丸くぽってりとしたマグカップは、ほかほかと程よいあたたかさを手のひらに伝えてきます。
揺れるコーヒーの黒い水面には白い湯気が立ち昇って、馥郁たる香気を寮のロビーに漂わせておりました。
ソファには見慣れた顔と、もう一人、お客様。昼間講義でお世話になったアリサさんも座っています。せっかくだからと夕食にご招待して後の小休憩――私たちVII組の女子にティータさんを加えた顔ぶれで、とりとめのないおしゃべりを楽しんでいました。
少々こちらの様子が気になっている方々もいらっしゃるようですね。下級生や他のクラスの女生徒だけでなく、男子生徒の視線もいくつか感じます。とはいっても気に留めるほどではありません、私たちは互いの存在を常に意識しながら楽しく共同生活を送っていますから。言ってしまえばいつものこと、です。
「はあ……やっぱり、目を覚ましたかったら紅茶よりもコーヒーのほうが向いているわね。香りもいいし、本当に美味しい。マキアスに感謝だわ」
今私たちがご馳走になっているのは、アリサさんがマキアスさんから分けていただいたというとっておきの豆を挽いたコーヒーです。いつもはマキアスさんから直接リィン教官に郵送されてくるものですが、今回アリサさんがリーヴスに来られるということで言づけられたのだとか。ちゃっかりご相伴にあずかりました。もちろん当人たちの了承は得ていますとも。
「アリサさん、あんまり顔色が良くないんじゃないですか」
私の隣に座っていたユウナさんが、マグカップを両手で持ったまま上目遣いに正面を見つめました。
「言われてみれば……照明でわかりづらいけど、確かに。えとえと、もしかして、ちゃんと眠れてないんですか?」
ティータさんも心配そうに身を乗り出します。つられて私とアルティナさんもコーヒーやお茶菓子から改めて彼女に注意を移しました。様子を伺うような視線を急に集めたからでしょうか、それとも元気に振舞っていたつもりが見抜かれてしまったからでしょうか。アリサさんは少したじろいだように肩を揺らしました。
「あ、ううん、大丈夫よ」
軽く片手を振る仕種こそきびきびしているものの、隠しきれない疲労は見え隠れしています。
「寝不足なのは本当だけど……本校と分校と続けて対応しなきゃならなかったから、どうにも突貫気味だったの。今日で一区切りついたし、二、三日はゆっくり仕事ができるはずだから」
ゆっくり休めるはず、ではなくゆっくり仕事ができるはず、ですか。
私たちもあまり人のことをとやかく言えた立場でないのは自覚しているのですが、RFの第四開発室の室長殿も、ワーカーホリックぶりはなかなかのようです。
ふと思いついて、私は顎に人差し指を当てました。
「アリサさん。よろしかったら、このあと寮のお風呂にも入って行かれませんか?」
「お風呂?」
ぱちくりと瞬く目にうなずいて続けます。
「はい。お聞き及びかもしれませんけど、この寮のお風呂は分校長のご趣味でとても快適に作られているんです。湯船も洗い場も広くてまるで温泉なんですよ。疲れをとるには最適なのではないかと」
「あ、それいい! もう少し話もしたいし! ね、アル」
「悪くはない、と思います」
ユウナさんが手を叩いて喜んでいます。アルティナさんもわずかに頬を緩ませて、銀色の髪を揺らしました。ティータさんもにこにこしていますし、誰も異存はないようです。
「そうねえ……」
楽しげな想像をなさったのでしょう、アリサさんはまんざらでもない風で、けれど少し考え込んでしまいました。
今回は寮に空き部屋がなかったため、ここにお客様をお迎えすることはできません。分校とはいえ、新入生も入ったことで寮は手狭になってしまいました。アリサさんは街の宿酒場に部屋を取られたそうです。お風呂に入った後に外を歩くのは、確かに気が引けるのですが。距離もそれほどではないですし、なかなか良い案なのではないでしょうか。
……と、ここで少し、悪い癖が出てしまいました。
ええ、後から思い返すだに、言わなければ良かったという後悔も出てくるのですけれど。だって、一緒にお風呂でおしゃべりしたかったのは本当ですから。
でもこの時は、好奇心に負けてしまったのです。
「うふ、たまには裸の付き合いというものも良いのではないかと……隅々まで、できれば痕跡も確認させていただきたいことですし」
「? えっと、ミュゼさん? 裸のつきあいはともかく、痕跡って……」
「それはもう、リィン教官の」
私はきゃっと一声嘯いて両頬に手のひらを当てました。
「ああ、これ以上は淑女として申し上げられません。察していただけると……だって、寝不足でらっしゃるのでしょう?」
「……は、はっ、はわわわ……⁉」
ティータさんが真っ赤になってぷるぷる震え出してしまわれました。あらあら、何を想像なさったんでしょう? ユウナさんも頬を染めています、アルティナさんは微妙に非難するような眼差しで私を見ていますけれど。皆さんお年頃ですものね、私が何を言いたかったのか瞬時に悟ってしまわれたようです。
「っこ、こん、痕跡なんて、そんなもの、あるわけがないでしょう……⁉」
音がしそうな勢いで身を引いたアリサさんは、手近なところにいたアルティナさんに全力ですがりつきました。
私から距離をとろうとしたのでしょうが、そもそも向かい合わせの私たちの間にはテーブルがあります。私は普通に座っているだけですし、つまりは、無駄な行動です。青くなったり赤くなったり。めまぐるしく顔色が変わります。
年上でらっしゃるのに、妙なところで照れ屋で純真なんですから。
「ふふ、可愛らしいかた」
「あ、アンタねえ……」
つぶやきを拾ったユウナさんが、半目になって私を睨みました。それには笑顔で返します。
可愛らしいかただと思っているのは本当です。好ましいと思っているのも本当です。
でも、少しだけ妬ましい気持ちもあるのです、確かにあるのです。私やエリゼ先輩が焦がれていたあの方を、虜にしてさらっていってしまったひと。
分校長の見立ては正しく的を射ておりました。いつだったかおっしゃっていましたね、リィン教官は、八方美人に見えてその実驚くほどに頑固で一途だと。きっとそういう手合いだろうと。
その後どういった方法で近づけば良いかなど子細に手ほどきしてくださいましたけれど、ええ、あの時点でもう教官の心はとうに決まっていたのですから。私たち雛鳥がどれだけ策を練ろうとも、それは徒労に過ぎなかったというわけです。
ひどいかたです。本当にひどいかたです。勝負する機会すら与えていただけなかったのですもの、お話になりません。出会う前にすでに他に捧げられてしまっていた心を奪うなどと、どうあってもできませんでした。
好意を口にしても、身体を張って誘惑しても。何の手ごたえも感じられず、逆に父親よろしく説教されてしまう始末です。
絆が揺らいだ瞬間を見たと思いました。それでもやはり教官は、隙など見せてくださいませんでした。頑固に、一途にひたすらアリサさんだけを追い続けていました。そうして再び、花のような笑顔を引き出してしまわれました。
寄り添うお二人は幸せそうです。見ているこちらまであたたかい気持ちになってくるのは事実です。
だからもう、割って入る気はないのです。
ただ、からかって遊ぶくらいは。それくらいは私に、私たちに許された権利ではないかと思ってしまうのです。単純に楽しいというのも、もちろんありますけれども。
「ね、寝不足なのは、本当に仕事だったからよ! 話だって少ししかできてないのに、そん、そんな、何言っ……!」
「うふふ……」
動揺が激しいですね。もしかして思い当たる節があるのでしょうか。「まさかあのとき……いえ、そんなはず……」って、しっかり聞こえていますよ。
さすがにそこまで突っ込むのは野暮でしょう。わざとらしいと自覚していながら、私は体をくねらせました。ついでとばかりにユウナさんに絡みつきます。ちょっとやめてよね、とつれないことを言いながら、彼女は私の腕をぺしぺしと叩きました。
「アリサさん、落ち着いてください。ティータさんも」
この中で一番年少のアルティナさんが、一番冷静でした。すがりつくアリサさんを宥めつつ、ティータさんにも水を向けています。任務で教官のパートナーをしていた経験は伊達ではないということでしょうか、無感動ながら無感情ではない瞳で場を収めようとしています。
「教官が不埒なのは今に始まったことではありませんので、特別話題にする必要もないように思います。それよりアリサさんにはもっと他にお聞きしたいことがありまして」
「……あ、アルティナちゃん。それはそれでリィンが可哀想だわ……」
「そうですか?」
アルティナさんは疑問にも思っていないようで、こてんと愛らしく首を傾げました。
ユウナさんとアルティナさんが、リィン教官に対して厳しめなのはいつものことです。
妹たちの愛情とでも表現すればいいのでしょうか、きっと教官自身理解はしてらっしゃることでしょう。時々もう少し手加減してくれとぼやいてらっしゃいますけれど。
そこは仕方がありませんね、妹というのは得てしてそういうものですから。姫様だって、オリヴァルト殿下には容赦がありませんもの。エリゼ先輩のようなできた“妹”にはなかなかお目にかかれないでしょう。教官が事あるごとに兄馬鹿を披露したくなるお気持ちもわかってしまうというものです。
「え、ええ……でもそうね、リィンの話はもういいわよね。アルティナちゃん、聞きたいことって何かしら? 私でわかること?」
未だ赤みの残る頬を隠すように、アリサさんは咳払いなさいました。なんとか話を誤魔化したいのがばればれですよ。
ですが、あまりいじめすぎてはユウナさんたちに睨まれてしまいます。何よりアリサさん自身のご不興を買いたいわけでも決してありませんので、おとなしく流されることにいたしましょう。私もアルティナさんが口を開くのを待ちました。
「……あ、はい」
自分で言いだしておいて、アルティナさんは何故か言葉に詰まっています。少しだけ寮の入口のほうを見て――その視線の動きに特に意味があったわけではないようですが――いつのまにか握りしめていたスカートの裾を放しました。
「あの、アリサさんは帝都でおね……じゃない、ミリアムさんと会ったんですよね? 一緒に行動したりはしたんですか?」
「ああ」
そこで私たちの間に笑顔が弾けました。
なんのことはありません、アルティナさんはしばらく会えていない姉妹のことが気になっていたようです。通信だけでは細かい様子はどうしてもわかりかねますものね。まあ、本当になんていじらしい。
「そうね、会えたといっても時間はなかったし、食事したくらいだけど……」
おしゃべりはまだまだ続きます。
女三人寄ればとは申しますが、ふふ、倍近く居ることですし。
私は満ち足りた気分で、ぬるくなったコーヒーを口に含みました。
再び持てるとは思ってもみなかった――何の打算も駆け引きもない、ただ私が私で居られるこの時間に感謝しながら。
すべてが思いどおり、というわけではないけれど、「学生時代」を満喫するミュゼ。