どうしてこんなことになっているのだろう。
 気づけばこんなところで、こんなふうに。






裏腹








 冷静に状況を分析してみれば、逃げることは別段難しくないように思えた。
 押さえつけられているわけでもない、どこか捕まえられているわけでもない。ただ陽が落ちて薄暗くなった部屋の中で、この男に見つめられているというだけの話だ。
 純粋な力勝負ならかなわないだろうから、抜け出すとなればそれ相応の労力がかかる。確かに自分は望むと望まざるに関わらず、他人の命運を左右できるだけの術と力を与えられているけれど。
 目の前の青灰色の瞳の持ち主に対して、それを行使しようとは思わない。そして、その必要性も感じない。
 ただなんとなく、無言で見つめ返すだけ。
 いつもへらへらしているくせに、どうして今はこんなに泣きそうな顔をしてるんだろう、と、それだけを頭の隅で考えた。













 褐色の瞳は、ただただ見開かれているだけだった。怯えも嫌悪もない、言い換えれば危機感がまったくない。
 貴族であろうが市井の娘であろうが、これほどまでに接近すればなんらかの反応を示してみせたものだ。神子という肩書き云々は抜きにしても、自身の容姿が年頃の女性にとって魅力的に映ることは自覚している。事実目の前のこの娘も、それが恥じらいからによるものかどうかは別問題として、ちょっかいをかければ必ずといっていいほど拳骨と罵声を浴びせかけてきたものだったのに。
 いつもは豊かな表情が、今だけは抜け落ちてしまっている。びっくりした。ただそれだけの感情を面に貼りつけて、ただ静かに見返してくるだけ。
 ちり、と心のどこかがささくれだった。薄暗い部屋の中、二人きり。鍵はかかっていないが、教育の行き届いた使用人たちは主の了承なしに扉を開けることなどしない。ということは密室とさほど変わりはないわけで。
 ソファに仰向けに寝転がって、男に覆い被さられて。
 それでもその先何が起こり得るか想像すらできていないらしい初心な娘――しいなは、おとなしくじっとしている。
 どうして彼が固まってしまったのか、その理由にすら思い至ってないような顔で。
 だからだ。
 泣かせてやろう、と、一瞬思ったのは。
 その手段が、いつもならば到底思いつかないようなことだったのも。
 きっと。












 さら、と赤い髪が肩口にこぼれおちた。
 泣きそうだ、と思った顔が瞬間ぐっとゆがんで、笑いに近い形をとる。笑おうとして失敗したのだと、瞬時に判断して彼女は思わず指を伸ばした。
「……ゼロス。一体全体、どうしちまったんだい」
「知らね」
 こうして頬に触れるのは初めてではない。わかっていたはずなのに忘れていた、青年の悲しい側面。居場所のない幼子のように見えて、何故か放っておけなくて、涙も流していないのにただよりそっていたことがある。すぎれば強かに微笑む姿に、安堵しながらもどこか心細くて目を離すことができなかった。
 ふ、と唇を吐息が掠める。別段珍しい行為ではなくなってしまったという事実におかしな気分にさせられるが、違和感は感じない。至近距離でひそめられた眉が、意外に長いまつげが、震えて、少しだけ、開いた。
「……っ! ん、んっふ……!?」
 いきなり口内に異物が侵入してきて、しいなは目を見開いた。探られる感触こそまったく知らないではないものの、こんな激しさはついぞ体験したことがなかった。
 吸われて頭の芯がしびれる。空気を求めてあえぐ唇は離したそばからふさがれて、それどころか生暖かい液体を注がれる始末。甚だ不安を覚えて胸をたたいても、手首をつかまれてしまっては抵抗の術がない。まるで砂漠の旅人が、数日ぶりに食事にありついたときのように。抱きしめられて、貪られて、何が起こったのかはっきりとわかったときには、すでに彼の唇は首筋から胸元へと移動しようとしていた。
「こら、ゼロ……ふ、うんっ!」
「あー、まだ足りなかったか」
 どこに触れられたのかもわからないまま、圧倒的な痺れだけが全身を駆け抜けた。思わず硬直して動きが止まったところに、すかさず口づけが降る。
 手馴れている。
 男など知らないけれど、それだけははっきりとわかって、それが悔しくて、しいなは唇をかみしめた。
 どうして、何故、彼がいきなりこのような行為に及んだのか理由がわからない。
 べつに何があったわけでもなかったはずだ。少なくともこの部屋を訪れた最初はそうだった。表情には多少疲れこそ見えていたものの、笑う声にも顔にも虚偽のかけらは見当たらなくて、だからこそ、安心しかけていたというのに。
「……わかってただろうが。俺さまは、こういうヤツだぜ?」
 かすれ声に情欲の気配をかぎとって、ぞくりと背中を震わせる。感じてしまったのが不覚だった。薄い唇が笑みの形にひきつれて、赤い舌が胸の先端を這うのをはっきりと見てとる。
 走る快楽と羞恥に、けれど何故か抵抗する気はおきなかった。












 口づけ自体は、何度か交わしたことがあるのだ。
 かつて徹底的に傷つけて、決定的に突き放した。それでも思わぬところで再会して、結局離れられないことを悟って、なればこの想いは生涯封印してしかるべき、と腹をくくった。
 はず、だったのに。
 きっかけがなんなのかわからない。初めて唇を重ねたのは、いつのことだったのか。怒りながらも赦してくれたのが信じられなくて、ふざけて何度も求めた。ことごとく撃沈したその裏で――それでも、本当にほしかったときは応えてくれたから、いつしか。
 夢と現実の区別がつかなくなったのかもしれない。だってほら、求めてやまなかった女が、自分の下で頬を染め涙を浮かべ艶めいてあえいでいるなどと。白磁の肌に浮く花びらのような痣が、自分が刻み込んだものだなどと。
 信じられるわけがないのだから、現実にもどしてやってくれ。
「……抵抗しないのな」
 手を止めて見下ろすも、しいなが逃げ出す気配はない。乱れた息を整えようと必死なのだろう、激しく上下する胸がいやに癇に障った。帯を解いて衣をはぎとる。剥き出しの背中についと指をはわせながらふくらみを甘く噛むと、くぐもった悲鳴があがった。
 快楽に溺れさせようと仕向けながら、口では冷静さをさそうような台詞を紡ぐ。
 これで正気に戻ってくれたなら。
 これ以上、先に進まずともすむ。
「なあ……今、誰のこと考えてる?」
 反応はない。
 少しだけいらついて、ゼロスは手を止めた。
「……おーい……もしかして聞こえてない」
 正面からしいなの顔を見つめようとして、突如降る衝撃に何度も瞬きする。
「あだぁ!」
「こんの……アホ神子!」
 容赦なく殴られたのだと、頭が理解できるまでには多少の時間を必要とした。
 くらくらする視界を、額に手を当てることで必死に回復しようと努める。星が降る、とはこのような状態のことを言うのではないだろうか。一瞬で白くなった視界が少しずつ色を取り戻し、ようやく視線を合わせることができた刹那。
 しいなは、半ば自棄になったように吼えた。



「誰も何も、ここにはあたしとあんたしかいないじゃないかっ! こんな状況で他のこと考えてられるほど、あたしが器用にできてるとでも思ってるのかい!」



「…………マジで」
「何がさ」
 ゼロスは呆然として腕の中の女を見下ろした。かつてともに旅した少年に、彼女が好意をよせていたことは記憶に新しい。彼にはすでに、押しも押されぬ想い人が存在していて――だから、かなわぬ想いを胸に苦しげな表情をするのを見るたび、自分のことのように切ない悲しみをかみ締め、なおかつ残酷な愉悦をも同時に覚えていた。
 そのはずなのに。
 この胸の中には、少なくとも今この瞬間には、誰も、棲んでいない?
 それなら。
 それならば。












 ゼロスが何を言いたいのかは、なんとなくわかった。
 けれど指摘されるその瞬間まで忘れていたのだ。とぼけたとて、嘘をついたことにはならないだろう。あの頃抱えていた痛みは、今では遠いものとなっている。思い出そうとすれば簡単だけれど。それよりも今は、この子どものような男から目を離すわけにいかない。
 自覚もなしに愛している者たちのために、身を削って働きつづけるいい加減な神子。油断すれば目の前から消えてしまいそうで、それだけが今は怖い。
 彼がほんとうに求めているものがなんなのかわからなくとも、それでも、そばには居続けなければ。
 しいなは腕をめいっぱいに伸ばして、赤毛の頭を抱き寄せた。
 顔は長い前髪に隠されていたから、その瞳に宿る光が変わったことには気づけないまま。
「ふ、あっ!?」
 びくりと腰がはねたときには、すでに唇はふさがれていた。
「んっ……んっ、ふ、うん……っん」
 いっとき冷静さが立ち返ってきたように見えたのに。いや増した激しさに翻弄されて、息もつけない。手早く服を脱ぎ捨てながら、それでも的確に快楽を引き出すことだけは忘れないその根性が憎たらしい。裸の胸がこすれあい、しいなは高い悲鳴をあげた。するすると順調に外気にさらされてゆく肌。反射的に閉じようとした脚は身を割り込ませることで阻まれ、腿の内側をやわらかな髪が優しく撫でていった。吐息がかかることで初めて、そこが濡れていたことを自覚する。カッと頬が熱くなったが、この熱をどこに逃せばいいのかはわからなかった。好き放題に引っ掻き回してくれる指先はあくまで優しく、それでいて有無を言わせぬ何かを感じさせる。寄せては返す波のような刺激に、ただ頭を振ることしかできない。かすれた声音で囁かれる自分の名のなかに、たぎる情欲を嗅ぎ取って身体を熱くする。
 快楽と、引き裂かれるような痛みと。押し込まれた熱情を全身で受け止めながら、遠ざかってゆく意識の中、彼が泣いてはいないかと必死で目を凝らした。












 かくりと垂れた頭を、力の入らない腕でなんとか支える。
「……しいな。……おい、しいなってば」
「…………ん…………」
 息も絶えだえに、しいなはかすかなうめき声をあげてかぶりを振った。気を失いかけているのだろう、反応が芳しくない。ゼロスは音をたてて胸の頂に吸いついた。豊かなふくらみに鼻をこすりつけ、軽く歯をたてる。
「ふあっ!」
 今度こそ目覚めたらしい。繋がれたままの肢体は、彼女の精神状態まで如実に伝えてきてくれる。ゼロスは喉の奥で笑い、黒くまっすぐな前髪をかきあげた。
「しーいーなーちゃん。お目覚め?」
 おどけて瞳をのぞきこむ。怒り出すかと思ったのに、しいなはぼんやりとした顔で見返してきただけだった。
「……泣いてないね?」
「はっ?」
 思わず声が裏返る。何をどうしたら、そういう質問になるのか。……というか、状況を正しく理解しているのだろうか。
 ゼロスは目を白黒させながらも、とりあえず首を振った。
「や、泣いてないぜ? 見りゃわかるっしょ」
「……そうかい。ならいいんだ」
 それだけ言うと、今度こそしいなは瞳を閉じて完全に寝入ってしまった。肩口に心地よい重み。耳元では安らかな寝息が聞こえる。
 何言ってんだか。ちぐはぐなやり取りに、唇は笑みの形をつくった。確かに最近は、しいなに対しては弱みを見せすぎていたような気もするのだけれど。子どもじゃないのだから、そんなにぴーぴー泣くわけがないだろう、と宙に向かって悪態をつく。
 と。
「…………あれ」
 じわり、と目の端が熱くなったかと思うと、ぽろっと一粒だけ涙がこぼれ出た。
「ありゃ、ありゃ、ありゃりゃ? あああー、しいなさーん起きてー! 俺さまなんかヤバ……ってマジ寝てんの? おいしいなってば」
 焦ってひとしきり声をかけてみても、褐色の瞳が現れる気配はない。ゼロスは息をついて、しいなの身体を抱えなおした。
 脇に押しやられていた紫の衣を引き寄せて、自分ごと彼女の肩を包み込む。
「なーんか……このまた後が、怖いよーな気がすんだよなあ……」
 けれど、今は離れる気にはなれない。
 ひとりごちて目を閉じると、目じりに残っていたしずくが頬に線を描いたのがわかった。
 裏腹に、眉は、唇は、優しい弧を描いて穏やかに笑んでいたのだけれど。















--END.







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(2004.08.28)