十年以上昔のことだ。
 いつも心にあるのかと、そう問われれば首を振る。
 普段は頭の片隅に追いやってちらと思い出しもしないこと。
 けれど、忘れない。
 決して、忘れられない。




故郷





 記憶にあったよりも、存外立派な街だった。
 大きな石でしっかりと組まれた外壁の隙間には、土が入り込んで野草が花を咲かせている。周囲はぐるりと掘割で囲まれて、水の中には丸々とふとった魚が涼しげに泳いでいる。水の澄み具合からしてどこか近くの川と直結しているのだろうなと、知識豊富な兄弟子がつぶやくのをぼんやりと聞いた。
 ふと隣を見れば、双子の妹がおぼつかない表情で街門を見上げている。彼女もやはり過去の記憶と目の前に横たわる現実との隔たりに戸惑っているのだ。そう確信できてようやく、彼は自分の周りの時間が流れ始めたように感じてぱちぱちと瞬きをした。
「マグナ……トリス? 二人とも、どうかしたの?」
 栗色の髪の少女が不思議そうに首をかしげる。やわらかな声に笑みを返して、マグナは彼女の背をそっと押した。歩き始めると、一瞬遅れて背後の二人も追いついてこようと足を動かした。
「ん。いや、覚えてたより大きな街だったからさ。ちょっとびっくりした。時間がたったんだなあって、改めて思ったりして」
「いくつのときまでここにいたの?」
「たしか、蒼の派閥に行ったのが七つになって少ししてだったから……もう、十三年? 十四年かな? そんなになるんだなあ」
 口に出してみてはじめてその長さがわかる。自分で一番古いものだろうと思っている記憶は四歳のときのものだから、実質この街をこの街として見ていた期間は五年にも満たないということだ。まあ、いくら監督役がいないとはいっても、幼い子どもの行動範囲などたかが知れているから、きっとこちらのほうには来たことがなかったというだけのことだろう。
「でもさ、いつだったか街のはしっこからはしっこまで歩いたことなかったっけ」
「えー? そうだっけ?」
 彼は、トリスからの覚えのない指摘に眉根を寄せた。
「うん。酒場のおじさんがさ、お駄賃やるからって届け物頼んできたことあったじゃない? あのとき、月夜の砂漠亭から自警団詰め所まで行ったんだもん。北と南のはじっこじゃなかった? あたしたちの足でも一刻くらいしかかからなかったんだよ」
「あー……あんときもらったアップルパイはひさびさのご馳走だった……って、じゃあ」
「時間がたって街が大きくなるのは別段おかしい話じゃないだろう。十年だぞ」
 他愛もないおしゃべりをすっぱりと断ち切ったのはネスティ。双子の兄弟子だが、珍しく黙っていると思ったら一刀両断してくださった。唇を尖らせて見上げてくる二人の視線などどこ吹く風といったふうで、地図に目を落とす。
 ……静かだったのは、街門を通る際にちゃっかり受け取っていた街の案内図を眺めていたからだったらしい。
「まだ夕暮れまでは間があるが……宿は押さえておいたほうがいいだろうな。アメル、一緒にきてくれ」
「あたしですか?」
 指名されるとは思っていなかったのか、アメルはきょとんとして自分の顔を指差した。ネスティがすばやく彼女に近づいてささやく。
「……十年ぶりの故郷だ。行きたいところがあるだろうし、僕たちには見せたくないところもあるかもしれない。……だろう?」
「ああ……そうですね」
 アメルは得心がいってうなずいた。派閥に引き取られる前、マグナたちがどういう暮らしをしていたのかは知っている。それでも、聞くと見るとではやはり違うだろう。何を知ったとて今更彼らに向ける目も気持ちも変わるはずはないけれど、その自信は揺るがぬものではあるけれど。その頃のことはあまり話題に上ることはなくて、ということは、あまり触れて欲しくないことなのかもしれない。
「マグナ、トリス。僕たちは宿を探しておくから、陽が沈む頃になったら……そうだな、街の真ん中に広場があるらしい。噴水もあるようだから、目印にはいいだろう」
 言外にゆっくりしてこいと言われたのだと悟って、二人はおとなしく首を縦に振った。
「気をつけてね」
 手をつないで走ってゆく紫紺の双子の後姿が幼い子どものように見えて、アメルはそっと胸をおさえた。








 やはり、街は大きくなっていた。
 街に入ってすぐ、南端にあったはずの自警団詰め所は中央広場の近くに移動し、月夜の砂漠亭もそう遠くないところに昔のままの姿であるらしい。道行く人が、そう教えてくれた。顔に覚えはない。年齢の割にあどけない風情できょろきょろとあたりを見回す二人を旅慣れていないと思ったのだろうか、その人は微笑ましそうに街の主要な施設の場所を語ってくれた。
「自警団に領主様の私兵も加わって警備をしてるからね。連携ができてなきゃ話にならんってことで、もっと大きな建物に合同で詰めてるのさ。それが、あれ。きっちり真四角の街で、東西南北には街門がある。大通りが街をだいたい四つに分けててな、道沿いに市が出てる。北東のブロックの真ん中は領主様の屋敷で、他のブロックのほぼ真ん中には宿がひとつずつ、そんでもって中央広場を囲むようにして商店。手っ取り早くものをそろえるなら広場がいいが、時間があるなら市のほうが楽しいと思うよ。値切れるしな」
 驚くほどの発展ぶりだ。十数年前までここは現在の三分の一ほどの規模しかなかった。道が舗装されているのも一部貴族の住む地域だけで、ほかは住む人の経済状況に合わせてこざっぱりしていたり、ごみごみしていたりとさまざまだった。雑然としていた。
 それなのに。
「……よそものが立ち入ったらまずい場所とかありますか?」
 できるだけやわらかい表情になるように苦心しながら、マグナは一番ききたかったことを尋ねた。しかし、予想に反して返ってきたのは気安い否定だった。
「んにゃ? そんなところありゃしないよ。街のどこもだいたい似たような感じだし、聖王国の端っこにあるにしちゃ治安もいいらしいしな。若い娘でも通る道さえ気をつければ夜出歩けるくらいだ」
「じゃあ安心ね」
 トリスがいかにも若い娘らしく胸をなでおろす仕種をした。彼女の内心を知らない案内人は、笑ってうなずく。
「まあ、そういうこった。旅人にも親切な街だからね、楽しんでいくといい。それじゃあ!」
「ありがとうございました〜!」
 背中が見えなくなるまで手を振って、それからぱたんとおろす。
 しばらくの沈黙をはさんだ後、二人はどちらからともなく顔を見合わせた。
「……なんかさ」
「……うん」
『ぜんっぜん違うよね』
 重なった声にも笑い出してしまうことはせず、改めて周りを見渡す。
 いい街だと、手放しでそう思う。先ほどの住人もそう思っているのだろう、言葉の端々に誇らしげな響きがこもっていた。
 時間があれば、人は変わる。街も変わる。ここが二人の生まれた場所であることに変わりはなくて、つらい記憶を孕む場所であることも変わりはなくて。
 そのはずなのに、広がる違和感はやはり拭い去ることができない。トリスは一度は離していたマグナの手を、また握った。
「……ねえマグナ。あたしおなかすいた」
「…………そうだな。俺も」
 本当に言いたいことはそれではなかった。思うところはたくさんあったのだけれど、二人は黙って広場の北東に歩き始めた。目指す方角からは香ばしい香りが漂ってきていた。








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(2004.05.13)