別に、タイミングを狙ってたわけじゃねえんだがな。
今日の放課後は文芸部の部室で本を読み漁ってて、どうも自覚なく没頭しちまってたらしい。予定してたより、寮に戻る時間が遅くなっちまった。
読んでたのは、黄昏の旅のときにエリンで手に入れた何冊か。ただ、それだけならどこにでも置いとくんだが。中にいわゆる禁書ってヤツも混じってたもんだから、そう簡単な話にはならねえ。
禁じられてるからってはいそうですかって読むのをやめる選択肢はもちろんねえし、だから部室にこっそり隠しておいたんだよな。タチアナは口止めさえすりゃ黙ってるだろうが、嘘をつくのは下手糞だ。もちろん下級生にも、とてもとても見せられねえ。いや見せられねえだろ、同期のヤツらはともかく裏の事情も知らないヒヨッコどもだ、もし見せたとしたらオレがこっぴどく絞られるに決まってる。カバーかけるにも限界があるし、部室が無人のときを見計らってちまちま読むしかなくて、つまりはそういうわけだ。
やっぱり別の隠し場所を考える必要があるかもしれねえな。このままじゃ全部読みおわるまでどんだけかかるかわかったもんじゃない。
で、寮に帰ってきたところでロビーでクルトに出くわした。
あいつはあいつで、練習室での鍛錬に夢中になってたんだと。んで気づいたら一緒に型を確認してたやつらも消えてたっつって、そういえばちゃんと声はかけてくれたような気がするけど覚えていないな、だのクソ真面目な顔で呟かれたときには思わずどんだけだよと突っ込みたくなった。
まあそんなこんなで、そういやお互い風呂がまだだなって話になってな。連れションならぬ連れ風呂でもするかってんでいったん部屋に戻ったんだが。
消灯時間までもうあまり間がない。だから着替えだのなんだの持ってきたオレらの他には、一階にはもう人気がなくて当たり前のはずだった。
が。
「……あれ、教官? これからお出かけですか」
目ざとく担任の姿を見つけたクルトが、白いコートの背中に声をかけた。
本人は、まさか話しかけられるとは思っていなかったんだろう。一瞬肩がびくっとした。
どうせ気配察知とやらでオレらが降りてきたこと自体は気づいてやがったんだろ。なのにそのままこそこそ外に出ていくつもりだったんだよな。
クルトの奴も、ほっといてやればいいものを。入学当初こそ、コイツはシュバルツァーを侮るような態度をとってたもんだが、今はすっかり懐いちまってるから。見たら寄っていかずにはいられないんじゃねえのか。うちのクラス、さりげに忠犬タイプが多いよななんて関係ないことを考えた。
「あ、ああ……二人はこれから風呂か」
振り向いた顔にでかでかと気まずいって書いてあんぞコラ。
オレら生徒と違って、教官たちには夜間の外出の制限もかからない。実際いつ寝てんだってレベルで夜の間に何かごそごそやってる連中は一人や二人じゃねえ。いつものことだって言っちまえばそうなのに、この反応は疚しいことがありますって主張してるようなもんだ。
「はい、消灯も間際なので。教官は」
「おいクルト。時間ねえんだからさっさと行くぞ」
オレはクルトの背中を軽く叩いて、入り口とは反対方向に押した。
「わかりきってんじゃねえか、一日中そわそわそわそわしてやがったんだからよ。どうせオンナのとこだろ、久々のお愉しみってか。おあつらえ向きに明日は休息日だしなあ?」
クルトがひゅっと息を呑みこんで動揺した。
微妙に赤くなってるが、男の頬染めた顔見てどうすんだ……つまんねえし。いやだから、びっくりするようなことでもねえだろが、もともと想像ついてたろ? それとも実際現場を押さえるとやっぱ違うもんなのかね。まあ昼間のこともあるし、なんだかんだでコイツ育ちのいい坊ちゃんだしなあ。
「…………あのな、アッシュ。もう少し他に言い方ってものが……」
シュバルツァーは片手で顔を覆いながらため息をついた。
言い方っつってもな。オレとしては最大限配慮してやったつもりだったんだが、あからさまに言わなかっただけ逆に感謝してほしいってもんだぜ。これ以上婉曲な表現なんか知らねえし――いや、知ってるか。我ながら読書量は伊達じゃないと自負してる。ただ、語彙を知っててもそれを日常的に使うかどうかってのはまた別の話なんだわ。
……しっかし、ほんっとーに、浮かれてやがんな。
ま、気持ちはわからんでもない。コイツの女は誰もが認める“イイ女”だ。
何せあの顔であの身体だ、おまけに頭が回って気も強いときてる。そこらの有象無象なんぞ蹴散らしちまうくらい、わかりやすく強い。そのくせ妙に人が好くて、観察してる限りじゃ気を許した相手には逆に心配になるくらい無防備なトコもある。
そんな女が自分にベタ惚れで素直に甘えてくるとなったら……そりゃあもう、彼氏としては辛抱たまらんだろう。
そう思いつつ、オレは微妙に食指が動かねえんだが。
文句の付け所はない、ただ、色気の中にどうにも潔癖な気配もするんだよ。そこが引っかかって、ちょっかいかける気になれねえ。
単純な好みで言やあ深淵の魔女――ありゃイイ女だったよなあ。ふるいつきたくなるたあ、まさしくああいうのを言うんだろう。あっちはあっちで、手を出したら火傷じゃすまなさそうだが。怖いもの見たさもないこたない。
どっちにしろ他人の女に下手に興味なんざ持ったところで面倒なだけだ。特に遊びじゃない、本気のやつらには。だからあのパイセンに興味が湧かねえこと自体は、むしろ好都合だった。
オレが育ったラクウェルは一大歓楽街で、遊びの恋も一夜限りの恋も、恋ですらない何かもあふれていた。あそこじゃ人間は疑いようもなくただの商品だった。ショーウインドウに並べられて消費されていく女たち、男たち。事実も感情も、一夜明ければ何もなかったことになる。
建前じゃなく、真実がそう在るはずだった。そういう街だった。
けどな、そん中でも一番多かったトラブルが惚れた腫れたの刃傷沙汰だったんだよな。唾を飛ばして罵りあう奴らを横目にすり抜けるのが、日常。いつお前のモノになったってんだ、とかいう台詞が聞こえてきた時は、反応はしなかったが心中じゃ大きくうなずいてた。そりゃそうだ、男を盗っただの女を盗っただの、そもそもミラに物言わせて何の所縁も義理もない相手と一緒に過ごす時間を買っただけだろ。割り切れや、意味わかんねえわ。
そう零したら、オフクロは肯定も否定もしないでただ笑ってたっけな。そうだねえ、と相槌打っちゃいたが、ありゃどっちの意味でもなかったはずだ。
それはともかく。ガキの頃から色々見てきた経験から言わせてもらえば、人間の感情で一番ヤバイのは嫉妬だ。特に色恋が絡むとマジでやばい。
別に目の前の色男が嫉妬に駆られてオレや他の奴をどうこうする、なんて思ってやしねえよ。でもコイツにそういう方向で警戒されたら絶対ぇめんどくせえし。そうそう、妹の時もそりゃめんどくせえ反応だった。冗談すら許さないってんだから筋金入りだ。怖ぇ怖ぇ。
藪はつつかないほうがいい。トラブルってのはおもしれーのとそうじゃないのがある。回避できるモンはしといたほうが人生楽だってもんだぜ。
「え、ええと。そういうことでしたら早く行ってさしあげてください。僕たちは、誰にも会いませんでした」
オレがあれこれ考えてる間に立ち直ったらしいクルトが、わざとらしく咳払いした。
「ああ、うん。……そうだな、見なかったことにしてくれると助かるよ」
頬をかく仕種は何度か見たことがある。眉を八の字にして笑う顔も、全っ然覇気がねえ。
まあオレもクルトも、この教官の情けない姿は今まで散々見てきた。今更夢想するようなモンもねえし、いいけどな。
「あー、女子どもはアンタの外泊を知ったらうるさそうだよな。不潔だなんだってぎゃーぎゃー喚きそうだぜ……それか目ぇキラッキラさせて根掘り葉掘り聞かれるかどっちか。そん時は紳士らしくちゃんと夢見させてやれよ?」
「うっ……やめてくれ、想像するだけで胃が痛い」
ぼやきながら、シュバルツァーは素早く踵を返した。
これ以上話し込んでたらそれこそ誰かに出くわしかねないって判断なんだろう。生徒に目撃されてでも予定を変える気配が微塵もないのが、おもしれーよな。ま、変にいい子ちゃんされるより、男としてはそっちのほうが理解しやすい。
「交換条件だな、帰ってきたら感想――おごっ」
「君はそろそろいい加減にしろ」
クルトに後頭部をわしづかみされて、息が妙な詰まり方をした。
は、何だこれ、ツボでも押さえてんのか? ちょ、声、出ねえんだけど。ヴァンダールの秘技かなんかか。
いやんなワケねえわな。
結局クルトは、シュバルツァーがドアの向こうに消えて、気配が遠ざかるまでオレの頭をわしづかみにしてた。放された瞬間、動脈にドッと血流が戻ってきたのがはっきりわかりやがる。おいおい、時間長かったらなんか色々ヤバかったんじゃねえのかオレの脳。
コイツの握力も相当なモンだよな……片手に一振りずつ真剣を持ってやりあうんだから、そりゃわかりきってたことではあるが。
「まったく君は……あまり人をからかうものじゃないぞ」
優等生らしく説教を始めるもんだから眉を寄せる。足だけは風呂場に向かいながら、オレは鼻を鳴らして反論した。
「だから、オレらは普通にしてただけじゃねえか。タイミング狙ったわけでもないのに、うっかり教え子に見られちまった教官サマが迂闊だったってだけじゃねーの。そうだな、あとは知らんぷりしてやれなかったお前と」
「…………それは、まあね。反省はしてるよ……一応」
反省するほどのことでもねえと思うが。だいいち遭遇するまでもなく、アイツが今夜その気満々だったってことは昼間の様子を見てりゃ誰でもわかる。たぶん本人も、薄々周りに気づかれてることは察してただろう。
んなバツが悪そうな顔するこたねえんだよなあ……
「まあ忘れろ、忘れろ」
繰り返してオレは隣の背中をバシバシ叩いた。「痛い」と文句が返ってくるが、いやさっきのお前の頭わしづかみのほうがよっぽど痛ぇから。しかも危ない。
「そうじゃないと……」
脱衣所の扉の前でオレは立ち止まり、正面から真剣なまなざしをクルトに向けた。
「今後ひたすら振り回されるぞ」
「…………」
虚を突かれたような表情は無邪気そのものだった。
きょとんと見開かれたその眼の中に、そのうちじわじわと理解の色が浮かぶ。級友は噛みしめるように一度まぶたを閉じて、開けた。
「肝に銘じよう」
「おう」
それがいい。うなずきあって、扉を開ける。
そうそう、何度言ってんだって感じだが。
バカップルには、首突っ込んだトコで無駄。
こっちが無暗に疲れるだけ、だ。
知らないものがあることも知りながら、わりと色々知ってますって顔してるアッシュ。
いろいろ考えながら、なんだかんだVII組みんな楽しくやってます。
的なものをリィアリ絡めつつ書きたかった話でした〜〜