余計なことにまで気を回して悩んでしまうのは、最早身に染みついた性だ。
 そろいもそろってどん底まで落ち込める資質を潜在的に持っているものだから、余計にたちが悪いのかもしれない。
 でも少し気をつけて見つめてみれば、幸せなんてそこらじゅうに転がっているわけで。




風と月とせせらぎと





 仙草の力には、目を瞠るものがあった。
 これでもかと言わんばかりに集落全体を覆いつくしていた毒々しい霧は、一刻ほどで晴れ渡り夕焼け空に変わった。今にも息絶えそうな風情だった草木は生き生きとした緑色を取り戻し、澄んだせせらぎは涼しげな音をたてて流れてゆく。
 アルノーは滴りおちる雫をぬぐいながら感心してあたりを見回した。歩くのも嫌だと思わせるほどの光景だったのに、湯浴みに使えるまでに浄化された水源。頬を伝わる水の感触はあくまで優しい。戦争で荒廃したファルガイアでは、水さえも自由にならないことがままあるのだ。仙草の効力と同時に、この村を抱く森の豊かさと清らかさを改めて思い知る。
「あ、アルノー、おかえり」
 窓際に座っていたジュードが明るい表情で振り返った。少しだけ頬がやせてしまった印象はあるが、少年はどうやら立ち直ってくれたようだ。今夜の宿を提供すると申し出てくれたシエル村の女性が、厨房から焼き菓子の皿を持って出てくる。世話を焼いてくれるのが馴染みの顔だからという安心感もあるのだろう、ひさしぶりの笑顔に胸がすく思いがした。
「お風呂気持ちよかった? すごいね、仙草って」
 無邪気な声にうなずく。
「触ったら溶けそうな色してたのになあ。すっかり綺麗になっちまって、バックライあたりなんかよりよっぽどいい水だぜこりゃ」
「あはは」
「本当。環境もいいし、きっとこの村は発展しますね」
 紅茶のポットを持って、ふくよかな中年女性の陰からユウリィがにこにこと顔をのぞかせた。いないと思ったら、家主の手伝いをしていたらしい。渓谷への強行軍を終えてから一日と経っていないのに、本当によく働く少女だ。頭が下がる。
 手を伸ばしたクッキーはまだ温かかった。
「あれ」
 サクサクと小気味いい音を響かせながら塊が消えてゆく。大食いのペースに負けていられないと慌てて腰を浮かせたジュードの頭を片手でおさえつけておいてから、アルノーは身体をひねってユウリィを見やった。
「なあ、ラクウェルは?」
「ああ、ラクウェルさんなら」
 少女の言葉を女主人が引き継ぐ。
「あの娘さんなら、さっき外に出てったよ。散歩してくるって言ってたねえ」
「マジかよ! 外に出るときはコート持っていけって、あれほど言っといたのに」
 彼は舌打ちして大股で暖炉に近づいた。その横、ポプリのリースやら種々雑多なものがかかった木の壁に、どうにも似つかわしくない赤灰色がある。たっぷりした外套を片手でさばくと、ほんのり煤と薬草のにおいがした。香りが移ってしまったらしい。
「ちょっくら探してくる」
「ラクウェルなら大丈夫だと思うよ? 村からは出ないつもりだったみたいだし」
 お菓子を頬張ったままきょとんとする少年に一瞥を投げる。心配しているのは危険云々の話ではないのだが、そもそもラクウェルの体調を知らないジュードならばそちらに思考が向かうのは当たり前か。嘆息しつつも戸口に向かう。
 ユウリィが心得顔でポットをかかげてみせた。
「お湯、わかしておきますから。冷えないうちに戻ってきてくださいね」
「追加のお菓子ももう少しで焼けるからね」
 じゃあアルノーが戻ってくる前に食べとかなきゃ、というつぶやきに対してはひらひら片手を振る。天板いっぱいに並べられた焼き菓子をすべて食べきるなんて無理だろうに、と笑いをかみ殺しながら。





 探していた姿はすぐにみつかった。
 もともとラクウェルは色素が薄い。暗い森の中で月明かりに照らされた長身は、ぼうっと浮かび上がって見えた。
 ほのかに桜色がかった銀髪が、さらさらと風に踊っている。借り物らしい白い部屋着は袖も丈も充分な長さがあったが、薄手なのはどうにもならない。いつもはあまり気にならない線の細さがやけに不安を誘った。
「こーら」
 意識して渋面を作る。弾かれたように振り返った表情もなにやらおぼつかないものがあって、触れたら消えてしまいそうな、そんな気がした。思わず息を止める。
「……ああ。アルノーか」
 しかし見た目の危うさに反して返ってきた声は、いつもどおり低く落ち着いた色をしていた。動きだした時の中で、無意識に差し出した外套に彼女を包んでしまってから、ようやく安心する。
「ばぁか。こんな薄着で出歩くもんじゃねえぞ」
 触らなくてもわかる、ラクウェルの身体は冷えきっている。今まで自覚がなかったのか、彼女は思い出したように襟をかきあわせてぶるりとひとつ身震いをした。
「ああ。……ああ、すまない、ありがとう。充分温まったから大丈夫かと思っていたのだが……そうでもなかったようだ」
「ただでさえ冷えやすいんだから、油断大敵だろ。ったく、寝巻きみたいなかっこでうろうろしやがって……」
 アルノーは唇を尖らせた。ラクウェルが純粋に薄着だったということも腹立たしいが、別の意味でもまた不機嫌にならざるをえない。もちろんもう少し規模の大きい街であれば、彼女とてこんな格好で外に出たりはしないだろう。だが、一応ここハリムにも軍隊くずれの若い男がちらほらいるのだ。上官の横暴に反発して逃げてきたというだけあって、基本的に気のいい人間ばかりだという印象を受けたが、そんな彼らとて今のラクウェルを見れば不埒な考えを抱かないとも言い切れない。
 そういうのは、自分だけで充分だ。
 一歩近づくと、半歩離れた。かすかに眉を動かした彼に気づいたものかそうでないのか、白い指がすいと天を指した。
「満月なんだ。ゆっくり月を見るなんて、ずいぶんひさしぶりな気がして……」
「快晴とはいかないけどな」
 見上げた空の中心で、月は朧にかすんでいる。ざわざわと揺れる梢の切れ目からのぞく光。地上は風があるが、上空はそうでもないのだろう。雲に動きがない。丸い月がぼんやりと浮かんでいるだけだ。
 遠くをみつめるラクウェルの、横顔から視線ははずさない。はずさないまま、そろそろと動いて肩に手を置くと、彼女はぴくりと身じろぎした。
「アル」
「嫌か?」
 まっすぐに向き直った細面に、どんどん朱が昇ってくる。みつめあう瞳に先に耐えられなくなったのは、ラクウェルのほうだった。青い目が森の暗がりを映し――豊かな下生えをたどり、アルノーの胸元に落ちる。
 今抱きしめてしまってもかまわないのかもしれない。
 そう思いながら、彼はじっと待った。ふるふると銀の毛先が揺れる。いつもなら組まれている腕は、胸元でちいさな握りこぶしを作っていた。どれだけの時間が経過したのかもわからない――聞こえるものが正真正銘、自然物のたてる音だけになった頃。
 ラクウェルは、蚊の鳴くような声でささやいた。
「……ッ、嫌じゃない……」
「嫌じゃない?」
「……嫌じゃない……」
「そうか」
 たまっていた息を一気に吐き出す。同時に腕の中には細い肢体がすっぽりと納まった。
 じわじわと冷たさが増してきて、今更ながらに気づく。恋人のことは薄着だと叱っておきながら、アルノー自身も彼女と似たようなものだったのだ。湯からあがったばかりの身体は未だほかほかと温かいが、冷たい風にさらされていればすぐに冷えてしまうだろう。
 だが、かまわない。
 おののく腕が背中にまわった。
 寒いように感じるのは一瞬だ。ラクウェルとて生きているのだから、いくら冷たいといっても限度がある。速さを増す心音が、常よりも大きな熱を生み出して外に向かえば。やがてお互いの体温が出会って、むしろ暑いくらいになってくる。
「私は……与えてもらってばかりなのだ」
 ラクウェルがぽつりとつぶやいた。思わず見下ろす。安らぎと同時にどこか寂しげな表情を読み取って、アルノーは眉をひそめた。
「迷ったのは、そのせいか」
 さしのべられた手を素直にとれない。単純に恥じらっているだけなのかと思っていたのだが、そんなに簡単なものでもなかったらしい。
「何も与えてやれない。それなのに、結局……だめだ、誘惑には勝てなかった。幸せすぎて、私ばかり、こんなに……ッ」
「っておいちょっと待て」
 胸に顔を埋めようとしたラクウェルを遮って、彼は身を離した。彼女の顔に一瞬走った失望は見ないふりをする。認めれば最後、めちゃくちゃにしてしまうかもしれない。初心な娘を相手にしているのだから、とにかく理性は硬く保っておくに限る。
 アルノーはなんとか平常心を取り戻し、背をかがめて青い瞳をのぞきこんだ。
「なんか誤解してるみたいだが……俺はべつに、特別なことをしてほしいとかそういうわけじゃないんだぞ?」
「……?」
 瞬きをした拍子に涙が一粒だけ転がり落ちた。袖で受け止めて、うまくいったことに満足して笑う。
「一緒にいられればいい。馬鹿やって笑って、たまにけんかして、まあ……俺も男だし、ちょっと暴走したりもするかもしれないがそれは見逃してもらうとして」
「……暴走……?」
「そう、暴走。こんなふうに」
 言い終わらないうちに唇をかすめる。隙をついて軽く押しつけただけのそれに、ラクウェルは一瞬にして真っ赤になった。
「な…………!」
 素早く抱き寄せれば、胸の中でくぐもった抗議の声があがった。逃げられないように腕に力をこめる。じたばたと形ばかりの抵抗はあったものの――ほどなくして彼女はおとなしくなった。
「……ラクウェル?」
「アルノー、おまえ……心臓の音がすごいぞ」
「ッ!」
 ざっと頬に血が昇った。引き剥がそうとしても今度は離れてくれない。やっとのことで顔だけ見えるようになったと思えば追い討ちをかけられる。
「顔も赤いな」
「〜〜〜ッ。このやろ……」
 アルノーは左手を細い腰にまわしたまま、右手でがりがりと頭をかいた。どうせお互い様だ。ラクウェルの顔からだってまだ赤みが引いていないし、身体も温かいまま。彼一人の体温でこんなに長い間二人分をまかなうことはできないのだから、要するに彼女の心拍数もまた高いのだということがうかがえる。
「だが、わかった」
 胸元でぽすんと軽い音がした。ラクウェルが額をおしつけたのだ。なんとはなしに手ぐしで髪を梳く。銀色が弱い月光を弾いてさらさらとこぼれた。
「わかったんだな?」
 ささやく。
「……ああ。安心した。これならば、私にもできる。いくらでも……与えられる。よかった」
 望むときに触れあって、抱きあって、笑いあう。それは見返りとも呼べないほどささやかなものだが、果てはなく、枯れるものではない。どちらからしかけてもどちらもが満たされることに間違いはなく、だからこそ最高の幸せなのだ。
「……なあ、もう一回だけ」
 言って顔を近づければ、彼女も逃げはしなかった。
 目を閉じた瞬間ちいさく、調子にのるな、と聞こえたような気はしたのだけれど。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
や。楽しかった(笑)
どーもアレです、私アルノーのほうが好きかもとか言っといて、実はアルノーになってラクウェルを愛でたいらしいですよ。
戸惑い葛藤しつつも結局いちゃつきたくてしょうがなかった姐さん萌え。
けっこうすらすらいきました。しかしいちゃつく話ばっかり書いてるといちゃつく語彙が不足してくる…
この後はまああっさり帰還して、なんかの話の流れで少年少女に姐さんの体調のことがバレる(というかバラす)わけですね。ジュードはそっちに気を取られて二人のあやしい雰囲気にはちっとも気づけないわけですね。
しかしアルノーが別人だ。誰この攻め(笑)
まあ健全な青少年デスカラー?(えー)

(2005.05.24)