彼女にとっては、同じことでも。
 自分にとっては、それははなはだ異なるものであったのだ。







視線の向く先








 モーター音。地の底から、響いてくるような。
 閉めきった窓の外からはかろうじてせみの鳴く声が聞こえて、部屋の温度とは裏腹に季節は夏真っ盛りであるのだと教えてくれる。
 空調をめいっぱいに効かせた自室で、深悠はもうすっかり馴染みの客となってしまった恋人――珪と二人で、穏やかな時間をすごしていた。
 会話はない。珪は無口だから、深悠が口を開かなければそもそもの始まりすらあり得ない。けれど沈黙が苦痛となるような関係はとっくに通り越していたから、彼女は特になんの違和感もおぼえずに無言で手の中の雑誌に目を落としていた。
 ページを繰る。ふと、さきほどからずっと肩に乗せられている重みが気になった。
「……ねえ珪くん」
 首を回すことはできないから、前を向いたまま声だけ出す。「なに?」と耳元にかかる吐息にくすぐったそうに身をよじってから、深悠は読んでいた雑誌から手を離して膝の上に置いた。
「温度、もうちょっと上げようか?」
 寒いんでしょう?
 いくら外がうだるような暑さだとはいえ、冷房の威力はすさまじいものがある。六畳ほどのワンルームマンションなど、空調さえかけてしまえばそれこそ極北の地のように寒くしてしまうことも可能だ。外から帰ってきたとき、空気のよどんだ室内はそれはもうとても心地の良いものとは言えなかったから、一気に温度を下げてしまおうとしたのだけれど。
 どうやら下げすぎたらしく、涼しくなり始めたころから珪は深悠にべったりくっついていたのだった。後ろから抱きつくようにしてあごを彼女の肩に乗せて、左腕は腰に回して。おまけに右の手のひらはやわらかなふくらみを包みこむように押し当てられている。
 最初はさすがに悲鳴をあげかけた深悠だったが、それきり彼が動こうとはしなかったので他意はないのだろうと放っておくことにしたのだ。甘えたがりはいつものことだし、下手に拒絶して臍を曲げられては目も当てられない。機嫌が悪くなると即座に実力行使に移る恋人を持つ身としては、些細なことなど気にせずにいられるだけの大雑把さが必要だ。恐らくは。
 そうして半刻ほど、彼女は何も言わずに黙々と雑誌を読んでいた。記事に目を通すたびに微妙に変わる表情を、間近にある珪の瞳がやわらかにみつめていることなどもちろん気づきもせずに。
 だが、あまりに長い間べったりくっついていられたため、さすがに居心地が悪くなってきた。
 だいたい今のような体勢、戸外では絶対に許しはしない。ここが自分の部屋で、他に人がいないとわかっているからこそおとなしくしているのだ。極力静かに呼吸しようと努力しているらしいが、やはり吐息がふわふわと後れ毛を揺らし、そのたびにくすぐったさを感じるし。胸に置かれた手のひらは、彼の気まぐれひとつでいつ動き出すやらわかったものではないし。
 口実でもなんでも設けてさっさと離れてしまえたらどれほど楽だろう。
 そんな彼女の思惑も知らない風で、珪はゆったりと頭を持ち上げ――今度は背中に額を押しつけた。
「……ん。…………べつに、いい」
「あ、そう……」
 試み失敗。心の中で行儀悪く舌打ちをするものの、心底から嫌がっていたわけではない深悠は軽く息をついただけで再び雑誌を取り上げた。
 ぱらぱらとめくられるページには、色とりどりの服を着て華やかに微笑む少女たちの写真ばかり。女性向けの一般的なファッション誌だ。彼女はあまり流行は気にしないたちで、自分のいいと思ったもの、自分に似合うと思ったものを選んで着るようにしている。けれど個人的な感覚だけでは好みが偏ってしまうかもしれないとも思っている。それに雑誌のモデルたちはさすがに隙のない着こなしをしているから、おおいに参考になる、というのも理由のひとつだ。
 そして、残りひとつの理由は。
「……あ、あった」
 深悠は知らずつぶやいて顔をほころばせた。ページの端にでかでかと印刷された文字は『葉月珪インタビュー』とある。大学入学以来少しずつモデルの仕事を減らして自然にさりげなくその世界から消えてゆこうとしている彼は、けれどとりあげられる機会が減った今でもかなりの人気を誇っていた。
 彼がモデルをやめたがっているという話はすでにファンの間では周知の事実であり、それならばどういう道に進みたいと考えているのかが今度は興味の対象になる。以前聞いたときとは違い、"はい""いいえ"だけですませずにちゃんと答えたと珪自身の口から聞いた深悠は、ぜひともその記事を見てみたいと思っていたのだった。
 背後で珪がかすかに眉をひそめたのにも気づかず、上機嫌で文章を追う。
 だいたいは予想していた内容。宝飾デザイナーになりたいのだという展望。
 今までこの手の噂を聞いたことはなかったから、多くの人たちはこの記事で初めて珪の夢を知ったのだろう。そう思うと勝手に顔が笑ってしまう。
 自分と彼らの間には三年という長さの時間が横たわっているのだ。
 高校の、再会してまだ間もなかったころ。友達と呼ぶにも戸惑いを感じていたあのころ。けれど珪は自分の問いに嫌な顔ひとつすることなく正直に答えてくれたのだ。そのときはそれが当然だと思っていたから、嬉しさなんて感じることはなくて――でも、今思えばあれは彼の精一杯の誠意だったのだと思う。
 呼べば振り向いてくれて。聞けば教えてくれて。
 なんの疑問も持たずにその特権を享受していた。
 深悠は深呼吸してからもう一度視線を落とした。後半はロマンスがどうだのという話になっているが、さすがにそのような記事を目の前で読まれるのはばつが悪いだろう。ろくに見もせずにさっさとページをめくる。と。
 笑顔が、飛びこんできた。照れくさそうに視線をそらせているけれど、これは間違いなく。
 笑っている顔。
「…………」
 深悠はあっけに取られて一瞬口を大きく開けた。珪のグラビアなどそれこそ何十回となく目を通しているが、笑っている表情など一枚もなかったような気がする。いつも挑むような厳しい顔つきと……もうひとつは、瞳を伏せがちにした憂い顔。それから遠くを眺めているようなぼんやりとした顔……。これは新境地というやつなのだろうか。
 ああ、でもいい顔だな。深悠はうっすらと頬を染めて微笑んだ。子供っぽい言動や食べ物の好き嫌いをからかうと、彼は決まってこんな顔をする。同時にぼそぼそと言い訳らしきものもつぶやいているのだけれど、それは大抵喧騒にまぎれてしまって深悠の耳には届かない。たまに聞こえても、知らないふりをしてみたり。そうすると、珪はすねてしばらく無言になる。そのくせしっかりとこちらの手を握ってくるものだから、それがくすぐったくて嬉しくて――……
 視界がものすごい速度で移動したことに気づいたのは、きっかりこの瞬間から十秒後のことだった。














「…………え?」
 背中にひんやりとしたものを感じる。今まで体温にあたためられていたそこには、冷えた板床は氷のようにも感じられた。
 後ろにあったはずの熱が正面に移動してきていて――緑柱石の瞳にひたと見据えられて、頬が少しずつ熱くなってゆく。
「珪、くん?」
 問いかけは最後まで発されないまま、口づけの中に溶けた。キャミソールの裾から差し入れられた手が肌をまさぐりながら昇ってくる。いとも簡単に下着がはずされてしまった瞬間、開放感を覚える間もなく柔肌に長い指が食いこむ。
「っふあ……!」
 深悠は思わず声をあげて身をよじった。慌てて自分で自分の口をふさぐ。いつの間にやら離れていっていた彼の唇は、今は剥き出しになった首筋から胸元を何度も何度も、ときに肌を湿らせながら往復している。吸われるたびに反応してしまう身体をどうにか制御できないものかと悪戦苦闘しながらも、彼女は必死で自らの指をくわえた。
 痛いけれど、痛いけれど。他に手段がない。
 細い指に歯型が浮かぶ。それに気づいた珪が手を抜き取ろうとしたが深悠は首を振って拒んだ。
「深悠……?」
 珪が愛撫を一時中断してのぞきこむ。彼女の潤んだ瞳は拒絶の色こそ浮かべてはいなかったが、それ以上に羞恥に染まっていた。
「……ほかの、へや……きこえちゃう……」
「……あ」
 蚊の鳴くような声で訴える深悠に、彼が目を見張る。そうだ、ここは深悠の部屋。学生用のワンルームマンションの壁の厚さなど、たかが知れている。夏季休暇に入って帰省していった住人もいるだろうが、残っているものもいるのだ。一人でぼうっとしているときに情事の気配を感じるなどたまったものではないだろうし――深悠のこんなに艶めかしい声など聞かせて良からぬことを企むものがいないとも限らない。今まで珪が彼女を求めたのは彼の家にいるときのことでしかなかったから、だからそのようなことを気にしたことはなかったのだが。
 だが。
「…………悪い。止まらない、俺……」
 珪はかぶりを振って白い胸元に顔をうずめた。見合わせた深悠の瞳は急にどうしたのと問うていたけれど、止まらないのだ。今更、止まれないのだ。
「だい、じょぶ……だよ」
 深悠が両の手のひらをしっかりと口許に当てる。あまりにも突然に求めたのに、ちゃんと応えてくれる気でいるのだと。愛しさが募って彼は腕いっぱいに華奢な肢体を抱きしめた。
 潤んだ肌。瞳。
 かすかに震える全身は桜色に染まっている。



















 おそるおそる、指を伸ばす。腿の内側をついとなぞると、深悠はぴくりと反応して首をのけぞらせた。
「……ぁ……」
 真昼の光に照らされたのどは白い。いつもならば身体を隠そうと動く腕は、もれ出る声を抑えることに手一杯でなんの障害にもならない。まろやかな曲線を思うさま眺めながら、珪は細い足を開いて身体を割り込ませた。
 熱は難なく奥まで飲み込まれて、深悠が無意識に身じろぎするたびに新たな雫が生み出されては流れ落ちる。奥を探るようなその動きに彼女は激しく首を振ったが、拒絶でないことはわかっている。





 どれだけ激しく動いても一向に外れない手がなんとなく痛ましく感じられて。




 ちいさな手を握りしめ代わりに舌をからめた。





 こぼれる喘ぎは、唇ですべて受け止められる。





 そして二人は、最初に決めたとおり声ひとつあげず同時に頂点に達した。





















 腕の中では、深悠がすうすうと安らかな寝息をたてている。
 いつのまにか腰の辺りまでずり落ちてしまっていたシーツをひっぱりあげ、珪は無造作に床に投げ出された雑誌に目をやった。開いているページは他でもない、彼自身の笑顔。
 あれはきっとインタビューの後半にいつのまにか撮られていたものに違いない。カメラを持ったスタッフこそいたものの、写真を撮るから笑顔を作ってくれとは言われなかった。話している間に適当に撮ったものの中から選んだのだろう。誰とは告げなかったけれど、深悠のことを話している最中に。
 間違いなく自分の顔であるはずなのに、珪は今まで自分があんな表情もできるのだなどと思ってはいなかった。せいぜい目許を緩めて笑っているくらいだろうと――鉄面皮はちょっとやそっとのことでは壊れやしないのだと。
 そんな認識が改められたのはたったさっきのことなのだが、同時にあの写真を見たときの深悠の変化にも驚いた。
 はにかんで頬を染めるさまは何度見ても飽きないほど愛しくて愛らしくて、けれどあの刹那彼女がその笑みを向けていたのは紙に印刷された自分だったのだ。そう認識した瞬間に嫉妬が湧きあがり、気づいたら唇を重ねていた。




 自分がいるのに。目の前に、いるのに。




 同じことだと、彼女は言うだろう。
 子供のように唇を尖らせて、どっちも珪くんなんだからいいじゃない、と言うだろう。
 確かに離れているときは、自分の写真を見て頬を染める深悠、などとこれ以上幸せな想像はない。



 けれどともにあるときは。そばにいるときは。
 その視線が射抜くのは、このこころと瞳でなければ。
 そうでなければ。
 満足など、できない。

















--END.







|| INDEX ||