2.
 煉瓦街は相変わらずの人の多さだ。
 けれど落ち着かないのはそれが理由ではない。梓はそっと隣を見上げ、それから少し視線を落とした。
 ダリウスの、繊細だけれど大きな手と。梓のちいさな手と。指と指が絡んで、しっかりつなぎ合わされている。事実だとか状況よりも、とにかく人の目が気になって仕方がない。季節は冬、吹く風は身を切るように冷たいのに、手のひらから伝わる熱が全身に回るから、寒さが二人を避けていっているような錯覚さえ覚えてしまう。
 出会って惹かれて、結婚までした。それなりに時間は経った。でも慣れないものは慣れないのだ。
 彼女がもといた時代は平成で、男女のつきあい方に関しては割合寛容だった。もちろん寄り添って歩いていても奇異の目で見られることはない。ただし、そんな環境にあってさえ異性とあまり縁のなかった梓である。男女がみだりに同席するものではないという価値観が未だ生きているこの時代この世界で、ただでさえ目を惹く綺麗な綺麗な男性と仲良く手を繋いで歩いているだなんて。確かに何も疾しいことなどないのだが、これは本当に現実だろうかと、時折遠い目をしたくなることがあっても無理はないのだということにしておく。
 落ち着きなく目線を動かしていたのに気づいたものか。軽く引っ張られて、ダリウスのほうに寄りかかる形になった。均衡をとるために反射的に腕にすがりそうになり、慌てて踏ん張る。手だけならともかく、いくらなんでも街中で抱きつくわけにはいかない。
「梓? どうしたの」
「あ、ううん。なんでもないの」
 他意はなかったらしい。くっついていかなかったことに特に残念そうな顔をするでもなく、適度に潜めた声が落ちてくる。なんでもない、だけでは不足だ。言い訳というわけでもないのだが、ふと思いついたことが口から出た。
「ダリウス、はりきってるなと思って」
 それもまた、紛うことなき本心だった。彼は梓といるときは大抵上機嫌だが、今は特に顕著だ。出かけることにうなずいた、朝食の時よりももっと。周囲からの奇異や羨望、それだけでなくあまりいい意味を含まないであろう視線も向けられているのに――とにかく目立つから――意に介する様子もない。
「当たり前じゃないか、はりきるに決まっているよ。君をおおっぴらに飾りたてる数少ない機会なんだからね」
「数少ないって、うーん……そう?」
「少ないよ、少ない。慎ましいのは君の数ある美徳のひとつだけれど、梓はもう少し贅沢を言ってもいいんだよ? 服だってそれほど増やしていないだろう」
「それは、まあ。あまり必要性も感じないから」
 梓は曖昧に語尾を濁した。服や装飾品など、見るのはもちろん好きだ。買い物が嫌いな女性なんてそうそういない。ただ単に、自分のものにしたいとあまり思わないだけのことであって。彼女の行動範囲といえば蠱惑の森と帝都界隈で、そもそも改まった場所に出向く機会からして少ないのだ。
 そうだね、と穏やかに相槌が返ってくる。
「必要な時に必要なものを求められればいいね。俺も基本的にその考え方には賛成だよ。というわけだから、今日はがんばって着せ替えされてね、梓」
「う。が、がんばります」
 梓は意気込んで繋いでいないほうの手で拳を作った。
 数少ない機会が早速一月後にやってくる。帝都の華族や、徐々に形となってきた自衛団が中心となってちいさな夜会を催すことになり、そこに彼女たちも招待されたのだ。鬼と人の、公式な顔つなぎの場も兼ねている。
 先だってとは僕も立場が違いますし、あまり華やかな席で目立つべきではないと思うのですが。
 招待状を受け取った時、段取りを一部任されたのだという秋兵がぼやいていた。政が絡むとなると、どうしてもこういう催しは必要になってくるんですよね、と。適任ではあるが、彼にしてみれば複雑なことだろう。夜会といえば思い出すのは、彼の父である片霧清四郎が梓を担ぎ出すために招いたあの夜だからだ。なにしろ色々あったから。
 ともかくそういうわけで、購入するにしろ仕立てるにしろ、衣装は必要になってくる。そのために銀座まで出向いてきた。楽しみ半分、戦慄半分。夜会に関しては余計なことを考えても仕方がない。今は目の前の仕事に集中するときだ。何しろ買い物は体力を消耗する。特に何度も試着を繰り返すとなれば相当なもの。
 でも、必要性は抜きにしても、ダリウスに誘われれば梓はいつだって何のためらいもなくついていくだろう。好きなひとがあれこれ見立ててくれるというのを、断る理由などあるものか。このひとのことだから、いちいち可愛いだの綺麗だのとこちらが恥ずかしくなるほどの美辞麗句を並べて褒めちぎってくれるのだろうし。しかもそれらは、すべて混じり気のない本心だと信じられる。想像するだけで心が浮き立つのは当然のことだ。
 おばあちゃん子だった影響もあるのか、友人には散々年よりくさいと揶揄されていたものだった。そして自分でもそういう傾向はあると思っていた。けれど自身の中に存在する乙女心というやつに目を向けてみれば、やっぱり梓の中身も友人たちとそう大差はなかった。
「以前君が出席した、軍部の夜会ほどの規模ではないそうだよ。雰囲気ももう少し気楽なものにすると言っていたし、心配しなくても俺に任せてくれれば大丈夫だから」
「うん、それは心配してない。ダリウスって趣味いいもの」
 あのね、と続ける。照れくさい気はしたが、聞いておかなければいけなかった。
「どういう服装がふさわしいのかとか、私はよくわからないから……ダリウスの意見を聞きたいんだけど。あの、前にもらったネックレスがあるでしょう。着けていっても大丈夫かな」
「ああ……」
 梓のポケットの中には、いつもあの涙型のネックレスが入っている。傷がついたら嫌なので、ちゃんとハンカチにくるんで巾着に入れて持ち歩いている。身に着けているのではないにしても、ほぼ肌身離さず持ち歩いているせいで、何かお守りのような感覚にもなりつつある。
 そのことはダリウスも知っていた。破顔して、彼は何度もうなずいた。
「もちろん大丈夫だよ。ちょうどいいと思う。じゃあそのネックレスに合うようにドレスも考えようね」
「うん。……ふふ、嬉しい。他のお客さんと話題になったら、もしかして言っちゃうかも。夫からの初めての贈り物なんですよ、って」
「……梓」
 ふ、と。ひどく甘く名前を呼ばれて、梓は前に向けていた視線を声のほうに向けた。予想外に近い位置に顔があって慌てる。近い。近い近い。近すぎる。
 内緒話がしたいんだろうか。いやでも、そんな雰囲気でもないし。いやいや天下の往来でまさかそんな、それはもちろん自分としてはダリウスが求めてくれるなら応えるにやぶさかではないのだけれども、だって拒んだら拒んだで面倒くさ……じゃなくて、途端にしゅんとして落ち込んで、ただでさえ青い目がさらに蒼く悲しい色になって。梓としては彼のそんな顔は見たくないわけで、でも逆に応えたらそれはもう嬉しそうに笑うから、こっちまで幸せになって、だったら選択肢はひとつしかないよね、あ、でも周囲が見えない人ではないからからかってるだけかもしれないやっぱりさっさと手を離して逃げるべきかなって指抜けない指抜けないよ痛くないのに力入ってて何これ冗談なの本気なのどっち
「そこの道行く麗しいご夫妻」
 思考だけがめまぐるしく巡る。反面身体は動かない。
 そんな彼女に救いの手が差し伸べられたのは、まさにその瞬間だった。
 振り返れば知己が、さわやかな笑顔を浮かべながら片手を上げている。それからもうひとり、随分離れたところから、というか道の向こう側から青年が呆れた風で寄ってきているところだった。
 二人の間には妙に距離がある。そのことに対する疑問を口にする前に、追いついてきた青年が眉をひそめた。
「おい秋兵、いきなり走るな。見失うかと思っただろう」
「すみませんね、有馬。数日ぶりにお二人の姿を見かけたので嬉しくなってしまって」
 やり取りを聞くに、やはり秋兵だけ先に来たのだ。軍靴は硬くて、石畳の上では高く音が鳴る。それらしい足音など聞こえなかった気はするのだが、よほど秋兵の忍び足がうまかったのか、それともよほど梓が――ああ、理由など考えるのはやめておこう。
「こんにちは、秋兵さん。有馬さんも」
「偶然ですね。お会いできて嬉しいですよ、梓くん、ダリウス」
「やあ、二人とも」
「……邪魔をしてすまんな……」
「気にしないで」
 梓の挨拶に秋兵は朗らかに応じ、一は目線を合わせてうなずく。一はその後ダリウスのほうをちらと見て、居たたまれないといった体で低く詫び言のような台詞を口にした。肩をすくめる夫には、つい先ほど感じたぞくぞくする色はすでにない。
「邪魔をしてって、有馬。君、僕より先にお二人に気づいていたんですか」
「いや? 気づいたのはお前が走って行った方向を見てからだが」
「ですよねえ」
 気づいていたら謝るより先にお小言をあげそうです。
 さもありなん、と秋兵がうなずく。
 一はといえば友人の意図するところがさっぱりわかっていないのだろう。ただただ首をかしげるだけだ。そこに苦笑するダリウスが加わって、梓の頭の中にまず最初に浮かんだ感想は呑気にも、豪華だな、だった。
 人の流れの邪魔にならないように道の端に寄っても、注目は相変わらずまとわりついてくる。主に女性のうっとりした視線が多い。気持ちはわかる、背景こそ色々あるにせよここにいる三人は文句のつけようがない美丈夫だ。顔だけじゃない、背が高くて姿勢も良くて、立ち姿もさまになる。梓だって離れていれば遠慮なく眺めただろう。これもある種の眼福だ。……真っ只中に居るのは少々居心地が悪いが。ダリウスが手を離してくれないので仕方ない。
「君たちは巡回かい? 相変わらずまめなことだね」
「ええ。怨霊は出なくなりましたが、なにしろ帝都は人が多いですから。普段やっていることはあの頃とほとんど変わり映えしないんですよ」
「良きにつけ悪しきにつけ、軍の力が落ちている今は色々とな。治安の低下は免れているが、今後……」
「まったく、鬼と仲良く世間話か! 天下の“もと”精鋭分隊が腑抜けになっちまったもんだなあ!」
 流れてきた声に、青年たちは口をつぐんだ。
 こちらが話を中断したのに気づいているのかいないのか。ただ、聞こえよがしに大声を上げた男性を中心にさわさわとざわめきが広がる。耳をそばだてれば、入ってくる音は一様ではなかった。
「おい、よせ。聞こえてるぞ」
「かまうもんか。だいいち自衛団は帝都市民を守るためにいるんだろう。なら仕事は鬼を追い払うことだ、オレに手出しなんぞするもんか」
「あのな、そういう問題じゃなくて……」
「いやだ、鬼が歩いているの? 普通に? どうして隊長たちとご一緒しているのよ」
「あらそうなの、あの方が鬼? 西洋人かと思った。……でも、とても綺麗な殿方よ。いいじゃないべつに、むしろ目の保養だわ」
「そういやこないだ鬼についての本ってやつ、読んでさ」
「ああ、黒龍の神子様が書いたっていう。ありゃ、ガセかと思ってたら神子様と鬼が一緒にいるってことは本当か?」
「誰がどこにいようが、暴れ出さなきゃどうでもいいだろうに」
「軍も色々あったからな……」
 鬼にも軍にも。忌避の声、逆に無関心、好意的なものも決して皆無ではないのがまだしも救いか。
 少々、どころでなく相当に居心地が悪くなって、梓はつないだ手に力を込めた。
 そういえば、かつては精鋭分隊や千代と一緒に怨霊を鎮めて街を歩いていたのだ。こちらが意識していなくても、梓の容貌をある程度知られているのは当然だった。ダリウスだってそうだ、凌雲閣で戦う姿を見た人間はたくさんいるだろう。その際彼は力を隠し立てせず存分に振るった。素性を看破されても不思議はない。
 下は見ない、顔は伏せない。恥じることは何もないのだから。平気だ。梓は平気だ。でもダリウスはどうだろう。その瞳の色が気になって、つま先立ちで顔を覗き込む。
「心配はいらないよ」
 囁きは優しかった。
 言葉どおり、群青の瞳は午前の太陽を受けて明るく輝いていた。
 不躾な視線を向けてくる民衆を見渡してにこりと微笑む。少し首を傾けて、やわらかく。華やかな美貌に、女性だけでなく何故か最初に悪口を言い始めた男性まで顔を赤らめて黙ってしまった。
 ああ、本当に大丈夫。ほっとして、意識しないうちに詰めてしまっていた息を細く吐く。
 ダリウスは背筋を丸めたりなんかしない。そうだ、彼はいつだって胸を張って堂々と立っていた。種族を理由に厭われること、畏れられることに対する深い悲しみは見せても、自身の出自を呪う言葉など一度も聞いたことはない。鬼だから怖がるんだろうと梓を詰ったあの瞬間さえ、彼は、だったら人として生まれたかったなどとは決して口にしなかったのだ。
 気まずい空気は長くはもたなかった。
 日常が戻ってくる、ざわめきが戻ってくる。人々は毒気を抜かれたように散っていく。あるものは頭を振り振り、あるものは肩越しに振り返りながら。きゃーっとか黄色い声をあげて走って行ったのは女学生の一団か。
「君、自分の顔の使い所をよく心得ていますね」
 秋兵が息をつき、一がダリウスの肩を叩いた。
「……顔だけが理由ではないだろうが。まあ、大事がなくて何よりだ」
「ふふ、ありがとう。俺も少しずつ学習しているからね。そもそもうまく立ち回れる自信がなければ街に出てきたりなんかしないよ。前はともかく、今は俺の顔も素性もそれなりの人に知られてしまっていることだし」
 それよりすまなかったね、と続けられて、二人が首をかしげる。同時に同じ角度に首が倒れたものだから、偶然なのだろうが、仲の良さが見えるようでなんだかおもしろかった。
「巻き込むような形になってしまっただろう。梓と君たちがいてくれたから、俺は余裕を持っていられた。その点では心強かったけれど、今後自衛団への風当たりが」
「何を言っている」
 続けようとした言葉を遮られて驚いたのだろう、ダリウスはいっそ無邪気なくらいの表情で瞬きした。梓はといえば、驚きはない。ダリウスと一、互いの考えていることが、簡単に予想がつくからだ。
 理屈ではきっと、ちゃんと理解している。でもまだ実感が追いついていない。それが証拠にダリウスはきょとんとしたまま立ち尽くしている。
「過ちは誰しもが犯すものだ。過去は変えられない。だが俺は、お前という人物を買っている。迷惑だなどと思うものか、俺たちは同じだろう」
「……ええと、うん?」
 まあわからないよね。
 梓はこっそり笑いを噛み殺した。厚意と励ましは感じただろうが、今の台詞だけでは一が言いたかったことの半分も伝わっていないのではないか。
 秋兵が肩をすくめて笑った。目が合う。たぶん今、彼と梓は同じことを考えている。
「過去の君の行動は、どのような大義があったにせよ過ちだったと思っています。ですがその後、君は帝都の民のために文字通りすべてを懸けて邪神と戦いました。その気概は高く評価しています。そしてこの国を思う心も偽りなく同じだと信じています。だから我々はちゃんと仲間なんですよ。……こんなところでしょうかね、有馬」
「……秋兵!」
「うわ、ちょ、どうして怒るんです!? あ、照れてるだけか……うわ、勤務中ですよ有馬!」
「そうだ勤務中だ! 仕事に戻れ仕事に! ではな!」
 律儀なもので、一は一度軍帽をかかげてから走り出す。秋兵は秋兵で一の攻撃から逃げながらも挨拶は忘れなかった。さようなら! と明るく叫ぶ後ろ姿にとりあえず手を振って見送る。
 ダリウスはどこかぼんやりとしていた。
 頬がうっすら染まっている。肌の色が白いから、わかりやすいのだ。指摘はせず、梓は口許を緩ませたまま黙って彼の横顔を見上げた。
「…………同じことを繰り返すかもしれないとは、きっと思っていないんだね」
「当たり前じゃない」
 絞り出すように出た声は少し震えていた。気づかないふりで返す。
「私も有馬さんたちも、みんなダリウスのこと信じているもの。それにね」
 いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。店の場所はわかっているのだからと、繋いだ手を引いて梓は先に歩き出した。妻が夫を引っ張る図、というのは大正の世においては特異な構図かもしれないが、ダリウスはそんなこと気にしないだろう。
 手を引かれるままついてくる。足取りがどこか心許ない。成人男性というよりは幼い子どもを導いているかのようで、愛しさと同時に保護欲までもが湧き上がってきた。こういうところが、放っておけないのだ。
「もしも万が一、ダリウスがまた一人で思い詰めて走っていきそうになったら。私、全力で止めるよ。今度は離れない」
 かつてのように、距離を置いた状態であれこれ悩むことなどしないだろう。聞きたいことがあれば聞く。教えてくれないなら無理やり探る。体当たりで正面からぶつかるだけだ。今ならそれができる関係にある。
「私だけじゃなくてね、ルードくんたちや有馬さんたち、村雨さんも巻き込んで完璧な包囲網を敷いてあげる。絶対に逃げられないから」
「……そうだね。突破するのは無理そうだ……それはもう骨が折れそうだよ」
「ふふ、そうでしょう」
 手を繋いで街中を行く。変わらず見られている気はしたが、もうわずらわしいとは思わなかった。
 梓の、隣で。ダリウスが幸せに笑っていれば、ささやかな悪意程度は物の数ではないのだ。
...
(初出:2015.04.26 / 再掲:2015.05.16)