一ヶ月、一ヶ月で戻ってくると彼は言って家を出た。
 彼のいない、長いような短いような時間を過ごしてそして。




 約束どおり、きっかり一ヶ月目にあたるその日に彼は帰ってきた。







満足とは。









 がちゃり、と玄関のドアのノブが鳴る。すでにやるべきことはすべて終えてしまって居間で暇を持て余していたメルディは、はっとして顔を上げた。
 人気のない家の中。明かりを点すにはまだ少し早い、けれどそろそろ陽が落ちて濃い暗闇が漂い始める時間。
 がちゃがちゃと続く音に、少しの不安と期待を持って扉を見つめる。この後聞こえる音が呼び鈴ならば客――もっとも、呼び鈴も押さずにノックもなしにいきなり入ってくる客など知己にはいないけれども――そしてもしも鍵の開かれた音ならば彼。
 今日には戻ると言い置いて出かけたきり、一ヶ月間声さえ交わすこともできなかったキール。
 メルディは居間のソファに座ったままじっと耳をすませた。知らず騒ぎ出す心臓とは逆に息は潜めて、姿勢を低くして。はたから見ればあたりを警戒している小動物のように。



 カチリ。



 静かな部屋の中で、鍵の回った音がやけに鮮明に響いた。視界に飛びこんできた白と青紫色に、メルディは跳びあがって歓声をあげた。
「……ワイール! キールぅっ!」
 一瞬で駆けより、飛びつく。
「っ!? っぐ、げほっ! げほげほ!」
 キールはいきなり胸元に走った衝撃に面食らって激しく咳きこんだ。頭ひとつぶんの身長差があるメルディと並ぶと、彼女の頭はちょうど胸のあたりに来る。メルディはいちどきに肺の空気を絞り出されて背を丸める彼の背中を慌ててさすった。
「き、キール……ごめんな、ごめんな」
「けほっ……」
 キールがむせながらも苦笑して後ろ手に扉を閉める。怒ってはいない、と身振りで伝えられて、メルディはほっとしたような笑みを浮かべた。
「……ただいま」
「……キール。おかえりな」
 背伸びして白い頬に口づける。お返しとばかりに自らの頬にも降ってきたやわらかい感触に、身体が心地よく温まってくる。
 こみ上げてくる幸福感に、メルディはほう、とため息を漏らした。それを聞きつけたのかキールが瞳を細めて顔を覗き込んでくる。
「目……瞑ってろ」
 言ってキールはそっと細い頤に片手を添えた。徐々に顔が近づいてくる。彼の意図を悟ってメルディは頬を染めたが、抵抗はしなかった。
 薄く開かれた唇から吐息が流れ込んでくる。
「……ん」
 ドキドキと鼓動がうるさい。大きな手のひらが、まるで壊れものでも扱うかのように優しく優しく頬を覆う。一層強く舌を吸い上げられて、彼女はおもわずキールの服を握り締めた。
「っふ?……ぅん、ん……」
 首を振っても唇は離れない。ますます深く、熱が入り込んでくる。
「んっ……ん、ん!」
 頭の中には霧が立ち込めて、思考はだんだんと白くかすんで見えなくなる。
 駄目だ。
 何も考えられない。
 いつもならそれでもかまわないのだが、今日は駄目だ。このまま流されてしまっては。
 だって、今日は。
(ダメ……ちから、はいらないよぅ……)
「……メルディ……」
 腕の中の身体から力が抜けていくのを見計らって、キールはすばやくメルディのワンピースの裾から中に手を滑り込ませた。
「やっ…………ダメ!」
 びくりと弾んで反射的に逃げ出そうとする肢体を片手でがっちりと押さえ込み、腿の内側をなぞる。目的の場所にたどりついた指先が違和感を訴えて、彼は指を止めた。
「……メルディ?」
「ん、もう!」
 愛撫からとりあえず解放されて、メルディは真っ赤になって荒い息をつきながらその場に座り込んだ。一緒にしゃがみこんで首をかしげている彼に唇を尖らせる。
「おまえ、今日……」
「〜〜〜〜〜っ!! そうよぅ! 今日はダメ!」
 メルディは半ば八つ当たり気味に叫んだ。
 もちろん自分だって、キールに触れてもらうのは嬉しいし気持ちいいし、何より幸せだ。けれど、女性の身体には『都合』というものがあるのだ。いつもいつも準備万端、というわけではない。せっかく一ヶ月ぶりに、やっと、ようやく触れあえる機会ができたというのに、まさかこんな障害にぶち当たるなどとは予想だにしていなかった。
「……そういえばそろそろだったっけ?」
 どこか遠くを見つめながら発されたキールのつぶやきに、メルディは恨みがましそうな目で彼をにらみつけた。自分の身体のリズムまできっちり把握しているというのなら、普段からそれを忘れないでいてくれればいいものを。一度引き上げられた体温はなかなか元には戻らない。これから約一週間もの間、この疼きを抱えたまますごさなければならないなんて、ひどい話だ。
 不機嫌極まりない表情で自分を見ている彼女をちらと見て、キールは何かを決意したかのように一度うなずいて立ち上がった。
「……うん。まあいいか」
「なにがか? …………ひゃあっ!?」
 勢いよく抱え上げられてメルディは悲鳴をあげた。一気に視界が高くなる。驚いて見上げると、キールは軽くメルディに口づけて、にやりと唇の端を持ち上げた。
「寝室行くぞ」
「……ふえぇっ!?」
 彼女はじたばたと暴れてなんとか逃れようとしたが、もちろんそれは無駄な努力だった。













「うきゃっ!」
 どさりと寝台の上に投げ出されて、メルディは短く悲鳴をあげた。逃げ出す暇もなくキールがのしかかってくる。
 すでに慣れた重みではあったが、彼女は焦って広い肩をぽかぽかと叩いた。
「だからぁ! 今日はダメっていってるよう〜!」
 彼はちゃんとわかっているものだとばかり思っていたのに。それともわかっていてやっているのだろうか。
 ……だとしたらたちが悪いが。
 キールは必死に自分の下から抜け出そうとする細い身体を掻き抱いた。
「んっ! んんっ……んん〜〜〜!!」
 いくら彼が男性としては非力なほうだとはいえ、メルディの抵抗などたいしたものではない。あっさり動きを封じて、思う存分甘い唇をむさぼる。
 メルディの身体から完全に力が抜けきってから、キールはようやく彼女を解放した。
「……ダメ、だって、いってる、のにぃ……」
 息も絶え絶えの抗議が空気を震わせ、お互いの唇を繋いでいた銀色の糸を切る。
 キールは汗でまとわりつく上着を脱いで脇に放り、今度はそっとメルディを抱きしめた。
「……触れるだけだよ。しない。……それじゃ、駄目か?」
 愛しくて仕方がない、といった風情の声でささやきかけられ、頭をなでられる。
 そうだ。ふわふわと髪の中を動き回る手の心地よさにメルディは目を細めた。
 自分たちは、一ヶ月間離れていたのだ。
 触れるどころか声を聞くこともままならない状態で、何度恋しく思ったことか。それは自分だけではない、彼とても同じこと。ようやく触れあえる機会が訪れたというのにかなわないなんて。
 それならばせめて。
「……さわるだけよ?」
「うん」
 そっぽを向いて、怒ったような口調で言ったのに、返ってきたのはそれはそれは嬉しそうな笑顔だった。













 セレスティア製の衣服は動くたびにさらさらと涼しげな音をたてる。脱ぎ着の際にもそれは同様で――薄いレースの袖から腕を引き抜くと、かすかな衣擦れの音が聞こえた。
 一月ぶりに抱きしめる愛しい女性の肢体は、記憶の中と変わらず細くしなやかで、ちいさくて、彼の中の衝動を容易く呼び起こす。少し上体を起こして見下ろすと、首筋から胸元にかけて花びらのように痣がいくつも散らばっていて、キールはかすかに頬を染めた。彼女の許しを得た後に、どこに口づけたかなどいちいち覚えてはいない。それなのに目の前には、彼が為した行為の証拠がしっかりと横たわっている。
「……きーる……?」
 手が止まったのを不審に思ったのか、メルディが薄く目を開いて身じろぎした。
「どうかした……っきゃんっ!」
「なんでもない」
 キールはすばやく彼女を抱き寄せ、やわらかなふくらみの間に顔をうずめた。なめらかな肌に舌を這わせながら徐々に位置をずらす。刺激が淡紅に染まった蕾に達した瞬間、華奢な肢体がびくりと跳ねた。
「やっ……あ!」
 荒い息遣いとかすれた喘ぎにむくむくと欲望が身をもたげてくる。引きつって痙攣する脚を今すぐ押し開いていつものように果ててしまいたいのはやまやまだったが、そういうわけにはいかない。
 せめてもの代わりに、強く力を込めて抱きしめる。















 ひときわ強く抱きしめられた後、緊張した腕が一気に弛緩していくのを感じとって、メルディはぐったりとよりかかってくる身体をそっと押し返した。
 なんだか膝のあたりが熱い。
「……キール。キール」
「…………ああ……悪い……」
 気だるそうに前髪をかきあげ、キールが起き上がる。やけにすっきりした様子の彼を見て、メルディはぷうっと頬を膨らませた。
 仕方がないのはわかっているのだ。わかっているのだが、やはり少し悔しい。
 だって、キールばかりずるい。自分は、さんざん愛撫されて溶けきった身体の芯は未だに彼を求めて疼いているのに。
 当然のように抱き込まれ、耳元で聞こえ始めた寝息に彼女はこっそりため息をついた。









 結局キールは、次の日からも彼女を放してはくれなかった。
 つまりは、中途半端に抱かれる日々がおよそ一週間続いたことになる。
 一週間。長くはないが、短くもない。







 嬉しいけれど、腹が立つ。
 そんな複雑な恋人の心情に彼が気づいていたのかどうかはまた別のお話。
















--END.







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