陽が徐々に傾いてきたころ。かさかさと鳴る落ち葉を踏みしめながら、梓は森の中を歩いていた。葉の落ちた枝の間から、橙色の光の帯が幾筋も差し込んでいる。それが椿や山茶花など、常緑樹の緑の葉に反射してあちこちを白く浮かび上がらせていた。
時刻はまだ、それほどでもない。けれど今の季節は暮れるのもあっという間だからと、早々にハイカラヤを追い出されたのだ。
寄り道せずにまっすぐ帰れと言われた時は、子どもでもあるまいしと反射的に言い返したくなってしまったが、結局素直に従った。
月の明るい夜に、森の奥深くをそぞろ歩くのなら別段不安はない。しかし周辺は知己以外も普通に通りすがる。無闇に人を疑いたくはないけれど、若い娘が暗い中をひとりで歩いていれば、要らぬものを呼びよせてしまうこともあるだろう。梓に最低限の危機回避能力が備わっていると信じているからこそ、過保護のきらいがあるダリウスも一人歩きを容認してくれているのだ。
同じような景色が続くように見えて、邸への道はちゃんと変化がある。慣れた足取りですいすいと進めば、ほどなくして瀟洒な建物にたどり着いた。
「あっ、梓さんだ! お帰りー」
足音を聞きつけたのだろうか。予想していた中ではなく、裏手に回る壁の向こうから高く結い上げた髪が現れる。梓は瞬きして、コハク、と彼の名を呟いた。
「ただいま。庭にいたの? 寒いのに」
森は街中よりも気温が落ちるのが早い。暗くなってからは部屋の中に引き上げて、火の前で温かいものでも飲みながらぬくぬくするのが何より至福だと思う。
まあ、コハクはその限りでもないようで、霜が降りる季節になっても相変わらず早起きで働き者だった。外にも厭わず出かける。案の定、寒くないのかとの問いに対してはにっこり笑うだけで特に言及せず、指を折って数えはじめた。
「えっとねー、午前中はちょっとお小遣い稼ぎにね。お昼に帰ってきて、薪割りして、お風呂掃除して。ダリウスさんに時間があったら花壇の様子も見ておいてって言われていたから、見て、今戻ってきたとこなんだ」
「そうなんだ。変わりはなかった?」
「うん、特には。球根はまだ土の中だし、覆いの下の芽も変色とかなかったし。あ、やることなかったから落ちた椿の花だけ集めて端っこに寄せといた。苔の上にぽとぽと落ちてたりすると綺麗なんだけど、この家洋風だからなあ。椿はともかく苔はあんまり似合わないよね」
こんもり花の山ができてるよ、と今来たほうを示すその仕種に、疲労はまったく感じられない。華やかな着物の袖を翻して笑う姿は元気そのもので、毎度のことながら感心してしまう。
「本当によく働くね、コハクは」
「うん! おれ、動くの全然苦じゃないし」
しかもにこにこと嬉しそうに動き回るものだから、掃除などを一緒にしているとあっという間に作業が終わるような錯覚さえする。ルードハーネが邸を維持する効率が随分あがったと言っていたっけ。敢えて閉めきったまま放ってある部屋もあったのが、手が回るようになったのだとか。それに伴って邸の中に差し込む光の量も増えて、全体的に明るくなったらしい。
「梓さんは夕ご飯の支度するんでしょ? 手伝うよ」
扉を開けながらそんなことまで言うので、さすがにびっくりして梓は両手を振った。
「ええ? いいよ、疲れたでしょう? ルードくんは下ごしらえまでしてくれてるんだから、ほんとにひと手間で済むんだと思うし……」
「えー、大丈夫だよ。おれ梓さんと一緒にお料理したい」
「けど」
「…………ぅおーい。お前ら、飯作るんじゃねえのかよ」
少しだけ開いていた隙間が一気に広くなり、のそりと大柄な男が現れた。「虎!」「政虎さん!」と口々に呼ばれても反応が薄い。コハクとはまた別の意味でちっとも寒くなさそうな顔をした政虎は――筋肉量の違いかもしれないと梓はこっそり考えている――欠伸を噛み殺す様子も見せずに親指で厨房のほうを指し示した。
「早くしろ。腹が減った」
「腹が減った、じゃないでしょ虎。手伝って」
「…………休んでろって言ってなかったか」
部屋に戻りかけていた背中が、それはもう面倒くさそうに振り返る。上下の瞼がくっつきそうだ。威圧的な物言いも、不機嫌な表情ももう慣れた。この程度の威嚇でいちいちびくつく梓ではない。心持ち肩をそびやかして彼を見上げる。
「休んでてって言ったのはコハクに対してだよ。たくさん働いたみたいだもの。でも虎は今まで寝てたんでしょう」
「当たり前だ」
「当たり前って言いきる政虎さんも政虎さんだよね……」
いっそ感心するよ、とコハクが苦笑する。
「話はそれだけか? じゃあ」
「……働かざる者食うべからず」
「あぁ?」
ばちばちと視線が交錯する。
梓は間違ったことは言っていない。政虎に向くのはもっぱら荒事や力仕事で、家事方面にはそもそも適性があるとは言えないけれども。だからといって放っておいてはルードハーネの眉間の皺が増えるばかりなので、少しでも矯正できる機会があればがんばってみようと、常々思っているのだ。
後ろめたい、などと殊勝なことを考える彼ではない。気弱に目を逸らすどころか肉食獣の体で、眠そうだった瞳が爛々ときらめいてきた。やんのかコラ、と視線が語っている。
もちろん受けて立ちます。そんな内心が伝わったのか伝わらなかったのか。緊張が最高潮に達した瞬間、間に鮮やかな赤が割り込んだ。
「もー! 余計なときに余計なケンカしないでよ! 二人とも、おれも手伝うから早く準備しちゃおう! みんなでやったほうが絶対早いから」
「……ちっ」
舌打ちには棘はなかった。肩越しににやりと笑んだ口許が見える。
「勝負はお預けだ。覚悟しとくんだな」
「わかった。でも私、負ける気はないから」
「……だから何の勝負なの……?」
脱力したように呟くコハクの声は耳に入ったが、二人ともそれには答えなかった。
正直自分でもよくわかっていない。義務感と意地に駆りたてられたことだけははっきりしているけれども。
たぶん政虎も同様で、難しいことは何も考えていない。売られた喧嘩は買う、くらいの認識だろう。べつに喧嘩を売った気はないのだが、そう認識されたのならそれでもよかった。
そういうものだ、と思う。
ルードハーネの指導は丁寧かつ的確だ。彼の薫陶の賜物で、梓も、食卓に出す許可を得られる程度のものは作れるようになっていた。
ただし、本日の夕食はいつもの人数の約半分だ。しかもうち一人は繊細な作業に向かないときている。うっかり皿を割られでもしたらたまったものではありません、と厨房最高責任者の声が聞こえてくるようだった。でん、と火口にそびえたつ大鍋から。
「……鍋ひとつしかねえぞ」
「あるじゃない、お野菜と……サラダ用だね、これ。あとパンと……軽く焼けばいいか……バターと小麦粉と牛乳ってことはシチューを作ればいいのか。……あ、でもこれだけかな。確かに品数は少ないね。お腹は充分いっぱいになりそうだけど」
「ンな訳あるか。足りねえよ」
「政虎さんには白米を食べさせておきなさいってルードくんが言ってたよ!」
いい笑顔でコハクがお櫃を運んでくる。蓋を開けてみると空っぽだった。一粒のご飯も残っていない。独特の粘り気だけが見えて、梓とコハクは同時に政虎を半目で見やった。
「軽いと思ったら、政虎さん……昼過ぎに見たときは半分以上残ってたよ……?」
「せめて洗っておこうよ、虎……」
「眠かったんだよ」
がりがりと首筋を掻いて言い訳ともつかぬ台詞を口にする。さすがにその声に眠気は含まれていなかった。まあ彼を責めたてたところで意味はない。それよりは動いてもらうのが先決だ。あーあ、と言いながらお櫃に水を注ぐコハクを視界の端に捉えつつ、壁からミルクパンを取る。
「じゃあ虎はお米を研い……野菜を洗ってちぎって盛って。コハクはご飯炊くのをお願い」
「はーい」
一番簡単そうな作業を割りふることにする。火加減の調節は無理そうだ。そういうことは器用なひとにやってもらえばいい。
「つーかシチューと白飯って……」
「仕方ないでしょー、政虎さん食べる量大すぎ。あ、シチューはダリウスさんとルードくんの分まで食べちゃ駄目だからね」
「あいつら帰ってくるの遅いんだろうが。わざわざ残しといてやんなくても」
よほどお腹が空いているのか。手だけはなんとか動かしつつ、政虎はぶちぶちぼやく。ちゃんと食べやすいようにちぎってね、と口を出しながら、梓は溶けるバターを見守った。小麦粉を炒める、ペースト状になってきたら火を止めて、粗熱が取れてから牛乳。うん、問題ない。
シチューなら、作ってすぐではなくても温めなおせば美味しく食べられる。ルードハーネがそれを見越してメニューを決めたのかどうかはわからないが、仕上げだけとはいえ自分が手をかけた料理はダリウスにも食べてもらいたいではないか。
「駄目だよ、残しておくの。どうせご飯でお腹いっぱいにしちゃうでしょ、政虎さん」
「……飯しかないならしょうがねえだろう……」
母親のような口調で大男をいさめつつ、コハクがちらっと梓を見る。軽やかに片目を瞑られてどきっとした。たぶん見透かされている。今更だが気恥ずかしい。
不平だけ並べ立ててもらちが明かない。割り切ることにしたのか、やがて政虎も何も言わなくなった。興味深そうに手許を覗き込んでくるので、見えやすいように少し身体を斜めにした。
見入る表情はわりに真面目で、いつもそうやって真剣に観察していればもっと色々なことができるようになるんだろうに、と思う。
狭い厨房は火のおかげもあってぽかぽかとあたたかく、外の闇も寒風もまったく寄せ付けなかった。