町の中心部から少しだけ離れた食堂。
 目に馴染んだ薄暗さの中で、アルノーは一人黙々とグラスを磨いていた。
 まだ昼下がりで、客の姿はない。一応のこと明るいうちから夜半まで営業しているのだが、この町の人々は何故か夕方にならないと姿を現さないのだ。
 人口は決して多くはないけれど、ファルガイアの現状を鑑みれば共同体として充分な大きさは有している。当然住んでいるのは家族ばかりではなく、独身男やなんとなく居ついた流れ者もいる。それなのに、昼時すら来ないとは何故だろう。暗くなればこの静けさが嘘のように賑わい、酒をかっくらう男ども――女子どもも皆無ではない――ばかりになるというのに。
 まあ、悪いことばかりではない。息をついてグラスを下ろす。
 要するに、昼間の時間は好きに使えるということだ。突発事態にも対処はしやすい。
 ――今から起こるであろうことが、果たして突発的なのかどうかは別としても。
 どどどどど、という擬音がふさわしいような気がした。遠くから響いてきたそれはやがて近づき、戸口の前で急に止まった。
 となれば、次に起こることは決まっている。壊れるのではないかと思うほどの勢いで扉が開く。
 隙間から、明るい茶色をしたおさげがぴょこんとのぞいた。
「おとうさんっ!」
「おう、お帰り。なんだなんだ、あんまり急ぐと転ぶぞ」
 顔を出したのは、今年で八歳になる彼の娘だ。どうも性格は父親に似たらしく、普段から騒がしいことこのうえないのだが――今日は輪をかけて動作が忙しい。いつも教会が主催する教室に通い、昼時になるとこうして帰ってきて、一緒に食事をとる。そしてまた出て行く。だから今帰ってくること自体は珍しいことでも何でもないのだけれど、こんなに息を弾ませているのはどうしてだろうか。
 彼女は疲れなどまるで感じさせない足取りでカウンターまで近寄ってきて、にしゃっと笑った。
「おとうさん。……今日は、昼までなの」
「あ? ああ、そういやそうだったっけ。昼飯の後どうするんだ? 友達のトコに行くのか?」
「ううん」
 首を振り、磨き上げたグラスを綺麗に並べ始める。まだちいさいのによく働く娘だ。なんとなくしみじみしながら、アルノーはわが子の次の言葉を待った。
「おかあさんの三番目、みつけたよ。だから今日のお昼ごはんはあそこに行こう」
「おいおい、もうかよ!」
 “おかあさんの三番目”とは、アルノーの妻でありこの子の母親であるラクウェルが残したスケッチブックの三ページ目のことである。妊娠を機にこの町に腰を落ち着けることに決め、それから彼女は今まで持っていたものに加えて新たに一冊スケッチブックを買い求めた。
 ただでさえ弱りきっていた身体だったけれど、自らの内に命を抱えているという自覚はきっと、ラクウェルの心を輝かせていたに違いない。調子のいい日に出かけては、彼女は美しいと感じた景色を片っ端から紙の上に写しとっていったのだ。
 写し取るなどというとなにやら語弊があるような気がしないでもないが、そこはそれ。ともかく旅の間に描いたものとは違い、すべてのページがこの町の風景で埋まっているそのスケッチブックが、娘の最近のお気に入りだった。
 ラクウェルの絵はなかなかに味があり、アルノーは好きなのだが――世間一般から見れば、特に技巧という点では稚拙なものなのかもしれない。だからいくら二人の娘であっても、そうそうどれがどこなのかわかりはしまいと思って冗談でふっかけてみたのだが。
 彼女は順調にスケッチブックの中の風景を発見していっている。そのたびアルノーが弁当を作り、その場所へのピクニックと洒落こんでいるのだ。
 ちなみに二ページ目をみつけたのは二週間ほど前で、なにやらペースが上がっているような気がする。
 子どもの成長速度、恐るべし。
 彼は娘の頭を撫でつけた。
「よし、んじゃすぐ準備するか」
「手伝う!」
 まだ料理は鍋の中にある。少女が背伸びして、戸棚からバスケットを取り出した。



春の野





 絵を描いている間は、ラクウェルはおおむね無言だ。
 そもそも無口ではないけれど、口数が多いほうでもない。ときおり鉛筆を顎に当てて考え込み、またさらさらと動かす。黒い線がどのような独創的な軌跡をたどるのかは、完成してからのお楽しみ。
 最近ようやく絵を見せてもらえるようになった。褒めてみたり囃してみたり、そのときどきで様々な反応を見せるアルノーに、彼女もまた照れてみせたり怒ってみせたり。流れる時間は静かで穏やかなもの。
 彼は男のわりにやかましいほうだと言われる。口八丁手八丁で生き抜いてきたという自負もある。だから物静かな人間といてもちゃんと心地よさを感じられるという事実は、正直自分でも驚きだった。
 ラクウェルと二人きりの旅路になってしまう前は、ハリム村の子どもたち相手に泥だらけになるまで遊びまわったこともある。あれはあれで楽しかったので、けっこう順応性が高いのかもしれない。
「……よし」
 ラクウェルがつぶやいて、鉛筆を置いた。そのままスケッチブックを閉じようとするのを、手ごとつかまえて開く。なにやらちいさく抗議が聞こえるが無視。
「おおー」
 そこには、一面の花野が広がっていた。
 もちろん目の前に広がるのも同じ光景だ。だが、ラクウェルの手にかかると少しだけ違ったふうになることもある。今日はけっこう写実的に描いていたらしい。もしかして、最近になって上達してきたのだろうか? いやいやいや。
「色つけないのか?」
 白と黒だけでは画面が少々寂しい。そう思って問えば、彼女はふくらんだ腹をさすりながらうなずいた。
「後でつける。絵の具を置いてきてしまったのでな……色くらいなら、目に焼きつけておけば大丈夫だろう」
「そか。……調子は?」
「問題ない」
 初産に限らず、お産を楽にするためには安定期以降できる限り運動をすることが望ましい。ただラクウェルの場合は少々事情がやっかいだ。
 できる限り体力を温存しつつ、けれど運動もしなければならない――最近では少し散歩をするだけで息があがり、顔色が悪くなるのに。それでも静かな横顔に満ちているのは淡い笑みで、苦しみの影は見当たらない。
 こっそり安堵の息をついて、アルノーも彼女の隣に腰を下ろした。
「気力だけではどうしようもないこともある。だが、病は気からというのもまた真実だと思うのだ。……少なくとも私は、一人きりで旅をしていた頃よりも今のほうがずっと身体が楽になっているように感じる」
「そりゃまあ、赤ん坊ってのはエネルギーの塊みたいなもんだからな。それが腹に入ってるわけだし」
 問題は産んだ後なのだ。産後の肥立ちが云々で儚くなってしまった女は、それこそ星の数ほどいる。この世にわが子を送り出せたと安心してそのままなど――いや、ラクウェルなら大丈夫かもしれない。今は産むまではという気持ちでいるだろうが、その後は大きくなるまではと思い、結婚するまではと思い、孫の顔を見るまではと思い。アルノーがそそのかしてどんどん欲張りにして、命を延ばしてやればいいのだ。きっと。
 肩に腕をまわして、軽くひきよせる。やわらかく身をまかせてくれるのに気をよくして、彼は白い顔に唇を寄せた。
「こっ……こら! 何をする!」
「なにって、おまこの状況でそれこそ何言ってんだ」
「…………外だぞ」
「外だなあ」
 わかりきったことを繰り返されたって、やめる理由にはならないのだ。だいいち、人気なんてないし。目の前に広がるのは千切れ雲の流れていく青い空と、色とりどりの花たち。大木の根元は葉を透かして降り注ぐ陽光がちょうどいい具合に弱められて、すこぶる居心地がいい。
 こういう場所でちょっとばかりいちゃついてみたいなあと思ったとて、誰にも非難される筋合いはない。
「ほら、ラクウェル」
 促すと、彼女は眉をひそめて見上げてきたが、逃げようとはしなかった。
 呆れたように苦笑して――そうして、ほんのり桜色がかった銀色の睫が、少し、震えた。







 この場所は変わらない。十年以上のときが流れた、今でも。
 空を見上げると、少しまぶしかった。
 数歩先を行く娘の足取りは軽く、油断すると飛んでいってしまいそうなほどだ。もっとも、多少機嫌が悪かったのだとしても、この光景を見れば些細なことは吹き飛んでいってしまうに違いないのだけれど。
 赤、桃色、黄色。白、青、緑。生命力にあふれるこの場所が、ラクウェルは大好きだった。
 少し足を速めて、ちいさな背中のすぐ後ろにつく。
「おーい。あんまりはしゃぐと転ぶぞって」
「大丈夫だよ! わたしおとうさんと違って運動神経はいいもーん」
「ぐ」
 べつに悪いわけじゃない、悪いわけじゃないぞ。ラクウェルとおまえが驚異的なだけであって俺は決して。
 ぶつぶつつぶやいてももちろん聞いてくれない。
 尖らせていた唇はやがて緩んで、笑みに変わった。振り返った少女と顔を見合わせて、にらめっこ。笑顔で。食堂の常連が見れば、親子そろって何を悪巧みしているのかと笑われるかもしれない。
 後ろから風が吹いて、二人の髪が乱された。視界の端を飛んでいった桜色を追えば、行き先は青い空。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
よかったらこっちのらくがきも見たってください→
去年やったアンケートでネタだけはいただいていたものの、なかなか形にせずにいた話であります。
つきつめた心理描写はあえてやりませんでした。
なんかこう、WA4のEDって、悲しいわけじゃなく切ないというのとも少し違う、なんともいえない感情がひしひしと来るんですよ。うん。
EDのあの歌はまさにまさに、って感じ…うおおおおう。
駆け抜けた時間は一瞬だったけど、その後の道も終わることなく続いていく――次代につなげていく。
そんなこと考えながらフィーリングでつらつら書いてたらこんなんなりましたとさ。
当初いただいたネタとはびみょーにずれております(ぐっは/笑)

(2006.09.18)

Rわんわん氏に捧ぐ。ありがとうございましたー!