此方と彼方。
 想いの強さはどちらが上か。
 秤にかけたら比べられる?







想いの天秤








 遅いな……
 メルディは落ち着かない気持ちで部屋の中を見回した。
 ベージュ系統の色彩ですっきりまとめられ、暑くもなく寒くもなく心地よくすごせるよう整えられた居間は、けれど人気がないためかさびしげな印象をぬぐえない。テーブルの上ではクィッキーが、丸まって青く長い尻尾に顔をうずめてすうすうと寝息をたてている。
 キールが仕事で遅くなるのは別段珍しいことではない。一人わびしく夕食を取ることだってしょっちゅうだ。それでも、遅くなるときにはかならず事前に連絡を入れてくれるのに。
 今日は、それすらもない。
 朝出かけたきり、顔も見ていない。
 もしかして何かあったのではないだろうかと思考がマイナスの方向へ働き始めたとき、がちゃりと玄関のノブが鳴った。
「キール! 遅いよ……キール?」
 すばやく戸口に駆け寄り鍵を開けたメルディは、しかし首をかしげた。彼が今朝着ていった服ではない。目の前にある色は。
 知らない、人間?
「……ッ……!?」
 深夜、来訪者の誰何もせずに鍵を開けてしまうなんて。無用心にもほどがあると、猛烈な後悔が襲ってくる。自分が危ない目に会うたびに、子供ではないのだから少しは警戒というものを覚えろと繰り返したキールの仏頂面が浮かんで消えた。
「悪いメルディ、びっくりした?」
 気が動転しておもわずポケットの中のクレーメルケイジを握りしめた彼女は、投げかけられた声が聞き覚えのあるものだということに気づいてほっと胸をなでおろした。
 見れば、キールが職場の同僚に肩を借りて立っている。ただし、地に足がしっかり着いていない。
「ほらキール、ついたぞ」
 彼はどっこらしょ、とキールの腕を持ち上げ、そっとメルディのほうへ押しやった。ぐらりと揺れる身体にあわてて手を差し伸べる。
 なんとか抱きとめると、ぷんとアルコールの匂いがして、彼女は物問いたげな視線で運んできてくれた青年を見上げた。
「……お酒くさい」
「……はは、ごめんごめん」
 キールはあまり酒は好きではないし、強くもない。それでもつきあいで飲める程度にはなっておかねばと、きついセレスティアの酒を味見していたこともあるが。
 すすんで酔いつぶれるほどの量を飲むとも思えない。
「何があったか?」
 多少詰問口調になってしまうのは心配だから。それがわかっているのだろう、同僚は怒りもせずに頭を掻いて苦笑した。
「ごめん。ちょっとうまくいかないとこがあってさ、煮詰まりすぎるのもアレだからってみんなで飲みに出たんだ。……でも、キールはそんなに飲んでないはずだから。少し休ませれば抜けると思う。酔ってる、っていうよりは疲れてるんだよこいつは」
 言って彼が肩をつつくと、キールはちいさくうめいて薄く目を開けた。
「……あ。ついたんだ」
 身じろぎした拍子に力の均衡がくずれ、メルディが重みに耐え切れず「きゃん」と悲鳴をあげて床に座り込む。
「じゃ、俺はこれで。そうそうメルディ、明日は休みにするってことで、話まとまったから。キールに言っといて」
 自身もずいぶん飲んでいるのだろうに、しっかりした足取りで青年は軽く手を振って行ってしまった。閉まった扉にとりあえず手を伸ばして鍵をかけて、それから胸元に顔をうずめたままじっとしている暗青色の頭を見下ろす。
「キール。キール……おきてな」
「ん……もうちょっと……」
「? なにがもうちょっとか……っ!」
 ごそごそと胸に顔をこすりつけられ、彼女は真っ赤になってキールの身体を思いっきり突き放した。
「やっ……やだ! キールえっち!」
 ごん、と鈍い音がしたがそんなことにかまってなどいられない。涙すらにじませて自分で自分の身体をかき抱いているメルディを見て、キールが後頭部をさすりつつうなった。
「……いまさらだって、思わないか?」
 彼の言葉にメルディはますます顔を赤らめてぶんぶん首を振った。確かに、キールにこの身体のすみずみまでも暴かれたのはもう一月以上も前のこと。夜毎繰り返される行為は、今では彼の方が彼女の身体をよく把握しているのではないかと思わせるほどに。
 それでも、自分からというのならともかく――照れ屋なはずの彼から仕掛けてくると、どうにも調子が狂ってしまうのが正直なところなのだ。
「……おふろ、はいってくるがいーよ」
 話をそらそうとあごで浴室のほうを示すと、キールはあっさりうなずいて立ち上がった。
 ふらふらしているが、手を貸す気にはなれない。座り込んだままぼんやりそちらを眺めていると、やがて水音が聞こえてきた。













 むせかえるようなアルコールの匂いはもうしない。石鹸の香りだけ。
 それを確認すると、メルディは上目遣いにキールを見上げてうなずいた。彼が安心したように寝台に仰向けに倒れこむ。
「……はあああ〜……疲れた……」
 心底から漏らされたらしいつぶやきに、メルディはおもわず微笑んでから立ち上がった。
「先に寝てていいからな」
 そう言い置いて明かりを落とし、数歩歩いて寝室のドアのノブに手をかける。



 と、後ろからぐんっ、と腕を引かれた。



「ひゃっ!?」
 人の力から離れた扉が徐々に閉まり、それと同時に廊下から漏れる光の筋も細く弱くなっていく。
 驚いてあげた悲鳴もまだ消えないうちに強い力で抱きすくめられ、唇をふさがれた。
「んっ……んんん――――!!」
 じたばた暴れて抗議してもやめてくれない。昇ってくる熱に浮かされてメルディがくたりと身体の力を抜くと、キールはようやく唇を離した。
「はっ……離し……あんっ!」
「なんで?」
 器用に一瞬で体勢を入れ替え、そのうえ淡い曲線を指先で軽くたどられ、彼女は息を弾ませながらも目の前の蒼をにらみつけた。
 しかし、紫の瞳はすでに熱に潤んでしまっている。キールにとっては衝動を呼び覚ます糧にこそなっても、歯止めとしての効果はないに等しかった。
「キールの、ふくっ……! 洗わなきゃ……」
 アルコールの匂いふんぷんたる彼の服は、未だ洗濯籠の中である。
「明日でいいだろ」
「つ、つかれてる、違うのか?」
 さっきまでふらふらだったではないか。こんなことをする体力があまっているとは思えないのに。
「わかってないな」
 キールは寝間着ごしに彼女の敏感な部分を探りながらにやりと口の端を持ち上げた。
「…………ぅん……」
 意思に反して甘いうめきが漏れる。
「疲れてるからこそ、だよ」
 言って首筋を這いまわり始めた舌の感覚に、メルディはふるっと身体を震わせてから力ない声でつぶやいた。
「…………えっち……」














 キールはしばらくの間メルディの着衣には手をかけず、ただ唇を重ねて貪り、ぼんやりと柔らかなふくらみを揉みしだいていた。
 目は開いたまま。滑らかな頬はすでに真っ赤に火照り、メルディは抵抗するそぶりも見せず完全に彼に身を委ねている。
「ん……はぁっ……」
 身じろぎした拍子に唇が離れた。
 まだたいしたことをしたわけでもないのに、耳元にかかった吐息は湿っていて、それが逆に霞がかかったようだった思考を冴えさせる。
 思い出したように薄手の寝間着のリボンに指をかけてほどいたとき、ぱっと頭の中にはっきりした形が浮かんだ。
「……そうか」
 キールは急に身を起こし、机の上のペンを取った。
 昼間、数人がかりで考えても浮かばなかった解決法。どうしてこんなに簡単に思いついたのか不思議なくらいだ。おもわず夢中で手を動かしていると、



 ぼふっ!



 頭に柔らかいものが勢いよく当たって落ちた。
 字がゆがんでしまう。枕をぶつけられたのだ。
 文句を言おうと振り返ったキールは、けれど涙をいっぱいにためた瞳ににらまれて、たった今まで自分たちがどういう状況にあったのかを思い出した。
「……あ」
 取り落としたペンが机をころころ転がって床に落ちた。硬質な物音がやけに長く響く。
 淡紫のふわふわ髪が零れ落ちた肩がわなわなと震えているのを見て、キールは冷や汗をたらした。
 さすがに今のはやばい……よな。
「キール、最低よー!」
 羞恥からではなく怒りに顔を真っ赤に染めて、メルディは怒鳴った。溢れ出す感情に、あとからあとから涙がこみあげてくる。
 自分は今の今まで、彼のことしか頭になかったのに。思考能力すらも奪い取られて、ただ全身を熱で満たすことしか出来なかったのに。
 キールの存在に自分のすべてが埋め尽くされていたのに。
 それなのに、キールは違った。
 メルディは乱れた寝間着をすばやく直した。そのまま部屋を出て行こうとしたところを後ろから抱きしめられたが、応じる気になどなれるはずがない。
「悪かった……」
「……離してな」
 ささやかれる声は心底後悔しているようだったが、だからといって到底おさまるはずもなく。彼女は低い声で拒絶の意を表した。身体にまわされた腕に力がこもる。それでも。
「離してな。……今日は、もうしない。キールおべんきょ続けるがいいよ」
「メルディ」
 顔が近づいてきて、肩口にちいさな跡が残る。おもわず甘い声をあげそうになり、メルディは歯を食いしばった。一度は止まったはずの悔し涙がぼろぼろと頬を伝って流れ落ちる。
 たったこれしきのことで、胸に芽生える甘さに怒りが萎えてゆく。
 悔しい。悔しい。悔しい――――……
 華奢な身体が大きく震え、彼女がしゃくりあげ始めると、キールはメルディを横抱きに抱き上げて寝台に戻り、座った。子供にしてやるようにひざの上に乗せて髪を梳く。
「……悪かったよ。無神経すぎた……」
「ムシンケイ、すぎ、よ」
 ひっくひっくと続く泣き声はやみそうにない。抱えた肢体のやわらかさに目覚めかけた衝動の行き場が見当たらずに困ってしまい、彼は断られるとわかっていながらもつい聞いてしまった。
「続き……だめかな」
「今日はもうしない!」
 間髪いれず噛み付くような勢いで返され、ひるむ。
「そ、そう……」
 いや、十分に予測し得た反応ではあったのだが。
「……だいた、い、キール、は、ずるい、な……メルディが、頭の中、キールでいっぱい……なのに、なんで、キールが、頭の中、はそう、じゃないか?」
 メルディはこんなにすきなのに、ひどいよ。
 ぐしゃぐしゃに乱れた髪が涙で頬に貼りつくのにもかまわずに、メルディは手の甲で顔をごしごしこすりながら泣き続けた。
 切れ切れの訴えをなんとか一続きの台詞として理解した瞬間、反論が彼の頭の中を駆け巡る。
 違う。
 彼女のことで頭がいっぱいなのは、むしろ自分のほう。
 だって、今日やっていた仕事に没頭していた理由のひとつには。
「今日のは」
 絞り出すような声音にメルディがついと顔を上げた。濡れて紅く染まった唇が視界に入り、キールは今すぐにでも目の前の肢体を蹂躙したい気持ちに駆られたが、それと同時に頬を伝う幾筋もの涙の跡に、そんな気になってしまったことに罪悪感を覚えて髪をなでるにとどまった。
「今日やってたの、新型のエンジンの設計図でさ」
「だからなにか」
 いきなり仕事の話をされ、メルディの声が不機嫌そうな色を帯びる。しかし、最後まで説明しなければわかってもらえないだろう。なにより自分の気がすまない。なだめるように背中をたたいて、続ける。
「今あるエンジンではバンエルティアのが一番なんだけど……あれ、職人技だから大量生産できないんだ。そもそも使われている物質が希少だしな。シルエシカの大型船のもやっぱり大量生産は出来ない」
「だからなにか」
「だからさ……春になったら定期船の就航が始まるんだよ。そうしたら、秋になるまではティンシアに行くのに定期船を使うんだ。それで」
「……」
 いまいち話の筋がつかめずに、メルディは眉をひそめて懸命にしゃべるキールの顔を見上げた。
「定期船、足が遅いんだ……バンエルティアの三倍、シルエシカの高速艇の二倍、だいたいそれくらいの時間がかかる。今みんなで大量生産可能な高速エンジンできないかって、相談してて……実現したら、定期船も速くなるだろ? そうじゃないと」
 シルエシカなどと約束を交わした場合、今までよりも早く家を出なければ間に合わない。必然的にメルディといられる時間が少なくなるのだ。
「だから、春になるまでに形だけでも作っておきたいと思って……」
 そうすれば出来るだけ長く一緒にいられるし……
 キールはもごもごと口を動かした。
 言い訳にしかならないのはわかっている。一度研究に熱中してしまうと頭の中から彼女の存在が締め出され、数式だけがひたすら並ぶこともしばしば。
 それは自覚している。
 でも、そうかと思えば会いたくて、触れたくてどうにもならずに一人仕事中に物思いにふけることがあるのもまた事実。
 自分をつき動かす大きな力、その根底にいくつも存在するもののひとつは他ならぬメルディなのだと、それだけは知っておいてほしい。都合のいい願望だということは、重々承知しているけれど。
「……キール」
 不思議そうに顔を近づけてくるメルディの寝間着の襟からちらりと胸元が覗き、キールは慌てて目をそらした。
「だいたいっ……! おまえ、知らないだろう? ぼくは状況さえ許せば、朝から晩までそれこそ一日中……おまえを……」
 言葉尻は消えてしまったが、言いたいことはなんとなく察せられて、メルディがかすかに頬を染める。彼女の表情の変化を見て取って、キールは抱えていた身体を横たえてそっと覆い被さった。
「……だからさ」
 甘くささやいて寝間着に手をかける。ぼうっとしていたメルディは、蒼い髪が胸元に落ちてからようやく状況に気づいて裏返った声をあげた。
「だ、だめっ! 今日はもうだめ!」
「……なんで?」
 迫ってくる唇から逃れようと身をよじる。
「そーゆーことにしといてあげる、でもメルディまだ怒ってるよ! だから今日はダメ!」
 すでに身体の方は彼を受け入れようとうずき始めているのだが、認めたくなかった。腹を立てたのは事実なのだ。いまさら撤回などできるものか。
「じゃあ……明日なら、いいんだ?」
 聞こえてきた問いに、とりあえずこの場から逃れたい一心で、メルディはぶんぶん首を縦に振って答えた。
 それが誘導尋問だったということにも気づかずに。
「ん。……わかった」
 あまりにあっさりした態度に疑問を覚える暇もなく。
 いきなり胸のふくらみをつかみあげられた。
「ふぁっ!」
 いつのまにやら寝間着は肩から引き下ろされ、上半身の素肌が露わになっていた。
 急速に熱くなり始めた身体をもてあましながらも逃げ出そうとして、あっさり押さえつけられる。
「あ、あん……ダメ……」
「生憎だけど」
 片手でせわしなく愛撫を続けながら、キールは空いている手をサイドテーブルに伸ばし、目覚し時計を取り上げた。闇の中で蛍光塗料を塗られた針がカチカチと動いている。
「ほらね」
 ちょうどすべての針が真上を向いたところで。目の前に示された文字盤をみとめて、メルディは叫んだ。
「ひっ、ヒキョーだよぅ!」
「なんとでも。もう"今日"は終わりだからな。"明日"になってる」
 キールは楽しげに笑って時計を戻すと、本格的に愛撫をはじめた。そうなると彼女に対抗するすべはない。怒りも戸惑いも、羞恥すら甘く溶かされてしまう。
 メルディはあきらめて深い息をつき、身体の力を抜いた。
 さして長くもない時間の後、やがて彼女は求めに応えることに没頭していった。









 此方と彼方。
 目には見えない想いの強さ。
 比べるなんてできはしない。
 ただ想いあう、その事実さえあればいい――――……

















--END.






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