5.
 ストーブの中で、薪があかあかと燃えている。
 炎を眺めると気が落ち着くと言ったのは誰だったか。テレビで見たのだったか。かつての生活では日常的に接する火といえばガスコンロくらいだったから、いまいちぴんと来ていなかった。よく言われていたのはキャンプファイアーだったが、それは実際体験する前にこちらの世界に召喚されてしまったことだし。
 二度目の冬。薪ストーブの扱いにはすっかり慣れた。この炎の色にも慣れた。あたたかな空気が部屋の中をめぐり、うとうとと瞼を落としかけては首を振って意識を保つ。
「あれ、梓? まだ起きていたのかい」
 前触れなく扉が開いて、柔らかな声が耳朶を打った。ここはふたりの寝室だ、無礼などということはないが。それでも気になったのか、ダリウスは閉めた後の扉を申し訳程度にノックした。
「まだって、そんなに遅くないでしょう」
 カーテンを閉めているために正確な位置は見えないが、月はまだ高い。少しずつ削ぎ落とされていく眠気を自覚しながらベッドの上で膝を抱える。ころりと達磨のように転がってみせると、ダリウスは笑いながらソファにかけておいた梓のガウンを取り上げた。そのまま着せかけようとしてくる。寒くないからいいよ、と断ると困ったような顔をしたが、強くは勧めてこなかった。
「今日はあちこち行っていただろう? 疲れているんじゃないかと思っていたけれど、そうだね、まだ眠くなさそうだ」
「あたりまえ」
 ふたりしてストーブの前に座り込んだ。
 実はついさっきまで落ちかけていました、などとは口が裂けても言えない。単に夫の顔を見て目が覚めただけだ。
「だって、昨日はおやすみが言えなかったんだもの」
 彼の肩にかかっているタオルをひっぱる。ふかふかと白いそれは抵抗なく梓の手の中に落ちてくる。広げて、金色の頭にかぶせて。軽く、かき混ぜる。
「もうほとんど乾いてるよ」
「ほとんど、でしょう。ちゃんと乾かしてから寝なくちゃ風邪ひくよ、冬は特にね。……ダリウスの髪ってやわらかいから、寝癖とかはあまり気にしなくてもいいのかもしれないけど……」
「ああ、あまり気にしたことはないかな。櫛を通せばだいたい落ち着くし、そうでなくても髪油があればまあだいたいは」
 うらやましい。タオルで見えないのをいいことに、梓は仕種だけでため息をついた。
 梓の髪はふわふわの癖っ毛だ。けなされたこともあるし、褒められたこともある。ただ、人の目からどうなのかはひとまず置いておいても、まず何より始末が面倒で仕方がない。
 嫌いにならずに済んだのは、ひとえに幼いころから祖母が心底嬉しそうに、梓の髪はくるくるしていてとてもお洒落だわと囁き続けてくれたからだろう。でも彼女から見れば、祖母の流れるような直毛は優雅でとても羨ましかった。それともうひとつ切実な理由として、朝の支度の手間という意味も含め。
「俺は梓の髪がとても好きだよ?」
 ゆるく手を取られて、どきりと心臓が跳ねた。見透かされた風ではないが、動揺を押し隠して答える。
「そう? ありがとう。私はダリウスの髪のほうが好き」
「お互いないものねだりだね」
 それは少し違うような。内心で突っ込みを入れつつ、握られた手を抜き取る。タオルは椅子の背にかけ、手櫛を通してみる。やわらかい、けれど、湿り気を帯びているとき特有の頼りない感触は抜けてきている。
 指の間を通り抜ける金糸は、炎の赤を反射してきらきらときらめいた。
 きれい。きれい、きれい。
 何か急に嬉しくなってきて、梓は後ろからダリウスの首に腕を回した。頭を抱え込むようにして抱きつく。首筋に鼻先を押しつけると、ほのかに花の香りがした。
 なんのことはない、浴室に置いてある石鹸の香料だ。梓どころか、ルードハーネやコハク、政虎だって使っている。花の香りのする男たちってどうなのと――特に虎――思わないでもないが、ダリウスなら違和感はない。
「今日は甘えん坊だね」
 腕をほどかれて、引っ張り上げられた。万歳したところで、えい、と掛け声ひとつ、ダンスのように大胆な動作で梓と自分の向きを反転させたダリウスと、正面から向かい合う格好になる。
「どうせならこちらのほうがいいだろう? ほら梓、これからどうするの?」
「うーん、どうというか……どうしようか?」
 ダリウスは腰を落として、梓は膝立ちで。だから顔の高さは同じだ。いつもなら胸に顔を埋めるところだが、そのためにはかがまないといけないし。でもそれは何かもったいないような。
 両手で白い頬を挟む。彼女が次に何をするのか、好奇心を刺激されているのだろう。至近距離で見つめてもわくわくした気持ちが勝るようで、甘さは生まれない。そのぶん梓も冷静でいられた。右手の指先で前髪の生え際を掻き上げて。目尻から頬、最後に鼻を横からちょんとつついてみる。
 ふっと、急に視界が溶けた。
 気がつくと寝台の上にいた。空間移動したのだ。というか、普通に向かい合っていたはずのところを、いつの間にかダリウスを下敷きにする形になっている。慌ててどこうとしたが、腰を抱えられて抜け出せなかった。眉が八の字になっているのが自分でもわかる。彼は笑っているから、問題はないのだろうが。
 それでも聞かずにはいられなかった。
「重くない?」
「ちっとも。ちょうどいいよ、心地いいくらいだ」
「……なら、いいんだけど……」
 心地よい重み、というものは梓にも経験があるので、ダリウスが嘘をついているとは思わない。とりあえず落ち着いて見下ろしてみる。
 いつも見上げているから、見下ろす姿勢は新鮮だ。形の良い唇が、「おいで」と声もなく言ったのを確かに見たと思った。上体を倒す。ぽふん、と布地から空気の抜ける音がする。
「……ふふ。しあわせ」
 広い胸からは、少しだけ速い鼓動が聞こえた。たぶん梓の心臓も、同じくらいの速さで脈打っている。全力疾走したあとほどではない、階段を一階から二階まで上がったくらい。準備運動程度? これからもっと速度は上がる。この予感はたぶん、間違っていない。
「梓。顔を見せて」
「ん」
 そのままだと視線が合わせづらかった。ずりずりと身体をずらすと、ダリウスは少しだけ居心地悪そうな顔をした。でも伸びてきた指は止まらない。梓の頬を撫で、耳の輪郭をたどり、少し力を込めて――逆らわずに瞼を閉じる。
 そういえば、今日は一度もキスしてなかった。
 道理でなんだか寂しかったのだと、今更気づいた事実はすぐに思考の外に押し流される。やわらかく食むような動きは殊更にゆっくりでじれったい。やわらかくてあつくて、でも表面だけ。ほしいものがなかなか与えられなくて、梓は息をするのも忘れてダリウスにしがみつく。
「だ、り……んむ」
 隙間から名を呼ぶ。ようやく滑り込んできた熱を夢中で迎える。あつい。自分からも少しずつ角度を変えて、だってそのかたちを知りたい。ぜんぶ知りたい。宥めるように背中をさすられる。薄布一枚に覆われたその場所は、少しかたい手のひらが這うたびに正直に熱を上げていく。
 時によって梓よりも熱かったり冷たかったりする手のひらが、梓の熱を吸って同じ温度になる、その瞬間が好きだ。
「ダリ、ウス、ダリウス、すき。ねえ、もっと。もっと……」
「……梓。梓、あずさ、っ」
 鼻に抜ける甘さはふたりで作ったもの。耳に吹き込まれる吐息が熱い。身体が震える。名前を呼ばれるだけで血が煮えたぎって、ざわざわと頭のてっぺんからつま先までを駆け巡った。神経がちりちり悲鳴をあげている。焼き切れそうに白くなって、細くなって、そうなった果てを梓はいつも覚えていない。
 気づけば見上げる形になっていた。頭の両脇には二本の腕。檻のように屋根のように、堅固に梓を覆って閉じ込める。それでも感じるのは閉塞感ではなく幸福だ。あくまでやわらかく築かれた壁を、抜け出す気なんてさらさらない。それよりも目の前の大好きなひとをみつめるほうが忙しい。
 群青の瞳が欲を含んでゆらゆら揺れている。ストーブの薪が燃え尽きるのも近い。少しずつ赤が抜けて、青が冴えてきて。いつか見た湖の哀しみの色とは違う、温度の高い青い火が嬉しい。
 溶ける、とける。抱えきれないいろいろなものがあふれて流れて、でも零さず受け止めてくれるのを知っている。

 だいすきだよと、幼げに囁かれるのにわたしもだいすき、と舌足らずに返して。
 梓は夢見心地のまま、両腕をめいっぱいに伸ばした。
--END.
楽しかったです。たのしかったです(繰り返す)
ダリ梓はラブラブなだけじゃなくて葛藤もあると思うんだけど、っていうかルート的にはぶっちゃけ一番薄暗かった気もするんだけど、だがしかし萌える。
葛藤は置いといてもう思いきりいちゃついてもらいました。
えろい妄想も余裕ですよねっていう…だって結婚しちゃってるんだぜ…
ダリウスと梓は「愛してる」より「好き」「大好き」の使用頻度が高い気がします。というか冷静なときは使い分けできるけど切羽詰まると「だいすき」連呼しかできてないぽいあたりが幼げでなんとも可愛らしい…かわいらしい。
でもよく考えたら目覚めて一週間で結婚てすごいですね。まああれだ、梓は一年待ったし…「早くお嫁さんにしてほしいな」とか思いながら一年待ったし…だからまああの展開もありかなとか。
森チームと軍チーム、それぞれ仲が良くて見てて微笑ましいことこの上ないですねーそういう意味でも楽しかった。
(初出:2015.04.26 / 再掲:2015.05.16)