これは特別なことでもなんでもなくて。 誰にも等しく与えられる幸福であるのだと。 積み重ねていけば日常となり、日常は終わりなく続いていく。 あたりまえのこととして、きっと。 影差す窓辺 ふと、閉ざされた視界を白いものが横切ったような気がした。 ゆるゆるとまぶたを上げれば、天井の木目がはっきりと映る。ぼんやり斜めに横たわる一条の霞の正体は空気中の埃だろう。雲に隠れていた月が顔を出したのだ。 室内は睡眠を取るに足りるだけの闇に支配されていたが、かといってその狭さを見渡せないほどのものでもなかった。気だるさの残る身体を無理やりに引きずって、枕にもたれかかる。 目の前におりてきた前髪を何の気なしにかきあげたとき、アルノーはようやく傍らにあるはずの重みの不在に気がついた。 首を動かすまでもなくシーツに落ちかかった影に目が止まる。いちいち考えずとも影の出どころは明白だ。彼は音をたてずに寝台から降りて、裸足のまま進んだ。窓辺までたったの二歩。それだけで体温を感じられるほどに距離が縮まる。あとは、手を伸ばすだけ。 「……なんだ、起きたのか」 腕の中の女は動じた様子もなく一言つぶやいた。細く開いたカーテンの隙間から月が見える。 「三日月か。……それにしちゃやけに明るいな」 「目が慣れているからだろう。それに、そうでなくとも月というものは意外に明るいのだぞ。星の光を弱めてしまえる程度にはな」 つぶやきに対して返された知識はとうに知っているものだった。だが与えられた会話のきっかけを敢えてつかむことはせず、代わりのようにアルノーは華奢な肩口に顔をうずめた。 寝巻きとして流用しているバスローブの隙間から、するりと指先がもぐりこむ。動きに合わせ、双丘は自在にその形を変える。ゆっくりと愛おしむような愛撫に、彼女は抵抗の意思を見せなかった。されるがまま、ただ身を任せている。ときおり洩れる切なげな吐息は未だ嬌声には追いつかない。硬くなり始めた蕾にはそ知らぬふりで、彼はその肌をまさぐり続けた。 やわらかな胸の曲線をたどり、ただれてはいても引き締まった腰へ。 そして、その先へ。 「!」 埋もれた指が潤んだ熱の最奥を探り当てたその瞬間、がくりと膝がくずおれた。 「……大丈夫か?」 「ん……」 乱れた息も整えぬまま、ひっぱりあげるようにして向き合う。どちらからともなく重ねた唇は甘かった。 そう、甘い。きっと錯覚にすぎないのだけれど、それでも事実甘い。触れるほどに近づいたまつげが月光を弾いて銀色に輝いた。差し込む角度が違うはずなのに、その光はやけにはっきり認識できる。一心不乱にからめられる舌を強く吸うと、首に回された腕に力がこもった。 つながる糸の軌跡を追う暇もなく鎖骨に口づけが落ちる。なんだかやけに長い。 「ラクウェル?」 名を呼んでも返事はなかった。伏目がちにその行為を終えたラクウェルは確かめるように彼の肌を眺め――そして、眉をひそめたように見えた。 「なんだよ」 これは不満の顔だ。思いどおりにいかなかったと、彼女は舌打ちせんばかりの勢いでアルノーの身体をにらみつけている。何がしたかったのかよくわからない。 「おい、ラクウェル」 「痕がつかぬ」 「……はあ?」 今までしていたことも状況も忘れて彼がうなったとて無理はないだろう。色白なのだからもっとくっきりついても良さそうなものを、などと言われては返す言葉もない。要するにラクウェルは、いつも自分がされていることを相手に試してみようと思ったに違いないが――いやでも悔しがるところなのかそこは。 回り始めた思考の最後でこっそりと突っ込んで、アルノーは深く嘆息した。無防備なふくらみに顔を寄せ、思いきり吸う。 「んっ」 突然の刺激に身を震わせるラクウェルは、しかし不本意そうだ。胸元を見下ろしてかすかに唇を尖らせたところを見るに、これは相当。 「…………コツがあるんだよ、これは」 「ほう」 「いや、ほうとか言われても。いまいち言葉じゃ説明できん」 本当に頭がいい人間というのは、難しい言葉をただ並べるだけではなく、それがまだわかっていない人間に対していかに易しく説明できるかどうか、理解させることができるかどうかが分かれ目なのだとアルノーは思っている。もちろん自分はそちらの方面に適性があると自負しているけれど。 それでも理屈ではなく感覚でこなしていることを改めて説明しろと言われると困るのだ。そもそも口に出すようなことか。ラクウェルが照れる顔を見るのは楽しいが、今の彼女に何か言おうものなら、一言一句聞き逃さずそのとおり実行するに違いないのだからして。さすがにそれはどうなのだろう。なにもひたすら受身でいろとは言わない、しかし、どうにもこうにも。 口をつぐんでしまった恋人に、彼女は追及をあきらめたようだった。押された肩が枕に沈む。長い髪がすべり落ちてきて、さらさらと胸をくすぐった。濡れそぼったその場所が腹に押しつけられて、否応なしに下腹部に熱が集まる。彼は慌てて寝台に手をついて身体を支えようとがんばった。 「ちょっ、お嬢さん、馬乗りですか」 「……じっとしていろ」 先ほどとは反対側の鎖骨で、ちゅ、と音がした。納得いくまで練習台にしようという腹積もりなのだろうが、とにかく心臓に悪い。 やわらかく密着した全身が、動きにあわせてこすれあい、刺激になる。少しでも離れようと身じろぎすれば、甘酸っぱい汗の香りがして頭の芯を痺れさせた。痕なんてつかなくても、口づけされた場所はそれだけでじんじんと疼くのだ。無意識にか細い指先がつと肌をなぞり、彼はびくりと全身を震わせた。歯を食いしばって、洩れ出る声を抑えこむ。 触れたい。 入りたい。 繋がって。 だめだ。 もう。 これ以上――――……! 「できた」 低い声が、どろどろ溶け始めた彼の思考をすくい上げた。いつのまにか閉じていた瞳をこらして自分の身体を見下ろす。ちいさいが、確かに痣はついている。続けて見合わせた顔は子どものように誇らしげに緩んでいた―― さすがに、限界、だった。 アルノーはものも言わずに両手で細腰をつかみ、下ろした。 「ッ!!」 ラクウェルが息を詰める。すでに準備の整っていたそこは、難なく彼を受け入れた。間髪入れず始まった律動の中、必死で伸ばされる腕がつかまりやすいように抱き寄せる。 銀髪が乱れて、静かだった空気をかき乱した。 「やっ……! んっ、く、……あ、ぁん、はあぁ………っ!」 抗議の声もない。抗う素振りも見せない。ただ快楽をやりすごすことに夢中で、経過すらも把握できていないだろう。 少しだけ、ほんの少しだけ申し訳なく思いながら、それでもやめない。熟れた果実のような熱さとやわらかさがアルノーを包みこむ。汗と一緒に涙が散って、その冷たさがやけに新鮮に感じられた。滴り落ちるものを舐めとると同時に所有の証をいくつも。どこに刻み込んだところで、決して陽の下にさらされることはないのだけれど。 行き場のない欲望のはずだった。それがこうして受けとめられて、どころか、この行為までが日常と化した。 切なげな喘ぎが身の内を焼く。比例するように触れあった部分が熱く潤んで混ざり合って、世界が数瞬真っ白に見えた。名を呼べば、返ってくるのは間違いなく微笑み。 このままひとつになれればいい。この瞬間が、永遠に続けばいい―――― 推し量るまでもなく、機嫌がよろしくないのはわかっていた。 それはまあ、確かに。数分を費やして、彼女なりにおそらく工夫も凝らしたのであろうその成果をじっくり見極めることもせず、おもいきり突っ走ってしまったのだからわからないこともない。 頬をふくらませるわけでもなく、ただじとっとした目つきで睨んでくるのを、アルノーは視線をそらして受け流した。 「苦労したのだぞ」 声がなんだかおどろおどろしいのは気のせいだろうか。 「おまえにとっては簡単なことだろうが、私にはとても難しかったのだ。やっと成功したというのに……こら、聞け!」 「聞いてますって」 短い髪を引っ張られて、しぶしぶながらも返事をする。決してないがしろにしようとは思わないが、さすがに眠くなってきたのだ。よく働かない頭ではうまい言い訳も浮かばない。あくびをかみ殺しつつ、彼は投げやりに言い放った。 「あーもー、どうせ今日限りってわけでもないだろ? 好きなだけ練習させてやるからさ」 「そ、そうか? ……って! 私が言っているのはそのようなことではなくてだなッ!」 彼女らしからぬ、冷静さを欠いた説教の声を聞きながら、アルノーはちらと窓のほうを見やった。月はまだ外を明るく照らしているようだ。反面思考は闇に沈みかけている。まぶたも重い。全身を流れる血が次第にゆっくり落ちついていくのが自分でもわかる。 夜明けまで、あと少し。 --END. || INDEX || (05.10.07) |