最初に目に飛び込んできたのは、やさしい金色だった。
ぱちぱちと瞬き。二度。そうしてその黄金が、何の色なのかを把握して一人納得する。
納得して――次に梓は、横たわったまま内心だけで首をかしげた。
これは髪の色だ。カーテンの隙間からわずかに差し込む朝日に透けて、きらきら輝くこの色は、見紛うはずもない彼女の夫の髪の色。
それはいい。婚姻を結んでから夫婦の寝室はひとつになった。とはいっても、べつに新しく作ったわけでもない。夫がもともと使っていた、私室からの続き間の寝台に一緒に入るようになっただけの話だ。
大きかったそれは二人で使ってもなお余裕があった。梓の私室もそのままだが、そういえば最近部屋の家具は机と椅子と本棚しか視界に入れていないような気もする。あ、あとは窓と(あれこれ家具だっけ? ともう一度首をかしげる)。衣装箪笥と。
要はベッド以外なんだ、とうなずいて、彼女は目の前に意識を戻した。
彼が隣に寝ているのはかまわない。結婚当初はどきどきするやら恥ずかしいやらそわそわするやらでこの先心臓が保つのかどうかそれはもう心配したものだが、とりあえず並んで寝っころがるだけなら慣れた。昨日は帰宅が深夜になるはずだと予告されていたので、無理せず素直に先に寝たのだ。梓が寝入った後に夫も寝台に潜り込んだのだろう。疑問を差し挟むほどの状況でもない。ただ、いつもと少し違うのは。
「……ダリウスったら……縮まっちゃってる」
梓はぽつりと呟いた。ダリウスは長身で、隣に立つと梓の頭は彼の肩くらいの位置にくる。今までの経験では覚醒して最初に目にするものといえば、相手の顔か――さすがに頬と頬がくっつきそうなくらい近かったときはどうしようかと思った――寝間着の色か、そんなところだったのだ。それが今朝は、明らかに頭の位置が低い。
そういえば首周りがやけにあたたかいと思った。少し視線を落とせば、彼女の肩口に埋まる白い顔が見える。羽毛布団は目の際までかかっていて、息苦しくないのだろうかと疑問に思う。昨夜は寒かったから暖を取ろうとして無意識にこんな体勢になったのかもしれない。改めて全身の感覚を探れば、わりとがっちりと抱きしめられているのがわかった。大きな身体を縮めて曲げて、抱き枕よろしく梓を抱えている。拘束と言っても過言ではない。そんな状況で熟睡していた自分、というかお互いがなんだかすごい。起き上がったら関節がばきばきいうのではないだろうか。
まあ、それはともかく。
梓は目だけを動かして時計を探した。時刻は折しも六時半、起床するにはちょうどいい頃合だ。ゆったり身繕いをしても朝食に十分間に合う。本音を言えばもう少し心地よい布団の中でだらだらしていたいところだけれど、今から二度寝すれば絶対に寝過ごしてしまう。朝ご飯は一日の元気の源、とても大事だ。食いっぱぐれるわけにはいかない。
「ダリウス、起きて。朝だよ」
起き抜けに大音量はよくないだろう。そう考えてちいさく囁いてみたのだが、反応はなかった。
それなら揺すってみようか。身をねじって腕の中から脱出しようと試みるが、拘束は緩まるどころかますますきつくなる。苦しくはない。しかし動けない。ダリウスの腕は絶妙な力加減でもってその中に梓を閉じ込める。
「ダリウス……ねえ、ダリウスってば」
やっぱり返事はない。が、彼女は眉をひそめた。
「ねえ」
一声かけて待ってみる。ぴくっと瞼が震え、けれど開かない。妙な確信が湧いてくる。梓ははっきりと一音一音区切って繰り返した。
「ダリウス。起きて。朝、だよ」
さすがに無視を決め込むのも無理があると思ったのか、うめき声が返ってくる。
「…………あと五分……」
「起きてるんじゃない。ほら、朝……」
「起きていないよ……あと五分」
首筋を金糸がさらりと滑った。
「や、ちょっ」
薄い皮膚に鼻先を擦りつけられる。色っぽさは微塵もない。緩慢で稚い、寝ぼけた子どものような仕種に、それでも梓の心拍数は一気に跳ね上がった。
反応に気を良くして喉を鳴らしながら、じゃれついてくるさまはさながら猫だ。頭の中では何を考えているやら、でも表情だけはさっぱり邪気がないのが逆に恨めしい。そうやっていつもいつも、彼女の翻弄される姿を見ては喜んでいるのだから、本当に、たちが悪い――
きゅるるる。
衣擦れに混じって、唐突に切なげな音が響いた。
二人同時に固まる。
次の瞬間、離れた。
梓は大急ぎでベッドの端まで行って、落ちるぎりぎりで踏みとどまった。まずはきゅうきゅうと鳴く腹の虫を根性で制する。暴れる心臓を抑えつけ、息を吸って。吐いて。急いでは駄目だ、また音が出るから。空気を飲み込んで紛らわせる。今できる対処方法はせいぜいそれくらい。
先ほどとは別の意味で、頬が熱くなるのを止めることができなかった。両手のひらで顔を覆ったところで、今しがた聞こえた音がなかったことになるわけではないのだ。引き攣った息遣いが耳に届いて、梓はうずくまったまま首だけで恐る恐る振り返ってみた。案の定、ダリウスはこちらに背を向けて身体をくの字に曲げている。
「……っ、……っあ、あずさ、っ」
どうやらツボに入ったらしい。必死で耐えてはいるようだが、ひゅうひゅう息を漏らして肩を震わせて、どう見ても吹き出すすんぜ「ぶはっ」吹き出した。
「ば、ばかっ! ダリウスのばか!」
「ごめ、あず、さ、」
「ダリウスが悪いんだから! 早く離してくれないから、だ、だからこんな……」
「ごめん、ごめん」
梓は衝動に任せてダリウスの背中をぽかぽか叩いた。正しく八つ当たりだ。嫌われるとか呆れられるとか、そんなことは思っていない。だがそういう心配は別として、空腹の虫を聞きつけられ夫に大笑いされる妻、というその図はどうなのか。……激しく間違っているとまでは思わないけれど。和やかさという点ではこれ以上のものはないのかもしれないけれども。
でも梓だって年頃の娘だ。恋い慕う相手にみっともない姿を見られるのは極力避けたい。ダリウスはその点申し分のない紳士で、見ないふり気づかないふりだってうまいのに。起きたばかりで頭が回っていないのかな、と若干失礼なことを考えながら頬を膨らませる。
「……ダリウス、笑いすぎ」
「ごめんよ、梓」
ようやく発作が治まってきたらしい。目尻に浮かんだ涙を拭い、伸ばされた指先は梓の手を取った。
「恥ずかしがらなくても、さっきのは梓が健康な証拠なんだから。楽しくてつい笑ってしまったけれどね」
元気な子は好きだよ。言い差して、甲に恭しく唇を落とす。現金なもので、それだけで気分はだいぶ浮上した。
「……本当?」
「うん。愛してるよ、梓」
「なら、許してあげる」
「うん」
ぼそぼそと。可愛くない言いぐさに、それでもダリウスは至極満足げに笑う。そんなふうに微笑まれると意地を張る気も失くしてしまって、結局素直になるしかなくなるのだ。