いつか終わりが来るのなら、その引き鉄に指をかけるのは自分。
漠然と、そんな予感があった。
「好きです。ユーリが、好き」
ぽろりと漏れてしまった言葉が、まるで他人のもののように耳に届いた。
しまったと思ってももう遅い。一度口をついて出た声は確かに空気を震わせて、確かに彼に届いてしまった。
添えられた手のひらがぎくりと強張った。今の今まで楽しげな光を浮かべていた瞳は大きく見開かれ、その中心には泣きそうな顔をした自分が映っていた。
澄んだ黒曜に、窓から差し込む月影が微細な揺らぎを生んでいる。彼はよくエステルやフレンの鮮やかな色味の目を宝石みたいだと言うけれど、黒だってとても綺麗だ。一色だけに見えてそうではない、そのときによって灰色に見えたり茶色に見えたり紫色が混じっていたり。どぎまぎするけれど、近くで眺めるのはとても好きだった。それを許されているのが、特別扱いされているようで誇らしい気分になることもあった。
「……エステル」
頬を覆っていたあたたかさが離れていった。未だに熱を持っているその場所も、数瞬後には本来の温度を取り戻すだろう。目尻をひりひりと焼く熱さが、ついには零れて一筋流れて。濡れた部分がすうと涼しくなるのがわかる。
ユーリは逃げはしなかった。エステルを真正面から見つめ返して、かすかに――本当にかすかに苦しげな息を吐いた。
「ごめんな。……オレの好きは、種類が違うみたいだ」
「はい」
「好きか嫌いか、どっちかって聞かれたら迷うことなんてないけど。おまえが求めてるものは、違うんだよな?」
「はい。……はい」
込み上げる何かを飲み込んで、唇を引き結ぶ。そんなの初めからわかっていた。そうだ、だから伝える気などなかったのに。
いつからか気づいていた。
この想いは彼に悟られている。けれど彼は知らないふりをしている。
理由はごく単純なもの。受け入れてくれる気が、ないからだ。彼から自分へ向けられる好意はその大部分が慈しみで、言わば娘や妹へ向けるような類のものだった。突き放すようなことも厳しいことも言うくせに、それでいてくるみ込むような愛情は彼女を傷つけることをよしとはせず、故に長いこと中途半端な状態が維持されていた。
想いを口にしなければ、伝えさえしなければ、ふわふわと夢見るような心地のままで、ずっとやさしい世界に遊んでいられる。
同じ強さで激しく愛されないことは寂しくつらいけれど、できうる限り精いっぱいに大切にされているのだと、そう認識できることは確かに幸せだった。
わかっていた。エステルさえ己を保っていられれば、このままごとのような関係はずっと続いていたのだ。いつしか互いに伴侶をみつけ、それぞれ別の道を歩んでいくのだとしても。ずっとずっと、それこそ凛々の明星と満月の子のごとく。
でも、やさしい時間は今、終わってしまった。
エステルとて生身の女だ。好いた男にことあるごとに触れられれば、胸の奥は痛みに疼く。期待するなと言い聞かせても、理性で感情を縛りつけられるのなら苦労はしない。あきらめたはずの気持ちは少しのきっかけで浮き上がり堰を超えそうになり、慌てて押しとどめては安堵して、また深く沈める。繰り返す、何度も。
これからもずっとそうして生きていくつもりだった。だって誰にも迷惑はかけてない。秘めてさえいれば咎められることはない、だから。
だから、と思っていたのに。
「ごめんなさい」
新しい涙は溢れてこなかった。それどころか目許は冷えて乾いて、いつもの状態を取り戻していく。
「せっかくユーリが気を遣ってくれていたのに、わたし、台無しにしてしまいました」
「オレは、べつに、」
「あ、ごめんなさいじゃないですよね」
遮って、エステルは笑みを浮かべた。唇は自然に弧を描いて、想像していたよりもずっとうまく笑えたことに自分で驚いた。
予感していたのかもしれない。いつかこんな日が来ることを。漠然と想像して、ありえないことだと掻き消して、でも頭から消えずに。心の中で、無意識に予行演習をしていた。
「ありがとう、ユーリ。はぐらかさずにちゃんと答えてくれて。わたし、優しくしてもらえてずっと幸せでした。大丈夫、ユーリに迷惑はかけません。心配もかけません」
「エステル」
この期に及んでユーリは自分に甘い。慰めようとしたのか、頭に伸びてきた手を少し動いて避ける。無意識だったのだろう、彼ははっとしたように自身の手を見つめ、ゆっくりと握り込み――引き戻した。
「わたし、強くなったんですよ? だから大丈夫です。何も変わりません。今までどおりです。ね?」
「……ああ」
うつむいた面がさらりと髪に覆われる。けれどそれは一瞬のことで、彼はすぐに顔をあげた。
拒絶されたからといって、永遠に別れる気はエステルにはさらさらない。恋人になれなくても、そもそも二人はともに戦った仲間だ。そして、変わりつつある世界を眺め、激動の時代を生き抜く人々のために働く同志でもある。私生活はともかく、互いに仕事をしていればどこかで顔を合わせることになるのは必然のこと。しばらくは多少気まずいかもしれないが、そのうち慣れてこの痛みも忘れていくだろう。
本音を言えば、触れるのは少し控えてほしいのだけれど。でもユーリは傍若無人に見えて、一度懐に入れた者に対しては細やかな気遣いを見せる。口に出さずとも、エステルの望むように振舞ってくれるに違いない。
だから彼女がすべきは、一刻も早く立ち直って、元気になることだ。ユーリに心配をかけず、再び屈託なく笑いあえるようになることだ。
「とりあえず、今日はもう帰りますね。次会うときはお城ですか」
「だな」
一月後にはザーフィアス城で会合が開かれる。帝国の主だった人物とギルドの幹部が一堂に会し、会議と会食を予定している。
本来であれば帝都の警備は騎士団に一任されるべきなのだが、事態の特殊性も鑑みてギルドとの共同警備が決定した。その中にユーリたちの所属する凛々の明星も含まれているのだ。
全体の指揮を執るのは騎士団長であるフレンと、橋渡し役として走り回っているレイヴン。フレンだけであれば反発もあったのかもしれないが、もともとドン・ホワイトホースの右腕として顔を知られていたレイヴンが加わることで、打ち合わせも訓練もおおむね衝突なくうまくいっているらしい。
仕事の話を聞いて落ちついたのだろうか。ユーリは表情を和らげてうなずいた。扉を開けてくれるのに礼を言って外に出る。箒星の通路でうずくまっていたラピードがのっそり起き上がり、エステルを一瞥して部屋に入っていった。
「それではユーリ、また」
「ああ、またな」
何事もなかったかのようにあいさつを交わして手を振る。室内に消えた彼の背中を見送って、階段を下りる。軽やかに、弾んでいるように。足音だけ聞けばご機嫌だと思われそうな。
黄昏時は過ぎ、空はもう暗かった。弱めの街灯がぽつぽつと道を照らしている。
いつもなら城まで送ると言って聞かなかっただろうに、そんな台詞ひとつ出なかったということはやはりユーリも多少動揺はしていたのだろうか。いやそれは当たり前だ。恋愛感情でなくとも、エステルを傷つけたくないと思っていたのは本当なのだろうから。
「……わたしは、だいじょうぶです」
ちいさくつぶやいて、エステルはきゅっと両のこぶしを握りしめた。
言いたくなかった。言わなければ、ずっとこの想いを抱えたまま生きることを許されていた。
でももう、駄目だ。後悔したって始まらない。あったことをなかったことにはできない。口にした言葉は喉の中に戻って消えてはくれない。
なら前に進むしかない。振り捨てる勇気は未だ持てないけれど、何年かかるかもわからないけれど、いつかこの想いを昇華する。でなければ彼女を心配したままのユーリもいつまでも幸せにはなれないし、ヨーデルやフレン、リタやほかの面々も心穏やかではいられないだろう。
「わたしはだいじょうぶです」
だって、涙も出ない。
本当は泣きたい。わんわん泣いて、誰かにすがって、愚痴や悪口をぶちまけて八つ当たりして――そうしたらきっと、胸の中に鉛のように残る重い塊も溶けて流れて消えてくれるのだろうに。
ああでも、この塊が涙の通り道を塞いでくれているのかもしれない。それならそれで、好都合だ。
泣けば心配される、気遣われる。けれどそれはエステルの本意ではない。誰にも心配はかけたくない。泣きたいけれど、笑って、笑って、笑っていれば、それはいつしか本当のことになっているのだ。記憶も残らないほど幼いころからそうやって生きてきたのだ。
わたしはつよい。わたしはだいじょうぶ。みんながだいすき。
即興で鼻歌を歌いながら、エステルは長い坂道を踊るような足取りで歩いていった。長く伸びた影だけが、彼女に従い後をついていった。
うっかり距離感間違えたユーリとうっかり口を滑らせたエステル。