憑き物の落ちたようなさっぱりした顔をした女は、ふらつきながらも背筋だけは伸ばしたまま彼らの視界から消えた。
同様に晴れ晴れとした表情で、少年と少女が微笑みを交わす。
少し離れたところで、派手な羽飾りのついたナイフを拾い上げた青年の口許にも同じものが浮かぶ。
けれど、彼女の脳裏からは幻は簡単に消え去ってくれそうになかった。
死神のようだと思った。
自分の影は、暗い瞳をして、呪いの言葉を吐いていた。
必死に否定してきた真実を、突きつけられたような気がした。
映し身
弾むような足取りで、ちょっとした段差もいちいち飛び越え、少年が先頭を走る。少し遅れて続く少女のスカートの裾が軽やかに揺れる。
そんなさまを眺めて、子どもは元気が一番だなどと考えつつさらに離れて自分が続く。いつも通りの順番だ。
ひとつ違いの青年の定位置はない。いや、あえて言うならば誰かの隣か。ジュードをからかいながらともに先頭を歩くこともあれば、ユウリィと談笑しつつ真ん中にいることもある。無言で自分の隣を歩いていることもある。ときには全員団子のように一塊になって誰が先やら殿やらわからないこともある。
そういえば――つい先ほどから見慣れた白と褐色の二色がないことに気づいて、ラクウェルは首をめぐらせた。振り返れば、半歩ほど遅れて後ろについてきている。目が合うと、彼はにかりと笑った。
「……アルノー? どうかしたか」
「へ? なにがだ?」
問いかけずにいられなかったのは、珍しいと思ったからだ。彼女は皆の背中を見て歩くことに慣れていた。背後を守るのは年長者の務めという気負いも――と、言うほど大仰なものではないにしても――あったし、なんとなく収まりがいいような気がしていたこともある。先に並ぶ子どもたちの頭の上から、なんの支障もなく遠くまで見渡せるのだし。例外はアルノーだが、彼一人くらいなら視界の妨げにはならない。
問いかけただけで、わざわざ疑問を口にはしなかった。けれど何か察するものがあったのか、青年はほんの少し歩幅を大きくして、あっという間に彼女の隣に追いついた。
「べつにな、何考えてたってわけでもないけど」
いつもどおり、飄々とした口調でうそぶく。弱い風にも菜の花色のマフラーはふわふわとたなびいて、彼の首の動きを強調しているように見えた。
「むしろおまえだよ。考え事してたみたいだし……それなら後ろにいようかと思って」
まあ念のためにな。
言われてラクウェルは目を瞠った。
一応のこと、ここはきちんと整備された街道だ。聖女の偉業を称えるために建立された塔には、参拝者が引きもきらなかった時代があったのだろう。さすがに荒れているが、この辺りの気候は乾燥している。ファルガイアの植物はそれほど強くもない。生育に適さない環境で、硬い煉瓦を割ってまで根を張る根性はなかったらしい。至極広々として歩きやすい道では荒野ほど魔獣の襲撃を警戒する必要はないにしても、確かに彼の気配りは自然なものだと思えた。
そうだ。いつもの自分なら、感覚だけは背後に置いて、そもそもアルノーの姿が見えないことに気づくのだってもう少し早かったに違いない。なんという体たらくだろう。少しの油断が命取りになることだってあるのに。
我知らず肩が落ちる。
駄目だ。駄目だ、こんなことでは。これからだってあのように、こちらの弱さをついて襲い来る敵があるはず。一戦が終わるごとにこれほど考えに没頭しているようでは、走り抜ける速さに追いついていけない。けれど、思考の外に追い出そうと思えば思うほど、不安が追いすがってくるのだ。
今もこの心のどこかで、あの暗い瞳が蠢いているのかもしれない。出てくる機会を窺っているのかもしれない。怖れだけをつきつけて、視界を黒く塗りつぶし、そしていつか、すべてを――――
唐突に明るい翠が飛び込んできた。
「……あ……?」
「おい、どうしたんだ?」
闇とは無縁の色彩が、下からのぞきこんできている。それがアルノーの瞳なのだと気づくまで多少時間がかかった。青い目がようよう焦点を結んだのを確かめてから、彼はすいと身を引いて小首をかしげた。
「どうしたんだ? さっきからおかしいぞ、おまえ」
おかしいのはおまえのほうだ――
喉もとまで出かかった言葉を飲み込んで、ラクウェルは目を伏せた。
そういえば。悩んでいる風情なのはどうも自分だけで、列車のあてが外れたジュードも、兄に会えなかったユウリィも、気落ちこそしているらしいものの足取りは軽い。聡いぶんだけ色々と考えることも多いだろう青年も、普段とそれほど変わった様子は見せていない。
あんなものを見せられたのに。どうして平気でいられるのだろう。
「あの女……」
「ん?」
「塔で一戦交えた、あの女」
「ああ、あれ」
あっけらかんとうなずくその仕種が妙に腹立たしかった。半ば八つ当たりに近い気持ちでいるのは自覚しながら――そしてそれが同時に弱音であることには気づかず、彼女は眉をひそめたまま地面に視線を落とした。
「私たちの持つ不安を具現化したと、あの女は言った。嘘か真かは知らぬが……確かにあの影たちは、私たち自身の映し身と言って差し支えないのだろう。あんな、底知れないほど暗い……あのような」
恐ろしく醜いものが。
続く言葉は無理やり押し殺してかすかに身震いする。強くあらねばと願ってきた。そして、そのとおり生きてきたつもりだった。しかし、本質は結局あれと同等なのではないかという疑念がどうしてもつきまとう。いつか箍がはずれ、抱えきれなくなった黒いものが噴き出して自分も周りも染めてしまう。
必死で目をそらしてきたものだ。認めたくないと否定してきたものだ。絶望に潰されたくなどない。けれど、内から響くでなく外からはっきりと聞かされた声は生々しい現実感を伴っていた。
おまえは怖くなかったのか。問いかけるような気持ちで、いつのまにか真顔になっていた青年を見上げる。それぞれ皆、一番見たくなかったもののはず。なのに、どうして。
アルノーが肩をすくめた。少しだけむっとしてにらみつける。鋭い視線から逃げるように明後日の方向を向いてぽりぽりと頬をかく指の長さが妙に目に留まった。
「いや、まあ確かになかなかすさまじい言動してらっしゃいましたけど」
「だろう」
「……けど、あれが俺らそのものってのはさすがに無理があるだろう……」
「そのものとは言っていない」
「でもそう思うからそんなに気になるんじゃないのか?」
虚を突かれてラクウェルは目を瞬かせた。しかし、言葉による違和感は一瞬だけで、すぐに納得する。
そうなのかもしれない。
「そりゃさ、誰だって人には言えないような暗ぁい部分を持ってるもんだ。それは自然で、べつに恥ずかしいことでもなんでもない。それを自覚することからまず始まるわけで」
なんて俺が言っても言い訳にしかならないだろうけどなあ。つぶやいてごまかすように笑う。
目をそらすだけではそれはなくなってはくれない。認めて、受け入れて、なおかつ克服するためにあがいてみなければ。
そういえば、目の前の青年がぱっと見よりもずっと捨てたものでない性質をしていることに気づかされたのもそんな姿を見てきたからではなかったか。
「おまえもとことん自分に厳しい奴だからなあ。とりあえず受け入れてみるってのも悪くはないと思うけど」
俺の情けなさを受け入れてくれたみたいにさ。
ちいさくちいさく続いた声を、しかし彼女は聞き逃さなかった。気づいてみれば簡単なことなのかもしれない。けれど、実践するのは難しいことなのかもしれない。こと、自分のような女には。
そこまで考えて息をつく。
三人が気にした素振りをみせなかったのは、だからだったのだろうか。自らの弱さを情けないと嘆きながらも、同時に受け入れるだけの心も持ち合わせていたから。自分を受け入れ、お互いを受け入れ、それでも前を向き続けることができるからだろうか。
「俺は認めるぞ?」
「ん?」
顔をあげると、先に歩き出していたアルノーが肩越しに振り返ってこちらを見ていた。いつのまにか立ち止まっていたことに気づいて、慌てて足を動かす。歩幅の違いなのかすぐには追いつくことができない。
ぎりぎり届くくらいの声量で、彼女はもう一度尋ねた。
「今、なんと言った?」
揺れるマフラーが、ふわふわと道案内をしてくれているようにも見える。どうにも掴み取って引き戻したい衝動に駆られるが、首が絞まるだけだろうと思い直して伸ばした指は握りしめた。
「おまえの弱さを認めるってこと。醜い部分があっても駄目だとは思わない。全部受け入れるから、そんなに悩まなくたって大丈夫だ」
何を言っているんだか、ときり返そうとした声は喉もとで止まり、代わりに何言わせるんだか、という呟きが聞こえる。
なんだか頬に血が集まってきたような気がした。
もしかして、嬉しかったのか。自問自答してうなずく。
言葉を尽くして説得されたわけでもなく、正論をふりかざして論破されたわけでもない。心がけ次第の、言ってみれば子供だましにすぎないのかもしれない屁理屈で言いくるめられてしまったのに、急に気持ちが軽くなった。
向けてくれる優しさが、嬉しいから。
速度をあげて追いつくと、彼の横顔を見上げることができた。すっきりした口許がなにやら妙な形になっているのは照れ隠しだろうか。
おもわずこみあげた笑いを抑えようとは思わなかった。
ふてくされたようにとがった唇さえも、眺めるのが楽しい。
不安がすべて、拭い去られたわけではないのだ。
醜い感情だけではない、もっと重く、もっと強く、ずっと自分を縛り続けている鎖。
まだ打ち明けていないことがある。だけどその日はいつかやってくるような気がする。
できるならば、愛すべき仲間たちに重荷を背負わせたくないと思うけれど。
同時にきっと受け入れてくれるに違いないと確信も持てるから、折れずに進んでいける。
矛盾も抱え込んで。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
ていうかきっと他のメンバーはそんなに難しいこと考えてませんよ?
悩んでるの姐さんだけですよ?(笑)
ラクウェルは、他人の弱さはけっこう懐広く受け入れる人だと思うのです。でも自分の弱さは罪みたいに考えて、強く強くあらねばならないと考えているわけです。ある意味では潔癖症。
「受け入れてもらっている」という感覚は、相手に心を預ける際一番重要なんじゃないかとかなんとか。
それがゴールになるか、スタート地点になるかで経緯が変わってくるわけですが。アルラクは後者かな。
スタート地点。
そしてどちらかが落ち込んでいるときはどちらかがポジティブ思考。そうやってバランスを取るバカップル。
(2005.05.12)
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