったさっきまで情けないとさえ言える顔で落ち込んでいたくせに、言葉尻が弾んでいる。
「……仕方がないか」
つぶやいて、ラクウェルは口許を緩ませた。拒否しても、どうせなし崩しに似たような状況になってしまうのだろう。夜半に凍えて目を覚ます、それは昔から幾度となく経験してきた言わば日常茶飯事だが、悲しく同時に煩わしくてたまらなかった。そして、何も知らなかった頃ならばともかく、打ち明けた今となってはどれほど気配を殺したとしても彼は気づいてしまう。寒いならそう言えと、唇を尖らせながら抱きしめてくるに違いないのだ。感情は複雑に絡み合い、お互い正しく理解している部分があって、そうでない部分もある。自分自身ですら把握できていないのだから無理もないけれど。重要なのはそこではないから。
恋人の腕の中でまどろむ。一人で放り出されるなどと想像もしていなかった少女の時分には、憧れていたこともあった。
そういうのも悪くない。おそらくは同時に浮かんだ台詞を口には出さずに、まるで秘密を共有するような心持ちで目を合わせて、笑う。
その夜はひさしぶりに安らいだ気分で眠ることができた。
夢すら、みなかった。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
えーとすいません。ちょっとエロい?
牛歩のごとくのったりゆったりな進展具合を望んで(実際はめさ早いわけですがー)
添い寝開始編でした。
アルノー何一人で盛ってるんですか。そんでもってラクウェルはラクウェルで思考があっちこっちに飛びすぎです。
考え込み始めると横道にそれていくのか…それる余裕があるあたりどうにもこうにも、ですな。
このひとたち自分でも把握できてないんですよ。とりあえず相手が好きだっちゅーことと、相手の感情を優先させたいちゅことだけ念頭に置いて、暴走してみたり妄想してみたり混乱しているわけです。
アルノーはそのうち段々整理ついてきて、ラクウェルの体調のことが大きくなってきて、勢いだけで手が出せなくなって悶々として(笑)
ラクウェルは多分混乱をひきずりつつギリギリまでいるのではないかと。
もーいちゃつきたくてたまらないアルノー。ヤツはだきつき魔でキス魔で笑顔ひとつでラクウェルを骨抜き。「魔」を抜いて、逆もまた然り(笑)
しかしこれをアルノー視点で書くともっと収拾のつかない思考を展開してくれそうで怖いですな。
(2005.06.27)
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