その日は一日中、一緒にいた。
 あんなことの後だから、照れくさくて少し緊張もしてしまって、困ったけれど。
 それでもやっぱり、二人の間にあったのは、幸せとしか形容できない気持ち。







狭間にあるもの








 ……背中に、視線を感じる。
「……なあ、メルディ」
「なにか?」
 にこにこ、にこにこ。
 視線の主は、生乾きのため紫水晶のように光が透き通る髪を背中に流して、寝間着姿で、背後のベッドに座っていた。
 すこぶる上機嫌である。
 一緒に寝たいと言うのを、まあいいかといつになく軽く承諾したことが嬉しくてたまらないらしい。普段は気恥ずかしさから彼女がくっつこうとするたびにひょいひょい身をかわしてしまうキールが、並んで寝るときだけは逃げずに抱きしめてくれるためだ。
 そもそもが怖い夢を見たと泣くメルディを慰めて安心させてやるために始めたことだったから。眠りにつくときくらいは安らかな気持ちでいて欲しいとの、彼の精一杯。
 とはいっても、実は二人の就寝時間はずれていたりする。
 メルディは早寝早起きが信条の健康型。キールは遅寝早起きの……とことん不健康型。
 風呂からあがり、彼はいつもどおりに机に向かって就寝前の読書としゃれこんだわけなのだが。
 先に寝ていいと言っているのにさっきから彼女はにこにこ無言でキールの背中を眺めているのみだ。
 ……あんまり眺められると落ち着かないんだけど……
 なにせ数年越しの想いを遂げることができたのは、ようやく昨夜のことなのだ。
 つまり、まあ……こんなふうにそばにいられたら、理性などいつお空の彼方へ吹っ飛んでいくかわからないわけで。
 ……まさか誘ってるってことは……あるわけないよなあ。メルディだし。
 キールはかぶりを振って浮かんできた思考を頭の中から追い出そうと努めた。
 おそらく何も考えていないのだ。
 彼女が実は無類の甘えたがりであることは、すでにそれなりの時間をともに過ごしている身として十分承知している。
 最初の頃は笑顔こそ浮かべてけれど決して心の奥までは見せてくれなかった。それを思えば、何の屈託もなく無心に慕ってくれる今は望んだ状況だと言える。
 ……自分が『女』なのだという自覚さえ、持ってくれれば。
 いや、ことあるごとに子供ではないと言い張るのだからそのつもりではあるのだろう。ただ、自らの行動が彼にどんな影響を及ぼすのかまでは、考慮の範疇ではないらしい。
 ちなみにクィッキーは階下のソファで早々と寝てしまっている。人の言葉を理解するあの青い獣がこの場にいないという事実も、理性喪失に拍車をかけてくださるような気がしてならない。
 キールはため息をついて振り返った。
「なあ、ぼくはまだ眠くないし……先に寝ていいからさ、布団の中もぐっとけよ。背中ばっかり見てたって、おもしろくないだろ?」
「ん〜? 別にメルディはつまんなくないよ。キールが背中見てるだけで楽しいな」
 ぴょこんとちいさな頭を揺らして小首を傾げ、メルディが笑う。
 よく考えてみればかなり恥ずかしいのではないかと思われる台詞をあっさり言われ、彼は言葉に詰まった。
「……さいですか……」
 肩を落として再び本に向き直る。……が、やはり集中はできない。
 キールは頭を掻いて本を閉じた。このまま眺められていてもどうせ集中できるとは思えないし、だからといって追い出そうとすればきっと泣かれてしまうだろう。
 本当にやっかいな弱点を抱え込んだものだと思う。思うが、こればかりは仕方がない。
 理性がもつかどうかはまあ別問題として、さっさと寝てしまうが吉なのだ、この場合は、たぶん。
「あ、キール。もう寝るか?」
 立ち上がって近づいてきた彼をメルディは無邪気に見上げた。寝台の上に乗り、キールが寝る場所を空けるべく四つんばいで向こう側に移動しようとする。その拍子に背中の髪がさらりとこぼれ落ち、背中から腰にかけての線が強調されてキールの視界に映りこんだ。
(あ。やっぱりダメだ……)
 思ったときにはもう体は動いていた。



 ぼすっ。



「ひゃ! キ、キール? なに?」
 後ろから押しつぶされる格好になったメルディが驚いて悲鳴をあげる。
「……一緒に寝たいって、言ったよな?」
 言いながらキールは腕の中の身体を引き起こし、寝間着の襟からメルディの胸元に手を滑り込ませた。
「っきゃんっ!?」
「一緒に寝るってことは、ぼくがいきなりこういうことをすることもあるってことで……」
「き、キール? きー……んっ!」
 メルディは真っ赤になってもがいたが、キールは自分を抑えることができなかった。昨夜、一度外れてしまった箍。元に戻すことは容易ではない。
 深く深く唇を貪り、組み敷いた身体からだんだんと力が抜けてくるのがわかる。一度唇を解放するも、すでに彼女は息も絶え絶えの状態で手足をくたりと投げ出していた。
「メルディ……いい?」
 華奢な肩を寝台に押しつけて、キールは熱っぽくささやいた。メルディがぴくん、と身体を強ばらせる。ぎゅっと瞑っていた目をおそるおそる開けると、そこにあったのは幾分潤んだ紺碧の瞳。その奥の激情はまっすぐ自分に向けられていて。
 ほかの誰でもない、自分に。
 昨日の今日だ、もしかしたら自分でもわかっていたのかもしれない、こうなることは。
 そして望んでいたのかもしれない、こうなることを。
 そんな思いに至ってしまって全身が熱くなる。
 これから起こることを思うと恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったけれど、同時にこの上ない幸福感もまた存在して、だから彼女は頬を染め、再びおとなしく目を閉じた。
 閉ざしたまぶたの向こうでパチリと音がして、暗闇が部屋を支配したのがわかった。










「……っん……」
 口内を好きに行き来する温かい感触に、頭がぼんやりする。しゅるしゅると聞こえるのは寝間着が脱がされていく衣擦れの音。冷たい夜気にさらされたところから肌がぴんと緊張していく。
「っあん!」
 柔らかなふくらみをつかみあげられたとき、思わず高い嬌声が漏れた。自分の声に自分でどきりとして、彼女は一瞬固まった。
 ……今のは、誰の声?
 濡れた喘ぎ。
 自分が出したのか?
「……どうした?」
 今まで薄く開いていた唇をぴたりと閉ざしてしまったメルディを、キールは手を止めて怪訝そうに見下ろした。苦しそうに、息まで止めてしまっている。ちいさな手のひらで口を押さえて、まるで声を出してたまるかといったように。
 硬くこわばった表情に、躊躇いが彼の胸をよぎった。もしかして、本当は嫌なのに自分に気を遣って我慢しているのだろうか。
 ちろりと、紫水晶の瞳が動く。
「な、なあ、キール……メルディ、昨日もこんな声出してたか?」
「うん? ……ああ」
 合点がいってキールは寄せていた眉根を元に戻した。つまるところ、漏らした声の意外な甘さに自分でびっくりしたということか。
 かすかに震えながら上目遣いに見上げてくる彼女は愛らしくて、無性にからかってやりたくなる。……それに、昨夜メルディが本人が言うところの『こんな声』を出していたというのは純然たる事実だ。だから。
 いじめるわけじゃないぞ、嘘をつくのは良くないってことで。
 心の中で説得力のない言い訳をしてから耳に吐息を吹き込むようにして、低くささやく。声に笑みが混じってしまうのは、今の心境からすれば無理もないことなのだと、そういうことにしておく。
「……すっごく、可愛かったよ……」
「っ!」
 メルディは上気した頬を更に赤く染め、泣きそうに顔をゆがめた。
 昨夜のことは、実はあまり正確には覚えていない。身体中を包む熱も、破れそうなほど波打つ心臓も、なにもかもが初めてづくしで自分の出す声に気づく余裕などなかった。ただキールの欲するままに身を任せていただけだった。
 あんな、淫らな声を、一晩中?
 キールに聞かれていた?
 嬌声をあげて身をよじる自分を、いったい彼はどう思っただろう。
 羞恥に身体が熱くなる。
 再開された愛撫に声を殺して耐えるメルディの頬にキールは優しくキスをした。
「我慢しなくていいぞ。声、聞きたい……」
 明かりを消したのは本当になんとなくだったのだが、そうなると彼女が感じてくれているかどうかを知る手がかりは華奢な肢体の反応と、漏れ聞こえる声だけ。乏しい光では表情まではよく見えない。だから彼としてはおおいに声をあげてくれてかまわないのに。
「や、だ……はずか、しい……!」
 返ってきた反応は予想通りだった。
 けれど必死の抵抗のつもりで紡がれたらしい声もやはり湿っていて、結局のところキールにとっては媚薬代わりにしかならなかった。
 薄闇の中で、口づけを繰り返して女性のように赤く染まった唇がふっと笑みの形を刻む。
「……いつまでもつかは知らないけど」
 言い終わるなり彼はふくらみの頂きをほのかに染める薄紅を舌ですくいあげた。
「ふぁ! あ……」
 メルディが耐え切れずに悲鳴をあげる。その反応に満足したのか、キールは更にその場所への愛撫を続けた。
「あっ……んぁ……」
 甘い、蜜を含んだような声。
 恥ずかしくて仕方がないのに、抵抗する気も起きないのはなぜなのか。
 羞恥に勝る何かが彼女の全身を支配して離さない。
「……そういえば昨日はここ……」
 何かを思いついたような声がして、胸元をなでまわしていた手がするすると下のほうにおりてきた。遠慮なくまさぐられる。
「……このへんだっけ?」
「っあ!? あ、だめ、そ、こはっ……!」
 キールの指が濡れて滑るのがわかってメルディは身をよじったが、彼は手を止めてはくれなかった。逆に激しさを増していく動きに、熱の逃げ場がみつからない。身体の奥底で何かが溢れかえりそうな錯覚を覚える。
 もがく自分をやすやすと押さえつけているこの力は、いったいどこから来ているのだろう。
「……ここ、昨日も触ったよ?」
 耳に滑り込んでくるささやきにメルディは真っ赤になって首を振った。
「やっ……お、ぼえてないよ……!」
「……そう?」
 まっすぐな髪が胸元をなでて通り過ぎ、ひんやりした感触を残した。火照った胸にその冷たさが、心ならずとも気持ちいい。
 一瞬の小休止。
 おもわず気が緩んで吐息を漏らすと、くつくつと押し殺した笑い声が聞こえた。
「なら、思い出させてやるよ……」
 言葉どおりに指先がうごめく。
「ひあっ!? あ、あああ! はっあぁん……っ!」
 油断していたところにいきなり責め苦が再開され、メルディはひときわ大きな悲鳴をあげた。
 すでに声を殺すことなど思いつきもしない。絶え間なく襲いくる刺激に壊れてしまわないようにするのが精一杯だ。
 けれどそんな精神状態とは裏腹に、神経は彼を感じさせるものを何一つ逃すまいと研ぎ澄まされてゆく。
「きー……るっ、きーる……」
 やめてくれとは言わない。逃げるつもりもない。だって頭は真っ白で、何も考えられなくて、それなのにこの身体は自分の意思などおかまいなしに彼を欲して彼にしがみつくのだ。
 頬を真っ赤に上気させながらうわごとのようにただ名前を呼びつづける。
 きつく閉じたまぶたの裏に焼き付いているのはただ彼の瞳の蒼だけで。
「メルディ……」
 キールは小刻みにおののく細腰に手を回してそっと引き寄せた。うって変わって優しくなった手つきに、メルディがびくん、と身体を弾ませる。
「っふ、んぁっ……」
「……メルディ」
 呼びかけるも、聞こえているかどうかは怪しい。




 細い叫びとともに、最後の熱は唐突に去った。















 ……呼ぶ声が、聞こえる。
 名を呼びながら頬をなでる手のひらは大きくて冷たい。
 ……いや、冷たいのではなく自分の頬が熱いのだ。
 まだ熱は引いていない。身体の奥底では燠火がぶすぶすと煙をあげている。低い呼びかけが耳に滑り込んでくるたびに、風を受けたかのようにまた勢いを盛り返そうとする。
 まぶたは重かったけれど、最後に記憶に残るあの海の色が見たくて、メルディはなんとか目を開いた。
 途端、飛び込んでくる蒼。
 ふわりと胸の中に広がったものの正体もよくわからないままに、彼女はただうっすら微笑んだ。
「……メルディ。気がついた……」
 ほっとしたような声が降ってくる。言葉の意図をはかりかねて、メルディは少し首を傾げた。
「……どうか、したか?」
「ん。……その、気絶しちゃったからさ……やりすぎたかと思って」
 夢中だったから。
 蚊の鳴くような声でうめき、白皙の肌を真っ赤に染めてキールが淡紫の髪に顔をうずめる。視線だけをめぐらせて部屋の中の様子をうかがったが、特に変わったところは見うけられない。
 気を失っていたのはほんの数分の間だったのだろう、と判断してメルディは彼の背中に腕をまわした。
「きーる、だいじょぶか?」
「……それ、ぼくが言う台詞」
 むっとして尖らせた形もそのままに、一瞬軽く唇を触れ合わせてキールは息をついた。
 正直、少しばかりあせったのだ。腕の中で彼女が意識を失ったままちいさく痙攣しているのに気づいたときは。だから、すぐに目を開けてくれてほっとした。
 昨夜は彼女と同時に自分も気を失って、朝まで眠っていたから危惧など感じなかったけれど。
 触れるのもはばかられるほど細い肢体は、しかし意外な強さとしなやかさで彼を受け入れてくれた。
 それだけではない、ごつごつした自分とふわふわ柔らかい彼女、明らかに形は違うというのにまるであつらえたかのようにぴたりと寄り添う身体。
 なんだか不思議な気分になって、ぎゅっと抱きしめてみる。
「キール……」
 ふいに遠慮がちなささやきが聞こえた。
「……ん? なに?」
 顔だけそちらへ向けると、先ほどの艶めいた表情とはかけ離れて悪戯っぽくきらめく瞳とかち合う。
「呼んでみただけ〜」
「なんだよそれ」
 笑い混じりのメルディの声に、キールも笑顔になって「うりゃっ」と腕に力をこめた。
「やぁん、苦しい、くるしいよぅ」
「嘘だな。ちゃんと息してるじゃないか」
 じたばたしながら逃げ出そうとする彼女を、無理やり捕まえて押さえつける。
「うそじゃないよー……」
 キールの下に組み敷かれながら、メルディは首を振った。
 そう、胸が締め付けられる。溢れ出す感情に。




 嫌な息苦しさではない。
 むしろずっとこうならいいと思う。




 まるで夢みたいに幸せだけれど、今このときは間違いなく現実。
 それを実感したら、急速に視界がぼやけてきた。



 頬を伝った涙にキールは一瞬驚いたように手を止めたが、それが悲しみゆえのものではないということを察すると、再び彼女ごとシーツの中に沈んでいった。







 いろんな気持ちが、あるけれど。
 それでもやっぱり、一緒にいて一番たくさん二人の間に存在するのは、ぎゅっと締め付けられるような甘い甘い幸せ。

















--END.







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