知識と実感








 自らを取り巻く空気がものすごい速さで流れるのがわかる。





 少し離れた場所で、ファラが裂帛の気合とともに獣の巨体を弾き飛ばす光景を眼の端に捉える。
 耳にはリッドの剣によって袈裟がけに切り裂かれて消滅する寸前の亡霊があげた、まさに『魂消ゆる』絶叫がやけに鮮明に響いた。
 いつ生命消えるとも知れぬこの空間の中、戦況を左右する要素はひとつたりとも逃してはならない。風の色、目を射る光の強さにさえ注意を怠ることはならない。メルディは知らず目を眇めながら、低い声で晶霊への呼びかけを続けた。
 とん、と背中に何かが当たる。心地よい温かさを感じるとともに、自分の唇から洩れるものと同じ韻の呪が頭上から降ってくる。キールのケイジの中の火晶霊がざわめいて動き始めたのがわかった。短い詠唱で手早くかたをつけてしまうつもりらしい。残る敵は頭上を回りながら飛翔するあの一体のみ。リッドとファラが走りよってきて、油断なく身構える。





 戦いは、たいして時間もかからぬうちに終結した。









「おわったな〜♪」
 メルディは明るい声をあげてちょろちょろと駆け寄ってきたクィッキーを抱き上げた。
 昼なお暗い曇り空に、遠くで雷が響く。ひときわ大きな轟音に、あれはきっとどこかに落ちたな、などと緊張感のない声でキールがつぶやいた。
 セレスティアに渡ってきてからしばらくの時間がすぎた。乏しい陽の光に視界がよく利かないうえに、襲いくるのは見知らぬ魔物。最初はおっかなびっくり戦っていたインフェリア出身の三人も、昨日あたりからようやく本来の力を発揮することができるようになってきていた。
「今くらいのペースで行ければなんとかなるかもな」
 リッドが放り出してあった荷物を拾いながら言う。ファラはにこりと笑ってうなずき、スカートについた埃を払いながら術士二人を振りかえった。
「キール、メルディ? 怪我はない?」
「メルディはだいじょぶよ!」
「ぼくも特に問題はない。…………って、メルディ!」
 突然声を荒げたキールに、メルディが目をしばたたかせる。なに? と首を傾げてみせるが、彼の険しい表情はやわらいではくれなかった。
「……平気なふりしてるんだか、ほんとに気づいてないのかはぼくにはわかりかねるが」
 ため息とともに彼の指先の指し示す方向を目で追い――リッドとファラも、顔色を変える。
「メルディ! 足、大丈夫!?」
「おいおいおい、血ィ出てんじゃねえか!」
「ふえっ?」
 三人の大げさとも言える反応に、メルディはあたふたと両手を振り回してから視線を下げた。
 ……白いレース織りのタイツに赤い筋。
 確かに、血液だ。彼女はいぶかしげに自らの脚を眺めた。
 おかしい。
 だって、どこが痛むわけでもないのに。頭がぼんやりしているとか、身体の調子がおかしいとか言うのならば痛覚が麻痺しているということもあるのかもしれないが、ここ数日を思い起こしてみても特に変調は見られないのだし。



(……もしかして……)



 思い当たった最有力候補に、メルディはぎゅっとこぶしを握り締めてその場に座り込んでしまった。
「メルディ!」
「おい、痛むのか!? 待ってろ、すぐに術……」
「ま、まってな!」
 晶霊術を唱えたところで出血が止まるはずはない。彼女は悲鳴のような高い声をあげてファラの腕にすがりついた。心配そうにゆがんだ表情ながらも不思議そうに見返される。メルディはぱくぱくと口を開けたり閉めたりしたが、言葉は出てこなかった。代わりに少しずつ頬に朱が昇ってくる。終いには耳まで染めてうつむいてしまった彼女に、ファラはうすうす事情を察して口許にゆっくりと手をやった。
「……なんだ、そういうことか」
 ぽん、とキールが膝を打つ。そのいかにもあっけらかんとした様子に、リッドは一人わけがわからずに首をかしげた。
「なんだぁ? 怪我じゃないのか?」
「うん、違うよ。……ねえリッド、今日はここでキャンプにしよう。テント張ってくれる?」
「え、もうか?」
 彼が不満そうな声をあげるのも無理はない。まだ今日は、予定していた行程の半分ほどまでしか来ていないのだ。空が薄暗いのはあくまで雲が広がっているからであって、太陽自体の高さはまだまだ昼間の域を抜け出ていない。
 気が進まないためかぐずぐずと動かないリッドを尻目に、キールは手早くテント袋の紐を解き始めた。こうなってしまえばリッドに抗う権利はない。テントの支柱はキール一人で立てるには少々荷が重いのだ。メルディの肩を抱いて遠ざかるファラの背中を見送って、彼はもう一度こっそり首をひねった。











 濡れたタオルで血汚れをふき取り、洗いたての服に着替えてようやくひとごこちついて、メルディはちいさく息をついた。
「メルディ、大丈夫?」
 ファラが服の汚れを内側にしてくるくると丸め、袋の中に押し込む。とりあえず洗濯は後ということだろう。メルディはわずかに頬を染めてうつむいた。
「でも、びっくりしたなあ……そろそろだってわかってなかった? ペース乱れてたの?」
 確かインフェリアではメルディがこのことにかかずらっている光景を見たことはないはず。だからファラはてっきり彼女独自の――つまりはセレスティアの――方法で始末しているものとばかり思っていたのだが、事情はそうインフェリアと変わりがないようだ。
「……ちょっと少し、止まってたからな」
 メルディは苦笑して地面にしかれた布の上に座り込んだ。
 慣れない環境のせいだったのか、あまりにも大きかったプレッシャーの影響か、生理はインフェリアに渡る少し前からぴたりと止まっていたのだ。毎月あったはずのものが数ヶ月の間なかったために、存在自体忘れていた。セレスティアに戻り、慣れ親しんだアイメンの街の人々や育ての親ガレノスの顔をもう一度見ることができた安心感から突然復活したのだろう、前兆も何も感じることはできなかった。
「……まあ、女の子なら誰でもあることだからね。リッドはわかってないだろうけど、キールはわかってるよ、きっと」
 フォローのつもりなのか出された名前にちいさく心臓が跳ねた。
「……なんでそこでキールが出てくるか」
「ん? だってキール、いろんなこと勉強してそうじゃない。知識としてこういうことも知ってそうかなーって」
 他意はないのだろう、狼狽もせずになおも荷物の整理を続けるファラを見て、メルディはぽりぽりと頭を掻いた。
 確かに、気にしてもしょうがないのはわかっているのだ。少しばかり恥ずかしいとは思うのだけれど。
 ただひとつ、メルディにはちいさな気がかりがあった。
 キールは女性を苦手にしているような感がある。だから極力彼に対しては自分が『女』であることを感じさせることがないような態度で、仕種で接してきたつもりだったのに。
 変わってしまうだろうか? 彼の自分を見る目は。
 それが少し、怖かった。









「……なあ、キール?」
 テントの中では少女達がなにやらごそごそやっているらしい。いいと言うまではテントから五十ランゲ以内の距離には絶対に近づくなと言い渡され、男性陣は手持ち無沙汰にぶらぶらとその辺りを歩き回っていた。……いや、キールは座って本を読んでいるので、正確には暇なのはリッドだけである。
「なんだ?」
 名前を呼んでから五歩ほど歩いたところで静かな返事が返ってきて、リッドはなんだ聞こえてたのか……とつぶやいて彼の隣に腰を下ろした。
「メルディ……ほんとに手当てしないで大丈夫だと思うか?」
 結構血、出てたよな?
 声を潜めて尋ねると、キールは今度は本から顔を上げて呆れたようなため息をついた。
「当たり前だろう? メルディのあれは怪我じゃない、単なる女性特有の生理現象だ。ぼくらが何をできるわけでもないし、むしろあいつにしてみればほっといてほしい領域のことだろう。気にするだけ無駄だ」
「セイリゲンショウ?」
 耳慣れない言葉だ。思わずたどたどしい発音で聞き返すと、逆に質問された。
「なんだ? おまえもしかして知らないのか?」
「……オレは腹が膨らまねえもんには興味ねえんだよ。知ってるだろが」
 なんだか小ばかにしたような口調にむっとして唇を尖らせる。さらにちくちくと何かを言われるかと思ったが、キールは思案げにあごに指を当てて黙ったままだった。
「おい?」
「そうか、まあ……知らなくても別に不思議はないんだよな」
「おぉ〜い〜」
「……ああ、悪い」
 顔の前に手をかざしてひらひら動かすと、彼はうなずいて本を閉じた。
「メルディのあれはな、俗に言う『生理』だよ」
「セイリ?」
「そう。女性のからだはぼくたち男と違って、子供を産める構造になっているだろ? 赤ん坊を身ごもるとしばらくその子は母親の腹の中で育つ――それくらいは、わかってるよな?」
「……おまえオレのことバカにしてるか?」
 下からにらみつけるようにして見返すと、そういうわけじゃないが、とキールはそっぽを向いて続けた。
「……ある程度成長すると、女性の身体は定期的に排卵を始める。まあ赤ん坊の卵みたいなものだな。排卵のペースに合わせてそれを受け止めて包み込むいわば布団のような役割を担うものを体内につくるんだ。その布団は、身ごもればそのまま使われるが――そうでない場合は、血液の形で体外に排出される。で――」
 テントのほうを指差す。
「その結果が、今日のメルディってわけだ。誰にでも起こることだ、驚く筋合いじゃない」
「排卵? 身ごもる?」
 大学で受けた講義をそのまま繰り返しているのだろうか。本当に耳慣れない言葉ばかりだ。そちらのほうは説明してはくれないのかと、リッドはかすかな期待を抱いて隣に座る幼なじみの顔を覗き込んだが、キールはかすかに頬を染めて目をそらした。これ以上詳しく言及することは、彼にとって羞恥心を刺激する行為になり得るらしい。完全には納得しきれなかったが、ひとつだけわかった事実があったので、リッドはそちらに話を振ってみることにした。
「それさ。インフェリア人の場合だよな?」
「無論だ。今の時点でインフェリアにセレスティア人はいないのだから、生態の違いを比較することはふか……の……う」
 そこまで言って気づいたのか、キールが白い頬を真っ赤に染めて立ちあがる。立ち去ろうとした彼の服の裾を引っ張って、リッドは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「インフェリア人とセレスティア人の体の構造が似てるってことはさ、……子供のつくりかたもおんなじ……だよな?」
「だからなんだッ!?」
 じわじわといたぶられることに痺れを切らしたのか、キールは顔色もそのままに幼なじみを見下ろした。
 彼が何をいいたいのかは、わかっている。最近の自分のメルディに対する態度の軟化具合は自分でも不思議なほどなのだ。
 加えて、無邪気にまとわりついてくる彼女と赤面しながら慌てて逃げ回る自分は、リッドやファラにはじゃれあっているようにしか見えないらしいから――……
「どうした?」
 にこにこしているその顔が恨めしい。キールは唇を引き結んで彼の手から服の裾を勢い良く引き抜いた。勢いもそのままに、近くの木立に向かって大またで歩みを進める。
「お〜い、どこ行くんだあ?」
「薪を拾ってくるんだッ!」
 振りかえりもせずに怒鳴り返して、キールは下生えを踏みしだいた。






 とうの昔に、わかっていたのだ。
 メルディが『女性』であるということくらい。
 華奢とは言っても自分とは明らかに骨格の作りも違うし、何よりふわふわとやわらかくて甘い匂いがする。抱きつかれるたびに絶叫をあげて逃げ出すのは、警戒しているからではなく気恥ずかしさゆえで。





 リッドには気づかれている。おそらく、ファラにも。





 だが、メルディにだけは言うものか。絶対に言うものか。







 セレスティア。
 まだ何も知らない、たどりついたばかりの異世界。
 火照った頬に当たる風はインフェリアより冷たくて、熱を早く冷ましてくれるような気がした。














--END.







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