きっかけが欲しかったのだろう。
 想い以外の、何か。
 想いだけを口実にするには、かの少女は無垢にすぎたから。







夏の夢








「やっぱりちょっと暑いねえ」
 一流大学構内の中庭で、珪は隣に座る人物の声に反応して今まさに降りそうになっていたまぶたを持ちあげた。
 少しばかり奥まった、校舎の死角になった場所。抜け道代わりに使う学生がときおり通るだけで、人の気配はほとんどない。茂った樹木で日当たりが悪いために少しばかりじめじめしているが、夏場は涼しい。
 日差しが次第に強くなってきた季節、いくら太陽の光が大好きな二人とはいえ直射日光の下にじっと座っているのはきついから、わざわざ構内を歩き回ってみつけた場所だったのだけれど。
 風が通らないぶん、じっとりした空気がまとわりついて湿度の高さをいやでも認識させる。
「ねえ、やっぱり移動しよっか?」
 汗ばんだ肌が気持ち悪いのか、深悠は手でしきりに首筋をなでながら傍らの珪を見上げた。そこここに萌えたつ翠と同じ色の瞳が、一度隠れてから再び現れる。その一部始終を見守っていると、彼はやがてゆっくりとうなずいて立ちあがった。
「……午後、講義なかったよな?」
「あ、うん」
 手を差し伸べる。なんのためらいもなくつかまってくる深悠に穏やかな微笑を向け、珪は彼女の持っていた缶ジュースを奪い取り一気に飲み干した。
「暇なら俺のうちに来ればいい……新作のラフ画、見せてやる」
「え、ほんと?」
 承諾なくジュースを取られてしまって唇をとがらせかけていた深悠が、ぱっと笑顔になる。かばんを胸に抱きしめてうきうきと自分の後をついてくるその姿を振りかえりながら、彼はこっそりと苦笑した。



 想いを確かめあってから、すでに半年近く。



 自分が彼女に抱いているのはまぎれもない恋愛感情なのだと、そしてそれは容易に狂暴な欲望へと変化する類のものなのだと、そう理解したはずなのに深悠は相も変わらず無邪気に誘いに乗ってくる。今だって、台詞の中には多少の下心を込めてみたつもりだったのだけれど。まったく伝わっていないらしい。
 ……抑揚に乏しい声にも原因はあるのかもしれないが。
 大切にしたいと思いながらも、理性を保つ自信がないままに恋人を部屋に招き入れる。
 珪は目を細めて真っ青な空をあおいだ。















 高校時代と同様に、がらんとして人気のない家。一世帯が住むに充分以上の環境を有したそこは、けれど少しだけ様変わりしていた。
「……すごいねえ」
 物置兼作業部屋なのだろう、二畳ほどしかない部屋の扉から顔だけ入れて感嘆の息をつく。ラップに包まれた粘土。電子レンジのような形をした焼却炉。新聞紙の上に抜き身で置かれているやすり、開かれたままのスケッチブックの上には黒いコンテ。これ以上ないというほどにちらかった室内で、そこだけやけに整然とした本棚を珪ががさごそとまさぐっている。
「先に俺の部屋行ってて」
 背中から発された声に見えないとは知りつつもうなずいてから、深悠は踵を返して階段を一気に駆けあがった。自宅と同じ、木造の床を蹴る音が響く。ちょっとしたところに共通点をみつけて、彼女はほわわんとした心を抱えてすでになじんだドアノブを回した。
 ぼすん、と音がする。
「んん?」
 深悠はしゃがみこんで、今しがた床に落ちたワイシャツをハンガーごと拾い上げた。珪には珍しい、ボタンのたくさんついた服だ。もちろんそれは単なる好み(選り好みだが)の問題で、実際このような形態の服を身に着けなくてはならない局面は多いから、別段不思議ではないのだけれど。
 彼女はハンガーを持ったまま部屋の中央まで移動した。タイミング良く部屋の主が現れる。
「珪くん、これボタン取れかけてるね」
 その部分を強調するようにつまんで示してみせると、彼はちらりと視線をやってからちいさくうなずいた。
「……ああ。直そうと思ってかけてたんだけど……」
「めんどくさくてついついそのままだった、と」
「…………」
 こくり、と薄茶の頭が上下する。なんだか子供のようなその仕種に、深悠はついつい口許をほころばせてしまった。
「しょうがないなあ。……じゃあ、わたしが今直してあげるよ」
「あ、じゃ針……」
 せっかく落ちつかせていた腰をあげて珪がクローゼットを開ける。
「あ、あ大丈夫! お裁縫セット持ってるから」
 長い足の間からきっちりと整理されたクローゼットが垣間見えたが、さっと見た限りではそれらしいものの姿はなかった。いちいち時間をかけて探させるよりは、自分のものを使ったほうが早い。たかがボタンだ。
 あっさりあきらめて戻ってきた珪の視線を感じながら、深悠は電話やら財布やら、こまごまとしたものが入ったバッグのポケットをのぞきこんだ。
「……これ、かな?」
 布製の小さなポーチが出てくる。引き紐にひっかかって何か薄いものが床に落ちた。
「深悠、何か落ちた」
「ん? あー、のどあめの箱かなあ?」
 のんきな声で糸を出す。くるくると糸巻きを回す彼女をちらりと見返して、それから手の中のものに視線を戻して。珪は困ったように口ごもった。
「……。いや。食べ物じゃない、と、思う。……たぶん」
「そうなの? なに?」
「………………医療用……に、分類されるのかも」
「医療用?」
 訝しげに首を傾げ、ようやく顔をあげた深悠の目の前に、彼は紙箱を遠慮がちに差し出してみせた。
「コンドームって書いてある」
 深悠の手から、糸巻きが落ちてころころと床を転がった。











「ええええええぇえッ!? なんでそんなものがわたしのかばんの中に入ってるのーッ!?」
「いや、俺は入れてない……」
「うん、それはわかってる」
 ちいさな反論に即座に冷静につっこみを返して、それから深悠はまた今しがたのやり取りがなかったかのように腕をばたばた振りまわして動揺のままに暴れまわった。奇声はあげるわ、表情はめまぐるしく変化するわ。ここが往来ならば、まず間違いなく救急車を呼ばれてしまうところである。
「…………あのときだ」
 両腕で頭を抱えて部屋の隅まで転がり、壁にぶつかったとき。彼女は唐突に低い声でうなり、がばっと起きあがった。
「………………使ったのか?」
「そんなわけないじゃないーっ!!」
 わたしが好きなのは、珪くんだけだもんっ!
 涙目ながらもきっぱり言いきられ、珪はうっすらと頬を染めた。戸惑う彼の様子にも気づかず、深悠が必死で言い募る。
「ちがうのっ! そうじゃなくてね、この前奈津実と遊んだときもこのバッグででかけてね、それで、それでそのとき……」
 別れるときに、にやにや笑いとともに押しつけられたのだ。そのとき一緒にささやかれた言葉はよく覚えていないけれど、こんなことを言っていた気がする。
 ――いつどうなるかわからないんだから、持っといて損はないでしょ?
 そのときは恥ずかしいやら憤慨するやらで、ろくに反論できなかったのだけれど。後で出しておこうと思ったのを忘れて、そのまま持ち歩いてしまっていたらしい。
 よりにもよって、こんなときに。これではまるで、何かが起こることを期待してついてきたと宣言しているようではないか。
 今更ながらたまらなく恥ずかしくなって、深悠は両手で顔を覆った。
 目許が熱い。涙がにじむ。
 きっと珪は呆れているだろう。見られたくない、こんな――――



 唐突にふわりとしたものに包まれて、深悠はぎゅっと閉じていた目を見開いた。














 ただでさえ熱くなっていた身体が、ひやりとした空調の風をさえぎられて熱の逃げ場をなくす。こもり始めたそれは、内を循環するにとどまり――巡るうちにどんどんどんどん温度があがってゆくのを、深悠は鮮明に自覚した。
「深悠。……泣くな」
 いつもと変わらない、いやいつも以上に優しい優しい声が降ってきて思わず顔を上げる。もちろん視界に入るのは、味気ない白い壁のみ。貼られたカレンダーの仔猫が、無邪気にたんぽぽの花をつついている。丸い瞳がにじんでゆがむ。
「……泣いてないもん」
「声が泣いてる」
 吐息のように静かな声音には恐れていた軽蔑の色は含まれておらず、深悠は震える手を珪の背中に回して彼にぎゅっとしがみついた。
「……あきれてない?」
「なにが」
「あきれてない? あきれてない? ……いやらしい子だって、おもわなかった? いや」
 遮るように唇をふさがれる。
「……んっ……? ん、ん……っ」
 深悠は目を白黒させて珪のTシャツをにぎりしめた。
 深く深く忍び込んでくる吐息に、思考がめちゃくちゃに乱れる。酸素不足を意識しながらも離れてしまう唇が恋しくて、乞うように突き出しては奪われた。繰り返す、何度も。
 何度も。
「け……くん……」
 いつのまにか全身の力が抜け、床に肩を押しつけられる恰好になっていた。薄く色づいた涙の後をなぞり、首筋に口づけの痕を残す。ぴくりと反応する肢体に珪は一瞬躊躇して視線を落とした。それでも恋人はおびえの片鱗すら見せず、上気した頬でうっとりと微笑むだけ。心臓が大きく脈打ち、彼は息を詰めた。
「……使うか、あれ」
 何とは言わずに、けれどこの後起こることを十二分に予想させる言いまわしでささやく。
 こんな言い方、卑怯だと思う。思うけれど、けれど。
 深悠がぽっと目じりを紅く染めて顔をそむけた。
「…………好きなんだ……」
 独白のような台詞に。
「わたしも、すき」
 まっすぐな瞳と、聞きたかった返事が返ってくる。



 それが、合図になった。



















 なにもかも、かすみの中のできごとのようだった。
 ただ夢中で、夢中で、甘い蜜と痛みに同時に翻弄されながら。
 互いの名を呼んで、瞳の色をやきつけて、ふわり、微笑んだ。
















「…………ん……」
 深悠はみずからのうめき声に誘われ、ふっと目を覚ました。
 部屋は暗い。開け放したカーテンの隙間を通り抜けて、月光が白壁を蒼く染めている。空調のタイマーはとっくに切れてしまったのだろう。ぬるま湯の中にいるような空気が妙にけだるく感じられて、彼女は額に貼りついた前髪を払おうと手をあげかけた。
 ぎゅ。
 なにかがするりと抜けてゆく感触に反応したのか、身体に回されていた腕の力が強くなる。
 少し視線をずらせばすぐそばには端正な寝顔があった。頭髪と同じく色素の薄いまつげがかすかに震え、呼吸にあわせて規則正しい鼓動も聞こえてくる。
「……あ……」
 自らの置かれている状況をようやく思い出し、深悠は一人赤くなった。熱くなった頬に手を当てたくても、珪がそれを許してくれない。声をかければ起きてくれるのだろうかと思わないでもないが、ずっと寝顔を眺めていたいと思うのも事実で。
 ほんの少し逡巡した後、深悠はわずかに首を振って珪の胸に顔をうずめた。しばらくはこのままでいい。起きたら起きたで、どう振舞えばいいのかなんてわからない。
 ああ、でも、カーテンは閉めたほうがいいのかも。光が目に当たってちらちらしたらきっと珪くんだって寝づらい……
 埒もないことを考えていた彼女は、だからすぐ上にある緑柱石の瞳が開いたことには気づかなかった。
「んっ……!?」
 唐突に唇を奪われて、驚いて目をみはる。同時に肌をまさぐりはじめた無骨な手のひらを感じて、否応なしに身体の芯がとろけてゆく。
「け……っい、くん……!」
「もう一回」
 無理だよ、と言おうとした言葉はのどの奥に閉じ込められて、かわりに出てくるのは甘い喘ぎのみ。
 抵抗する気をなくしたようにくたりと力を失った深悠をあらためて抱きなおして、珪は一瞬唖然とし――それから深々とため息をついて、シーツに顔を押しつけた。
「…………………………深悠……」
 すやすやと穏やかな寝息がすぐ近くに聞こえる。一体どういうタイミングで睡眠に移行したのやらさっぱりわからないが、ともあれ無理やり起こしてしまうには気が引けるほど幸せそうに眠っている。
「……ぅにゃ……」
 むにゃむにゃと聞き取れない寝言をつぶやいて桜色の唇が笑う。
 熱が暴走しかけたところに水をさされ憮然としかけていたものの、あまりに無防備な寝顔につい笑みがこぼれた。はっきりしない視界の中、しみじみと見つめる。白い肌に点々と散る花弁はまぎれもなく自らがつけたもの。行き場をなくしかけていたこの狂暴なまでの想いを、間違いなく深悠が受け止めてくれた証。
 珪は華奢な肢体を細心の注意を払って腕の中に包み込んだ。汗ばんだ肌がぴったりと重なって、ひとつになったような錯覚さえ覚える。
 まぶたを閉じて訪れたのは、もちろん暗闇だったのだけれど。
 夜中ふと目を覚ましても、ひとりきりでは決してない。



 彼女が、いてくれる。
















--END.







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