黄昏を、こえたあと
 それはいつもどおりのなんでもない日、そろそろ日が暮れてきた時刻のことでした。

 私はいつもどおり――いえ、本当に毎日、というわけではないのですが。同じクラスの女子生徒と雑貨屋で買い物をした帰り、なんとはなしに駅前の広場でおしゃべりをしていたのです。
 リーヴスは帝都からそう離れてはいません。鉄道網が発達している今、この街に自宅をかまえ、列車で通勤している人々も多くいると聞きます。ですから余計、運行される便数もそれなりにはあります。
 私たちにとって車両がたてる金属音は日常のもので、停車するときの空気が抜けるような音も聞きなれたもので、駅からたくさんの人がぞろぞろとまとまって出てくる光景も珍しいものではありません。
 ただ今日はひとつだけ、いつもとは違ったことがありました。
「……あっ! アリサさん!」
 喧騒の中から抜け出してくる、一人の女性。目ざとく知人をみつけたユウナさんが、弾んだ声をあげて大きく手を振ります。……と、思ったら矢のような勢いで駆けよっていきました。
 彼女が視線を向けていた方向を考えるに、普通に歩き続けていれば私たちのところまで来られたはずです。それをわざわざこちらから行くのですから、行動が早いと言えば良いのか考える前に動いてしまうと言えば良いのか。
 ともあれ笑顔で挨拶を交わす二人と早く合流するに越したことはありません。私は隣にいたミュゼさんと目配せし合うと、小走りでユウナさんに続きました。
「いらっしゃい! 来られるとは聞いてましたけど、今日だったんですね!」
「ええ、他の社員は明日の予定なのだけど。事前準備もあるし、トワ先輩とティータさんとも話を詰めておきたかったから。一足先に、私だけ」
 やわらかく小首をかしげるこのひとは、アリサ・ラインフォルトさんといいます。
 帝国最大の重工業メーカー、ラインフォルトグループの会長令嬢。とはいえ経営のすべてを掌握しているわけではなく、あくまで一開発室の責任者という立場に過ぎません。故に肩書の割には身軽に動いているようで、先日は演習先の帝都でもお会いしました。
 年下であるユウナさんよりも小柄なのですが、姿勢よく立っているためにあまり体格の差を感じさせません。黄昏の赤が混じり始めた光に照らされて、輝く金色の髪と紅い瞳が街並みにうつくしく映えています。
 とても綺麗なかたです――ユウナさんは性別関係なく綺麗な人が好きなようで、VII組の先輩方を目の前にするといつも以上にテンションが上がります。
「あら、リィン教官のお名前は出してさしあげないんですか? 今日一日、どうにもそわそわしてらっしゃいましたけれど」
 語尾にハートマークでもつきそうな甘い声色で、ミュゼさんが言いました。人差し指を口許に持ってきて、なんだか、こ……蠱惑的? で、良かったでしょうか。上目遣いにアリサさんを見つめています。
 教官の話題かミュゼさん自身かどちらに反応したのか、とにかくアリサさんはかすかに赤くなって目をそらしました。
「は、話はするわよ……当然。明日の講義はリィン教官にも同席してもらうんだもの、当然でしょう」
 教官、のところを強調しています。あくまで仕事で来たのだからと主張しておきたいのでしょう。
 通りすがりの人であっても話の流れを聞いていれば容易に察されてしまうでしょうが、私たちの担任教官であるリィン・シュバルツァーとアリサさんは恋人同士です。学生時代からのおつきあいで、どうやらすでにお互いのご家族にも挨拶を済ませてあるとか。いずれ結婚されるのでしょう。そう遠い日のことでもないかもしれません。
 ユウナさんは目を白黒させました。
「えっ、そんなにはっきり違った? あたしよくわかんなかった……アルは?」
「そうですね……」
 私は軽く今日一日を思い返してみました。
 パートナーとして任務を共にしていたころは、お互いの体調にも細心の注意を払うよう努めていました。ですが今は教師と生徒という立場です。しぜん一緒にいる時間も少なめではありますし、何よりあの大きな試練を乗り越えた教官は顔色も良く溌溂として、いつ見ても心身ともに健康であるようです。特段心配すべき点は見当たりません。
 ですが、お二人が言いたいことはそれらとは少し違うのでしょうから……
「講義の最中は変わった様子は見受けられませんでした」
 私はうなずきました。
「ただ、講義の最後。みなさんが教室を出ていった直後のことになりますが、教壇の角に足をぶつけたらしく、無言でうずくまっている背中は目撃しました」
 いつもならば空間把握も自身の体捌きも完璧にできているひとです。それがあんなことになってしまったのですから、気もそぞろだったという指摘は間違ってはいないのでしょう。教官が履いているのは頑丈なブーツですが、当たり方が悪かったのかもしれません。
 しばらく言葉もなくただ耐えていました。私は声をかけるべきか否か迷い、結局目が合った教官に照れ笑いされて終わってしまったのですが。
「えっそれあたし見てない!」
「ですから、ユウナさんはもう教室を出ていましたので」
「あらまあ……それは私も拝見したかったですね。あわよくばお慰め……あら、いけません」
「だからアンタはやめい!」
 いつもどおりの軽口に、すかさずユウナさんの実力行使つきのツッコミが入ります。ゆるくヘッドロック? をかけられているのですが、ミュゼさんは微妙に嬉しそうです。どういう光景でしょうか。
 アリサさんは、なんとも言えない顔で二人を眺めています。
「えっと……まあ、楽しそうで何よりだわ。ところでアルティナちゃん」
「はい、何でしょう」
 じゃれあうクラスメイトをよそに、私は彼女に向き直りました。
 相変わらず私に対しての呼称は“ちゃん”づけのままです。ユウナさんやミリアムさんに対しては呼び捨てなのに、私のことは「可愛すぎて呼び捨てできない」とは、いったいどういう心持なのでしょうか。子ども扱いというわけではないようです。嫌われていない、むしろ好いてくれているのもなんとなくわかるのですが、それにしてもやはり呼び捨てとそれ以外では距離を感じてしまいます。なんとなく、寂しいような気分もしてしまいます。
 そんな私の内心には気づかない風で、アリサさんは少し言い淀んで――意を決したように、きりりと表情を引き締めました。
「あのね。……抱きしめても、いいかしら?」
「…………はい?」
 意図が見えません。
 受諾も拒否も考えつかず、ぽかんと口を開けてしまいました。「だってこれから打ち合せして仮眠して夜明け前から搬入納品、その後は講義と事後事務処理で気の休まる暇もないのよ……!」と事実なのか言い訳にしたいのかよくわからない予定を教えてくれるのですが、それと私を抱きしめることと何か関係があるのでしょうか。
「癒されたいの……癒しを頂戴、アルティナちゃん……」
 意味がわかりません。ともかくアリサさんが忙しいことはわかりますが。
 それと、なんだかとても疲れていることも。ちょっとだけ、泣きそうな顔をしています。……大丈夫でしょうか。
 本当によくわかりませんが、私で力になれることなら。素直にそう思いました。
「……」
 人に抱きついたことは、実はあまりありません。教官やミリアムさんに対しては何度かありますが、あれは感情と勢いに任せた行動でした。このように冷静な状態で自分から人に触れに行くことは、嬉しいような気恥ずかしいような、なんともいえない心地です。
 ともあれアリサさんに近づき、正面から腕をそっと回してみました。
 ふんわりとあたたかい感触が私を包み込みます。少し、緊張します。
「…………はあ〜……」
 直後頭の上から降ってきた吐息は、なんだかユウナさんやレオノーラさんが寮のお風呂に浸かったときに出す声に似ていました。
 私の体温は湯温に近いということなのでしょうか。いえ、そんなはずはありません。今私の体調は良好です。であれば設定された体温は一般的な人間のそれと同じはず。温浴に適しているとも思えませんが。
「癒される……」
 何か幸せそうではあるので、お役に立ててはいるのでしょう。
 私はそのままじっとしていました。アリサさんの気が済むまでそうするつもりでした。
 そもそも抱きしめられること自体は、ユウナさんやミリアムさんで慣れています。ユウナさんはしょっちゅう寝ぼけてベッドにもぐりこんできては私を抱き枕代わりにしますし、ミリアムさんは顔を合わせれば必ずと言っていいほど飛びついてきます。二人とも力加減をあまりしてくれないので、息苦しいことも多々あるのですが。もちろん嫌ではありません。加減さえしてくれればいいのです。
 ただ、アリサさんの抱擁は少し勝手が違っていました。
 とにかくふんわりしています。心地よいと言っても過言ではありません。何か懐かしい気分にも陥ってしまうのは、私を生み出した一族に連なるひとだからでしょうか。黒のアルベリヒ、いえフランツ・ラインフォルトは、私たち姉妹の生みの親です。人間とは少し違う生まれ方をした私たちですが、親はと問われればやはりあの人なのでしょう。
 であればその娘であるアリサさんは、私たちとも姉妹ということになるのでしょうか。ミリアムさんほど近しいものは感じないけれど、他人だとも思えない――いわゆる、親戚のお姉さんといったところでしょうか。そう思えばこの感覚にも納得がいくような気はしてしまいます。
「…………うん、ありがとう。元気になったわ」
「どういたしまして。お役に立てたなら何よりです」
 腕を解いたら、少しだけ肩がすうすうしました。吹く風が冷たくなってきているようです。気づけば辺りは暗くなりかけていて、街灯も灯り始めました。
「ああ、もう行かなきゃ。約束の時間に遅れてしまうわ」
 気のせいでしょうか、アリサさんは名残惜しそうな顔をしているようにも見えますが。それとは別に、やらなければならないことはやはり頭から離れてはくれないのでしょう。
 ユウナさんが手を振り、ミュゼさんが軽く会釈をしました。私もちいさく頭を下げて見送ります。
 颯爽とした後ろ姿は、すぐに濃くなり始めた闇の向こうに紛れてしまいました。
 街中とはいえ、昼間のような視界は望めません。
「さて! そろそろ夕ご飯の時間だし、寮に帰らないとね!」
 ユウナさんの号令を機に、私たち三人は方向転換して寮へと向かいます。
 振り返ってみましたが、やはりもうあの後ろ姿を確認することはできませんでした。
...



気にかかる人、好きな人を日々増やしていくアルティナ。
(2018.11.18)